春獄の計らいで京都町奉行に就いた永井玄蕃は、勝海舟の上司でもある、、、その伝手で、、龍馬が再三に渡って、、この幕府の大物と会えることになった、、。
龍馬は、つい自慢げに永井との面談を他言したくなる気持ちになったであろう、、、。
が、、、
相手は京都町奉行という警察官僚のトップ、、であり、、将軍慶喜の側近、、内閣官房長官?でもある、、、
会津の京都守護職や京都見回り組と共に治安の責任を負う幕閣だ、、、、
危険だ、、だが、、大政奉還がなされた今、、龍馬は、、新政府構想に思いを馳せている、、。
狭い京都は、、まだ、混乱状態である、、
西郷、大久保、桂、伊藤など薩長は、もはや、、藩兵を京に進軍させている、、岩倉など公家の倒幕派は自信を持ち、公武合体派は、孝明天皇崩御(慶応2年12月25日;37;暗殺説あり)とともに術を失っている、、
10月14日(慶応3年)に大政奉還を決断した徳川慶喜と幕閣は、幕府の権力保持をシナリオに、公武幕藩体制の再構築をもくろむ、、、
松平容保、会津、桑名藩率いる京都見回り組、新撰組らも、また、混乱の中で情報収集に躍起になっていた、、、。
異常事態の、、この地域で、、陸援隊の中岡は薩長との連携に動き、、、一方、龍馬は旧幕臣をも含む国民連合政権ともいえる構想(表向きは、、春獄、勝海舟、大久保、容堂らが企てる雄藩連合、公議政体、、)に向けて、、、幕臣と接触する、、、、。
「ええじゃないか、、えいじゃないか」と熱狂する、、京の町で、、、現場の治安部隊が、、カタルシス感情を、、抑えきるのは難しい、、、おそらく、、京都見回り組も、、新撰組も、、幕府旗本も異様なカタルシス解消のための、、ターゲットを探している、、。
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さて、、ここで、龍馬が前年(慶応2年)遭遇した「寺田屋事件」を思い起こしていただきたい、、、。
拙者Blog参照
京都徘徊-その1(寺田屋騒動と原市之進という人物)
2011.11.29 新幹線東京発9:00「のぞみ」-は、京都駅に予定どうり、、到着した、、、、。 早速、荷物をロッカーに入れて、、近鉄経由-京阪電鉄で伏見に直行する、、、 各駅停車でも15分、、特急でも10分の、近鉄丹波橋から-京阪丹波橋...
この時期、幕府は諸藩に長州出兵を命じている、、、。
1月10日 龍馬は、薩摩藩の船旗を掲げて淀川を遡り寺田屋に入る、、、
1月21日 薩摩藩小松帯刀、西郷隆盛、長州藩桂小五郎との間で、薩長同盟の密約を成立
1月22日 桂が長州にに戻るため送別会に出席する
1月23日 桂は密約の裏書を求めて龍馬に書簡を送る
同日 深夜 龍馬「寺田屋」にて伏見奉行所に包囲され負傷するも、、薩摩藩邸に逃げ伸びる
一年前の、この時期、龍馬は中岡と共に薩長同盟に奔走し、、亀山社中を使ってグラバーから武器を調達し、、長州に運ぶ、、幕府軍を敗北させ、、、薩長の勢いを一機に加勢させるために動いていた、、、。
ただし、、、全て幕府の諜報部員(密偵)の手中にあったと思われる、、、、。
1月21日の薩長密約では、、西郷や小松が、、証拠を残さないために密約は口頭にするのが当然と考えていたのだが、、、
「禁門の変」以降、、薩摩への疑念が残る桂は、龍馬に裏書を求めて書簡を書いてしまった、、。
これは、、、いかん、、、警察がメール(書簡)の盗聴を行うのは、常套だろう、、
密書の件は、、何時頃に幕府側に漏えいされたかは、、定かではないが、、、龍馬の動きは密偵に察知されていたのは間違いないと思われる、、、龍馬が桂の書簡に左手で裏書するのは、2月5日(慶応2年)と言われている。
参考拙者Blog
龍 書初め(龍馬は両手を負傷した)
書初めをしてみた、、、。 右は龍馬の書を真似てみたもの、、 朱書きは、薩長同盟の龍馬の裏書、、、 ※薩長同盟の翌日( )、慶応2年1月23日桂小五郎は大阪の宿で盟約を6項目にまとめて、 立会いの龍馬に裏書を依頼したが、、、寺田屋の襲撃で、...
