郷土千葉の最東端の海辺に誕生した

尊敬するその方は、当時起こっている天変地変、飢餓、疫病などの原因は「人々が誤った世界観を持っているためだ」と言い切った。
つまり、多くは人災だと言うのである。
たとえて言えば、「身体を曲げていれば、影が曲がっている」ように、「正しい世界観を持たなければ、あらゆる判断に誤りを生じてしまうのだ」と強く主張した、、、、、、、。

思えば、その方は15歳の時に千葉の田舎の学府(安房国長狭郡東条、、清澄寺)から大志を抱いて、当時の政治の中心地大都会の鎌倉に修学に出る(1239)。わずかなツテはあるものの、金なし、家柄なし、縁故なしの秀才少年にとって、大都会は刺激的であったが、権力の壁は厚く、腐敗混乱した社会は、純情多感な少年の心に挫折感にも似た心境と,屈折と言えば言いすぎだが、強い怒りを残したであろうことは想像できる。
少年の父は、、源平合戦で平家側として戦い、、敗れている、、。

(※その方の修行を経済的に支援したと思われる、、清澄寺檀家、鎌倉の領家の尼(北条朝時女房:名越氏)御家人、下総の太田殿、曽谷殿など姻戚に関しては別途調査)

一方で、新たな都、、鎌倉新政権の活力と混沌とした世状に、若者は漠然とした期待感を抱いたに違いない、、平家から源氏の時代に、、大きく政権が代わって(1185)、、50数年が経過していた。

(※承久の乱と武家政治の確立に関しては別途記載)

すでに権力と結びついて、強大な力を持つ既成宗教、そして跋扈として沸き起こる鎌倉新宗教。
治安は乱れ、腐敗しきった社会はやがて起こる転変地変、飢餓、疫病の地獄絵のような不幸を予測させていた。
「こいつ等が国を滅ぼしている!」
と強く実感したが、今の少年の力ではどうにもならない。
19歳まで4年間の修学して後、千葉の清澄に戻るが、すでに決心はしていた。
画像
すぐさま、故郷を背に時の最高学府である、比叡山に修学に向かう。
当時の叡山は、、修学徒が3千人居たと言われている、、
合わせて高野山、三井の円城寺、京都、大阪の四天王寺、などを訪れ修学研鑚すること12年
ある確信を得て故郷に戻ったのは31歳の時であった。

(※その方の天台沙門としての法華経復権活動は別途記載)
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自宅から1時間半、、、最近は人気の観光地となった「川越」に行く、、、 すごい、、人気の「蔵通り」「お菓子横町」は足の踏み場も無いほどの人ごみ、、、 外国人も多い、、 30年ほど前になるが、、、サラリーマン時代、、地元埼玉県では有力な地場企業...

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「あの方」が12歳(1253)で、故郷の安房小湊の清澄寺に登ってから、、ここを離れて、、鎌倉に留学するのは16歳のときである。 鎌倉へは房総半島の港から船に乗り、、三浦半島に渡るが、、この航路は幾度も使っていたであろう。 現在、、浜金谷から...

その時から
「どんなことがあろうとも私にはこの日本を救う使命があり、今その確信がある」と強く意識
建長5年(1253年)4月28日
清澄山の山頂、旭の森にたって、水平線から爛々とのぼりたつ太陽に向かって立宗宣言する。

「明らかなること日月にまさるものなし、清きこと蓮華にまさるべき、ゆえに日輪と蓮華、、、日蓮と名乗る」
「邪法を捨てよ」でなければ「国は滅び、人は地獄に堕ちる」と過激に説くその方に、「おのれ、言わせておけば」と地頭の東条影信が切りかかる。

(※東条影信:御家人:北条重時の家来で主君重時は念仏宗であることも背景にある)

清澄寺と故郷妙の浦を追われたその方は、鎌倉の名越、松葉ガ谷の草庵に移り、天台沙門を名乗る仲間の日昭らと法華経復権を旗印に激しい言論戦の日々をつづけます。

(※比叡山遊学時代の学友日昭は、あの方の立宗宣言以降には一番弟子となる)
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じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑧ 材木座(zaimokuza) 浜土流 実相寺
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<鎌倉材木座海岸の海の家でビール> 鎌倉の材木座海岸、、、、、 名称は鎌倉時代に鎌倉七座(米座、相物座、博労座、炭座、材木座、絹座、千朶積座)という商工組合があり、これに由来する。(Wikipedia) 1953年に、鶴岡八幡宮の一の鳥居と...

青年は燃え上がる心中で誓った。

「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ、、、」

波乱万丈の一生が始まったのである、、、、、、、、、。

建長8年より、まさに転変地変、疫病、飢餓と災いがつづき、正嘉と改元した年には鎌倉は震度7の大地震に見舞われる。鎌倉の建物はほぼ壊滅状態となり、この世の終末を思わせる災害はなお数年続いたのです。

その方の燃え滾る情熱、危機感と信念は更に高まっていった。
文応元年7月( 1260年  )39歳のとき、ついに幕府に対して諫曉(建白書を提出)する。

「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変、地夭、飢餓、疫癘が遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨道に満てり、、、、、、、、。」

なぜ、このような生き地獄とも言うべき惨状になるんだろうか、しかも、この先に他国侵逼難(外国からの侵略)も予言される。どうすれば、この災いを逃れられるのか。「原因は正法に背き、悪法を信用することにある、心をあらため、速やかに実成の一善に帰せよ」と断言する。

「立正安国論」である。

現在の原稿用紙にして37枚の中に、問答形式で疑問を投げかけ回答し結論に導き、いっきに国の政策転換を図ろうとしたのです。

(※立正安国論:文章校正にあたり、比企大学三郎(能本よしもと)、上申にあたり寺社奉行の宿屋入道光則の手を借りている)

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ジーさん徘徊 富士周辺--③  岩本実相寺一切経蔵
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<岩本山の上にも茶畑が続く> 「日昭さま、、お師匠さまは、、ご病気になられたのでは、、」 日朗は、雑草を抜き、周囲の石をこまめに除いていきながら、、伯父の日昭に語りかけた、、 「どうして、そのようなことを、、夢でもみたか」 日昭は、、法衣の...

(※比企能員の変:頼朝の乳母の家系を持ち将軍源頼家の外戚であった比企能員(よしかず)とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた。能本(よしもと)は能員の末っ子で上総に一時避難して後、京都で出家して難を逃れた)

しかし、時の執権北条長時の父時頼に黙殺されたばかりか、松葉ガ谷の草庵を襲撃され、九死に一生を得て下総の富木殿の屋敷(後に千葉県市川市の中山法華経寺)に逃れなければならなかった。

命を落としたかもしれない、しかし、その方の獅子吼のごとき説法はつづきます。
その不借身命の勇敢な姿は、僧侶だけではなく武士の心を捉え、武士の弟子も徐々に増え始めます。

(※北条時政、政子の鎌倉幕府支配と御家人の分裂、事務方役人の権益拡大など別途調査)

ついに恐れる幕府からの処断が下されてしまう。伊豆へ流罪。

3年後に赦免され翌年故郷の小港に帰郷するが、今度は地頭東条影信の数百の兵に襲われる。同行者の弟子に死者を出し、その方も額を割られ、左腕を折られるが、殉教の気概は衰えないばかりか、更に確信を深めていく。

(※地頭東条影信と鎌倉の領家の尼との領地紛争と領家の尼を弁護するあの方の領地裁判の勝利は別途調査)

文永5年(1268年)蒙古の使者が来朝する。
他国侵逼難の予言が的中したのである。

幕府の弾圧をも覚悟して、公場法論を挑むその方は破邪顕正の言葉を緩めない。

(※2回にわたる蒙古襲来と神風通説については別途記載)

文永八年九月、権力と結託する認性(良観)らは偽書によって「小庵に武器を蓄え、凶人を置いた」などの告訴をし、その方を逮捕させ、鎌倉の小路を引き回し、夕刻に幕府は佐渡流罪を決定します。

佐渡流罪を口実として、実は処刑場の龍の口で断首をはかるが、不思議にも難を免れる。

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じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑤  長谷 (hase)
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文永八年(1271)9月12日、、真夜中、、 「あの方」は、、馬に乗せられ、、護送の兵士に囲まれて、、小町大路(komachiooji)を南下、、やがて右折して 西へ向かった、、、 鶴岡八幡宮からまっすぐに海岸に向かって伸びる表参道「若宮大...