なにしろ、、、判っているだけでも、、、「成尾屋与三郎」は、後の海援隊士「竹中与三郎」で、慶応2年1月に幕府の間者として、亀山社中に入り、亀山社中の桜丸の船頭「久太夫」を買収し、幕府に情報を流していた、、
海援隊発足のメンバーに名を連ねる「小谷耕蔵」も、、、自他共に認める「佐幕派」である。
※また、、村山兼吉は、、陸援隊に入り込んだ新撰組の間者だった、、。
薩長と龍馬の動きは、、、、、奥詰奥番兼目付という役職の原市之進や上司格の京都町奉行の永井玄蕃に、、、逐次報告されていた、、と、、推測する。
このBlogで書かせてもらったが、、
この時は、、まだ、、龍馬を殺せ、、という指示はでていない、、捕らえよ、、、である。
従って、龍馬に致命的な傷は負わせていない、、、ピストルを持った親指を狙って刃を向けている、、
この寺田屋事件と、、暗殺の近江屋事件とは、、まるで目的が違う、、、ここでは、殺せ、、という指示である
実行部隊も少数精鋭の特殊部隊を編成し、、ほとんど証拠も残さず、、土佐藩主や重臣の口を閉ざさせ、、
勝海舟をして、、、佐々木只三郎(見回り組)であろうか、、としか言わせない、、、、
土佐藩主山内容堂をして「会津のすきなように、、させい、、」と言わせた。
明らかに、、、こなれた大物役人が、、背景に存在する、、、と見た、、、。
■結局、、幕府のうっぷん晴らしのターゲットとされたのは、、、、海援隊、陸援隊という零細ベンチャー企業(組織)と非正規雇用者(浪人)など、、であった、、。
、、、、龍馬と慎太郎に危機が迫っている、、、。
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NHK連続ドラマ「八重の桜」では、、会津の気質と時代の変化、、、次第に息つまるシーンが増えてきた。
京都守護職となった会津藩主.松平容保と後に京都所司代となる桑名藩主松平定敬は、実の兄弟である、、、、
幕末の治安維持という軍隊と警察権力を任されるのは、やはり徳川譜代(藩祖は保科正之;第2代将軍徳川秀忠の4男)という保守本流的な家督と、、長い太平の結果、、他藩では、武力が低下してしまった幕府側の人材不足であろう
ところで、NHK「八重の桜」では、、、「龍馬」が、、何処にも出てこない、、、。
戊辰戦争の直前(慶応3年11月15日)に、、、龍馬は暗殺され、、、幕府側からも、薩長側からも黙殺された、、、、
幕府は大政奉還の宣言をしたとは言え、、天皇を立てて、、徳川が政治を補佐するというシナリオを描いていた時期でもある、、、。
–永井 尚志(ながい なおゆき)–wikipedia-↓-
嘉永6年(1853年)、目付として幕府から登用される。
安政元年(1854年)には長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍した。
安政5年(1858年)にそれまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられた。そしてロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。
その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争いで徳川慶喜を支持する一橋派を支持したため、大老・井伊直弼によって罷免され、失脚した。
直弼没後の文久2年(1862年)、京都町奉行として復帰し、元治元年(1864年)には大目付となる。文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。
慶応3年(1867年)には若年寄にまで出世する。大政奉還においても交渉能力を発揮した。
鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ逃げ戻り、その後は榎本武揚と共に蝦夷へ向かって箱館奉行となり、新政府軍と戦った。
しかし、敗れて榎本と共に自決しようとしたが、周囲に止められて降伏した。
明治5年(1872年)、明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、明治8年(1875年)に元老院権大書記官に任じられた。
明治24年(1891年)7月1日に死亡した。享年76。
※作家 三島由紀夫の高祖父(4代前の直系)
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■「大政奉還」直後、、、、緊張感と虚脱感、、揺れる心境の中で、、勝ち組の「薩長土肥」の動向を、、、、負け組の幕府の大物、、永井玄蕃が探っている、、、まだ、駆け引きが続いていたのだ、、。、
そんな中で、、大政奉還の直前にも、直後も、、龍馬は、、盛んに永井玄蕃と接触する、、、、
龍馬は、暗殺の5日前には、、永井の寓居に朝来て、、断られると、、、夕刻に訪れるという、、執拗な龍馬、、、