(※比企大学三郎能本と御家人安達泰盛があの方の助命に尽力したことの記事は別途記載)

そして、極寒の佐渡へ 、、、、その方はこの時50歳でありました。

極寒の佐渡で、死に直面している自らよりも弟子を案じ、国を案じ
数々の書を執筆し、厳しさの中で新たな開眼をしたことを弟子に発信し続ける。
また、法論に挑もうと訪ねてくる地元の知識人を論破し、改宗をもさせてしまう。

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佐渡へ---②(塚原問答)
「あの方」が鎌倉街道を通り、依智(厚木)の佐渡守護代、本間重連の館で28日間滞留された後、文永8年10月10日ここを立ち、、難渋18日間の旅の先に、、新潟「寺泊(てらどまり)」に護送され、、、荒海を超え、、、、1271年11月(旧暦文永8年...

朗々と獅子吼するのです。
いま時は「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」、釈尊の法典、既存の認識が全て崩壊する時代
「末法の世」である。

「我れ日本の柱とならん 我れ日本の眼目とならん 我れ日本の大船とならん」
<開目鈔>

「私には日本を救う、いや世界を救う使命がある。」

すでに、、、伝教も、、、、天台をも越えた、、、、、、、、のだ。

「明らかなること日月にまさるものなし、清きこと蓮華にまさるべき、、、、」
青年時代の誓いを終生通した
郷土千葉の東の端の海辺で誕生した、この方の生き様に涙を流さずにいられない。
超人とも言うべきこの方を、聖人、大聖人と呼ばなければなんと呼べばいいのでしょうか。

下総地域では、 筆頭の日昭(下総海上郡)、日朗(身延3祖、平賀(東葛)日照の甥)、日向(身延第2祖、安房国男金)、日像(京都開教の祖、平賀(東葛)
冨木常忍(八幡郷)、大田条明(八幡郷)、曽谷教信(八幡郷)、が門下となっている。
この方たち半数が、私の自宅から歩いてもいけそうな場所に住居があった。
(※千葉県市川市、松戸市に集中)
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じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑪ 金沢百景 二子浦~六浦 船中問答
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JR総武線下総中山駅と西船橋駅の中間にある地名「二子(船橋市)」であるが、、、かっては、「市川砂州」と呼ばれる低湿地帯に面していたらしい、、、そして海岸線は、この場所まできていたのだ、、この「二子浦」から千葉氏被官の冨木常忍の館までは、現在...

身池討論(1630)国家権力との迎合
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1カ月まえになるが、、、 紅葉真っ盛りな、、松戸市平賀の本土寺に行ってきた。 本土寺の紅葉観賞は2回目であるが、前回は門前の漬物屋と白いお洒落なcafeでお茶をしたことしか記憶に無かったので、、今回は深入りする、、、。 平賀の本土寺は、千葉...

しかも、池上で入滅の際に「後継」を託された「六老僧」のうち4名(マ)が含まれる、、、、。

その方の入滅後、弟子達の勇猛果敢な布教活動によって宗派は大きく興隆する。

後継を託された6名のうち地元4名の活躍もさることながら、外の2名、日興、日持こそ実は注目されるべき存在で
一人は富士へそしてもう一人は蝦夷から大陸へと渡り、海外伝道へと進み消息不明となる。
あの方の壮大な心を継いだのではないかと思ってしまうのです。

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★関連付記★
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※6老僧:  日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持
※日頂(駿河、重須)は一時、冨木常忍の養子として中山に住すが離縁し重須へ戻る(1293)
※日昭、日朗、日向が下総地域出身、日興、日頂、日持は、遠州駿河地域出身
※その後、、下総と遠州の2地域出身者に微妙なずれが、出てきていないのか?(日頂の隠遁、日持の疾走、日興の身延離山、、、調査したい)

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六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー②
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■真間釈迦仏供養逐状(真間仏供養抄) 冨木殿(1215-1299:富木五郎左衛門尉胤継:千葉氏被官:出家して常忍) は、真間の「御所領堂」に釈迦仏を建立したことを「あの方」に報告した、、。 それに対する返事が「真間釈迦仏供養逐状」健治3年(...

※日持上人伝説
日持は、池上本門寺にて師の13回忌を終えた後、翌年正月、、絶ちがたい師への思いを抱いて、駿河の国、松野の連永寺をあとに、一人法華弘通の旅に出る、、、、、途中、、、、思いを確認するように佐渡に立ち寄る、、、、その後函館に足跡を残している、、、北海道布教の後、、ひとり大陸へと旅立っていった、、、。

函館近郊の地名、椴法華(とどぼっけ)は、日持上人が大陸に旅立った場所として唐渡法華(法華の僧が大陸に渡ったという意味)と名付けられたと云われます。また、魚の「ホッケ」は日持上人の伝説にまつわる名前と言われています。

市史余話 45 函館に来たのであろうか? 謎の海外伝道者・日持
404 Not Found

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※何故、静岡に強信な弟子がいたか

その方の父の系譜は、「貫名(ぬきな)」と言われています、、ある時期に「遠州」から房総に流配(追放、流民?)されたという説がありますが定かではない。
画像
<袋井市にある妙日寺は貫名氏の館跡と言われる、、貫名次郎重忠は、源平合戦で平家側として戦い敗戦、、鎌倉幕府により、安房の国小湊に流配されたと言われています>

※貫名次郎重忠は、、「その方」の父の名前です、、、。

「遠州」は静岡県南部地域の旧名で、今でも遠州鉄道や遠州信用金庫などの地名が使われています。

※検めて、地図を眺めると、、「その方」の菩提のある身延山久遠寺は、安房小湊よりも、、「その方」の父の出身地と言われる、、現在の静岡県”袋井市”に近い、、、のだ、、、。

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その縁で、、強信者が遠州に育ち、、、後継者のうち2名が遠州の僧からなったと思ってもいいのでは、、、。
ただし、、、まだ、、妄想の範囲ですが、、、

その方は、1258年( 正嘉2 ) 37歳 の時に、円珍が唐より持ち残したという「一切経」を修学するため、遠州の天台宗「岩本実相寺」の経蔵を閲し、「立正安国論」執筆にとりかかる。日興が入門し、これを清書する。

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日興、日頂、日持上人が、その遠州(または遠江)の地縁になります。

1250年(建長2年)生まれの日持は7歳で出家、20歳でその方の門下となった、、、。
※或る説には、松野六郎左衝門人道の子とあります。

叡山にて修業中に、「理同事勝」の説に疑問を抱いて悩んでいた、、
「このままでは、師の教えを疑うことになる、、、」
事相において、大日経が法華経に勝るとは、、、、どうしても理解できなかった、、、

「その方」の噂を「岩本実相寺」の智海和尚から聞いて、、勇んで鎌倉松葉が谷を訪ねる、、、
疑問がことごとく消えて、、その方の門下となる、、、

鎌倉、佐渡、身延と日興とともに、その方の常随給仕(世話)をしたと言われる、、、青春をその方と供に生きたことは、その方が入滅することで、、、大きな精神的な支柱が失われ、悲しみに暮れたことでしょう、、、。

先輩の日興に師事したが、その方の没後に日興と不和になったと言われている。
その方の13回忌の後、単身で旅立つ日持には、安穏の言葉はいらない、、、思い出の地「佐渡」から流れに乗って奥州、、そして函館に、、、その後は、、、意を決して、、太陽が落ち行く西方に向かって、船を向けた、、命つきるまで、、、ただ進む、、、強烈な日持大陸伝説を残した、、、、。

※日興上人は、寛元四年(1246)三月八日、甲州(山梨県)大井荘(おおいのしょう)の鰍沢の地に誕生され、父は遠江(とおとうみ)・紀氏の大井橘六(きつろく)、母は駿州富士郡河合住の河合入道の女子とあります。従って、、、日持より4歳年上となります。

幼少時代の日興上人は、父の早世と母の再嫁によって母方の祖父に養われました。
やがて、修学のために蒲原庄(かんばらのしょう:現在の静岡県庵原郡蒲原町)の「四十九院」という寺院に登りました。
やがて剃髪した日興上人は伯耆公(ほうきこう)と名乗り、四十九院の供僧(くそう)を勤める、、
「四十九院」は「岩本実相寺」と富士川を挟んで距離が近い、、、、

「正嘉元年丁巳二月二十三日の大地震に付いて日蓮聖人岩本実相寺の経蔵に入り給う。
爾の時大衆の請いにより御説法あり、大衆聴聞して難遭の想い渇仰の心日日新たなり、
是の時大衆の中より甲斐公承教随喜して弟子となり給う」とあります。

立正安国論の執筆のため「岩本実相寺」に蔵経を閲覧するために訪れた「その方」は、そこで請われて説法をした、、

日興上人は実相寺において大聖人の説法を聴聞し、感銘を受け弟子になったということがここに示されております。
http://www.fujimon.or.jp/kiji/nikkodentop.html

甲斐、駿河での布教は、日興上人を中心に拡大した、、、

—————————————–

想像を逞しくすれば、[その方]が、比叡山に修業に向かう際に、父の縁者がいる「遠州」に立ち寄ったことが考えられる。
その方の父とすれば、、一文をしたためたかも知れないが、、、、、憶測でしかない、、。
また、、帰路には、、心の思いを、ここ遠州の血縁に伝えたかもしれない、、、。

あるいは、12年間の叡山修行中に、、、どのような人脈ができたのだろうか、、、
その方の「在世中」に門下(帰依)となった人は、関東地域と静岡に集中、、している、、、
このことから、、ついつい、遠州と、その方の父との血縁を思ってしまう、、

また布教は、国家(天皇)を背景にした、奈良、平安時代の奈良仏教や天台宗、真言宗とは大きく違っている。

鎌倉新仏教の、、、寺、檀家の多くは、はじまる戦国時代、、武士や農民、商人など大衆の要求に合うことで、、拡大流布した、、、。時代の流れ、、、宗教界も戦国時代を迎えていたのかも知れない、、、、。

※あの方は、、川越(埼玉県)の中院(無量寿寺;山号星野山;天台宗学問所)で1253年(建長5年)尊海僧正より恵心流の「伝法灌頂」を受けたという、、碑が残されている。

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※日頂(にっちょう、建長4年(1252年)

– 文保元年3月8日(1317年4月19日))は、鎌倉時代後期の日蓮宗の僧。俗姓は「南条氏」。駿河国の出身。伊予阿闍梨と称される。日蓮六老僧の一人。

日蓮の有力な檀越である下総国八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)の富木常忍(日常)の養子となり、幼くして日蓮に師事した。

日蓮の佐渡配流の際にも日蓮に従って奉仕している。

身延山では本圀院山本坊を創り日蓮の墓所の輪番に参加している。下総国真間(現在の千葉県市川市真間)の弘法寺を拠点として布教につとめた。
1293年(永仁元年)養父常忍と対立し、晩年は故郷駿河国の日興のもとに赴き、重須本門寺の学頭となった。本門寺の近くの正林寺に墓所がある。

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※何故、、駿河の国から、、下総国八幡の富木殿の養子になったのか、、、

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※九州中山門流

九州肥前に日蓮宗中山門流という、中山法華経寺と関係のある門徒衆が多くいた、、、
これは、中山の冨木常忍の主家である千葉介が九州肥前小城郷に所領を持っていたことから、、、
蒙古襲来に警護に当たるため千葉介らは小城郷に赴いている、、、
「あの方」が亡くなった後に、冨木氏は出家し、、中山門流とした、、その縁で九州において中山門流が発展した、、、。
「あの方」の予言した「他国侵逼難」は的中した、、冨木殿の帰依は、具体的な問題に直結している。

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※その方の兄弟

江戸時代(1674~1748)に、身延山の36世になった日潮(にっちょう)上人は『本化別頭仏祖統記』(ほんげべつづぶっそとうき)39巻を日蓮聖人の450遠忌に著作しました。

このなかに、日蓮聖人は五人兄弟のなかの四番目と書かれています。
長男は貫名重政(ぬきなしげまさ)。日蓮聖人の父親の姓は貫名といいます。
次男は幼少に亡くなっています。三男は重仲。そして四男が日蓮聖人で善日麻(※薬王丸との記も、、)。
五男が藤平重友です。

日蓮聖人が亡くなられたときに池上にご兄弟が来られています。池上の本門寺の涅槃図に長男の重政さんと弟の重友さんが日蓮聖人の枕辺に座り涙を流されている姿の絵図を今に伝えています。

三男の重仲さんは既に没していたのでしょう。絵図に姿は見えません。現在、弟の貫名藤平重友さんの家系は続いています。
<妙覚寺 >

———————————

、、、、とあります。

江戸時代に藤平家を訪問したという日記と写真があります。(信州上田妙光寺)
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※遠州の親戚より日用品を入れ、、とあります。
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※千葉県上総国夷隅郡中川村大野、、とあります。
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※日記では、藤平家には古仏像はあるが、、文字曼荼羅は無い、、とある。兄弟とは案外こんなものだ。
兄貴が「本仏(日蓮宗日興門流)」となると、、兄さんと呼べないかも、、
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※母梅千代、、とあります。

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※その方の母

母方については、さまざまな説があります、、、、。

日蓮聖人の母については清原氏の出自で、總州(下総)八幡郷の大野吉清の子で道野辺右京亮の孫といい梅千代(梅菊)とあります。
千葉県鎌ヶ谷市道野辺には大野公の館の跡に妙蓮寺が建てられています。また、山崎左近兼良の子という説もある。

※駅名では市川市に「本八幡」があります、この近辺は下総八幡郷と言ったのでしょうか、、、、。

当時としては、市川、松戸、鎌ヶ谷市あたりは同じ地域でしょうか、、、

この地域が、中山(富木殿、現在の法華経寺)に近く、、この地域で、その方は100日間もの布教活動をしている、、。
母方の縁者がいたので、特に気を配ったのではないか、、と想定されるのですが、、、、、。

※父方の仕事仲間という説があります。
その方の父(貫名)は、法律に関連する代官のような仕事という説がある。
特に土地にからむ裁判にかかわり、清澄寺の領地問題では、東条影信との紛争問題に関わった、、、

その方が鎌倉で活動するときにも世話になる「領家の尼」御前は亡夫の後を継いで、、安房の国の清澄寺を含む地域を名義上の領地としていた、、、
しかし地頭の東条影信は自らの土地を広げることに執着しており、領家の尼と紛争となっていた、、、
土地裁判に関わる、、父の貫名、、、そして、、、、
恩義を感じるその方は、この問題解決に力を注ぐことになる、、、

清澄寺も領地を確かにするために、叡山など大きな勢力の支援を必要とした、、などが考えられています、、、、

鎌倉の名義人「領家の尼」と地元の実力者の「東条影信」との確執は、、、宗教戦争へと発展する、、、
この方への迫害は、生々しい利権争いが絡んでいる、、、、、のです、、、、。

ただ、その方にとっては、父も兄弟も、、あまり重要ではなかったかも知れません、、記述がほとんどありません。
ご本人は自身を「海辺の栴陀羅が子なり」(インド社会で最下層)と言っております。

———————————————–

※佐渡流罪のルート

「あの方」が鎌倉から依智(厚木)の佐渡守護代、本間重連の館で28日間滞留の後、文永8年10月10日ここを立ち、、難渋18日間の旅の先に、、新潟「寺泊(てらどまり)」に護送され、、、荒海を超え、、、、1271年11月(旧暦文永8年10月28日 )ここ佐渡の「松ヶ崎」に着いた、、、ここで行く先が定まらず、、3日間の野宿を強いられた、、

拙者Blog「佐渡へ–(塚原問答)
佐渡へ---②(塚原問答)
「あの方」が鎌倉街道を通り、依智(厚木)の佐渡守護代、本間重連の館で28日間滞留された後、文永8年10月10日ここを立ち、、難渋18日間の旅の先に、、新潟「寺泊(てらどまり)」に護送され、、、荒海を超え、、、、1271年11月(旧暦文永8年...
を参照下さい。

旧鎌倉街道を見ると、「上の道」を経路とした、、、、。

厚木の依智を出て、、佐渡まで18日の途中で児玉町->藤岡栗須に宿泊していることが判った、、、
ただ、、ここから三国経由か、、長野経由かに、、分かれる、、、。

帰路では、長野善光寺には念仏、持斎、真言が集まり、意地でも善光寺の前を生かして通すな、、と合議したが、「あの方」は越後の兵士に守られて逃れた、、という、、、、、、

「あの方」は、
「三月十三日に島を立ちて、同じき三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。」と記していますので、帰路は13日間で戻ったことになります、、、。

素人としては、鎌倉->厚木->児玉->藤岡->長野->上越->寺泊->佐渡のコースとしたい、、。
が、、、往路と復路は違うかも知れない、、、、。

児玉町の「玉蓮寺」は、日蓮上人が佐渡に流罪となった時、児玉六朗時国が彼の邸宅を宿として日蓮上人を迎え、その時に時国は日蓮に帰依しています。
上人赦免の折りには鎌倉に帰る途中に再びここに立ち寄り、時国は上人を武蔵国「久米川宿」まで見送っているそうです。
児玉・玉蓮寺・八幡神社
鎌倉街道上道埼玉編、児玉・玉蓮寺・八幡神社

※文永8年(1271年)10月13日、日蓮聖人は佐渡流罪の道すがら児玉六右衛門尉藤原時国の館に泊まった。同11年3月17日、聖人赦免の砌も1泊。弘安9年(1286年)、日蓮没後時国は館後に玉蓮寺を建立した。

久米川では、その方から、自筆の曼荼羅をいただき、その地に堂を建てて保存した(久米の曼荼羅堂)、、、その後江戸時代に秋津の「持明院」に移された、、という説がある。
ただ、、持明院は真言宗なので、、曼荼羅は存在するんでしょうか、、、
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※少年の写真は誕生寺の像:自ら「賎民の子」と言われたが、この時代に、もしも、このような服装であればむしろ
中流以上の階級であり、亜流の説である浦人(天皇支配下の漁民)に育てられた後鳥羽天皇の血筋
という建造者の期待があると考える。

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※コピーの関係で、、その方を、、大聖人、聖人、上人とコピーのまま記してあります。

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※次回この続きは、どうしてもこの人につき当たる。

鳩摩羅什(くまらじゅう、くもらじゅう、サンスクリット:Kumārajīva, कुमारजीव、クマーラジーヴァ)、350年 – 409年、一説に344年 – 413年とも)

※「D地点」で誕生した、、、(鳩摩羅什)UPしました。

「D地点」で誕生した  (googlの旅  )
(クリックで拡大します) 人工衛星から見ると「D地点」で誕生した。 その方の両親は、色が白く、背が高く、彫りの深い顔立ちで、目は青く その祖先は、黒海のほとりからこのオアシス都市に移動してきたアーリア人と言われています。 日本の仏教がインド...

—-つづく———————————————-

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