大政奉還直後の、、神経戦の最中に、訪ねてくる龍馬を、、玄蕃は「うっとうしい奴、、」と思ったかも知れない、、。
玄蕃は、土佐藩主「山内容堂」に、、聴いてみる、、、
「どうなのですか、、海援隊の坂本というやつは、、」
「それから、、貴藩の下請の陸援隊というのは、、倒幕過激派と聞きますが、、ご存知ですか、、」
殿様の容堂は、、、海援隊や陸援隊のことは、、後藤や福岡や岩崎にまかせてある、、。
あまり知らされていない、、、、。
しかしながら、、、
大政奉還を建白し、幕府延命を図ったと自負する、山内容堂としては、、幕府の重役から、、こんな皮肉を言われては、面目が立たない、、、、激怒した、。
後藤を呼びつけて、、
「こんな-だいじ-なときに、、なにおば、やってる!、、すんぐに手を打て!、、」
結局、、下請担当重役の福岡藤次(考弟)に動きが、、伝わった、、
○○の指図があった直後、、、福岡は逃げた、、、。
福岡は自分が担当する、、陸援隊の中岡に暗殺されかけたことがある、、、、。
慎太郎は脱藩当初より、、長州藩の下請組織を作って長らく活動した、、純粋倒幕派だ、、、。
福岡藤次からすると海援隊の龍馬はともかく、、、陸援隊の慎太郎は手に負えない、、、。
龍馬・中岡の暗殺の日の前後、、福岡は居留守を使い、、、龍馬が何度も訪れたが、、会っていない、、、
また、、芸者置き屋に寝泊まりして、、家に帰らない、、、近江屋襲撃の報にも、、、動かない、、、
この下請担当重役は、、龍馬・中岡の葬式にも、ついに、、出席しなかった、、。
何かを知ってしまった男は終始、、、臆病になっていた、、、。
拙者Blog参照
慶応3年11月15日(陽暦12月10日)龍馬は中岡暗殺に巻き込まれた
慶応3年11月15日(陽暦12月10日) 京都特有の冷え込みのひどい冬日であった、、、。 PM3:00 龍馬、隣家の酒屋に寓居する土佐藩大目付 福岡藤次を訪問するも不在 PM5:00 龍馬、再び福岡を訪ねるも、まだ帰宅せず 福岡従者 和田某...
永井は、、道路の反対側にある松林寺(やす寺)の、、、警察の京都見回り組組頭佐々木只三郎にも聴いてみる
「どうなのよ、、坂本龍馬とか海援隊とか陸援隊とかはよ、、」
※佐々木只三郎は、龍馬暗殺の責任者とみられている、、、
警察担当者(見回り組組頭)からすると、前年に「寺田屋」で役人をピストルで殺害した犯人である、、、
しかも、薩長同盟を推進し、長州に武器輸出し、、長州征伐では幕府を敗北に追いやった、、お尋ね者
こいつが、、堂々と、、幕府のエライさんと直接に会っている、、しかも、、、
俺の宿舎の前で、、、、
「このやろう、、」と、、見回り組責任者佐々木只三郎は思った、、、。
1年前であれば、、あるいは大政奉還前であれば、、、「許せん、、、」
彼らの情報は、、全て諜報部員(密偵)によって把握している、、当然メール(書簡)も盗聴している、、。
「できますれば、、、別室にて坂本の様子を伺わせていただきたく、、、」
本人確認をしたかも、、知れない、、、。
しかし、、、いまや、、松平春獄や勝海舟の意向を戴し、、大政奉還を建白し、諸藩の主導権を握る土佐藩の下請、、海援隊の隊長、、しかも、、新政権になろうかとする薩摩の西郷、長州藩の桂と、、対等に会える大物だ、、簡単には手を出せない、、、。
一方、、永井玄蕃も、、今や、、負け犬の身、、毎日やってくる龍馬が「うっとおしい、、、イイ」
、、が、、新政権後も生き延びるのが官僚、、、、うん、うんと、、龍馬の言に頷いて見せる、、。
※「坂本龍馬も参り候事に相成候得供、毎毎は嫌疑も有之に付、、」
、、、毎日来られても会津や見回り組に疑われるので困るんだわ、、、と言っている、、。
※いっぽう龍馬は
「今朝永井玄蕃方に参り色々談じ候、、」と、、林兼三にハッタリとも思われる手紙を書き送っている。
龍馬は永井玄蕃のもとに、、なぜ、何度も足を運んだのか、、、、
一説には、、新政府の財政基盤である、、、「金札の発行」について相談したらしい、、つまり、新政権が「紙幣」を発行できなければ、財政的に行き詰る、、、通貨を発行して財政基盤を整えようと、、実力者の永井の元をしきりに訪れていた、、、
これ以前に龍馬は、、福井の光岡八郎を訪ねて、、通貨発行について尋ねている、、
また、、土佐出身の宮川助五郎が、幕府高札を三条河原に捨てた、、として幕府に捕らえられていたのを釈放するように交渉していた、、、。
※幕府治安部隊は、、大政奉還後、、かなりのイラダチは、隠せない、、せめて幕府の看板を投げ捨てる輩などは、、捕らえていた、、。
宮川助五郎は、その後釈放されている、、。
———
その日、、、見回り組佐々木只三郎のもとに、、、小太刀の名人、、早川桂之助、渡辺太郎、と、、今井信郎ら七人の刺客が集合した、、、そして、、、
すでに密偵より通報のある、、坂本龍馬と中岡慎太郎がいる、、、、近江屋に、、、足早に向かった、、、。
つづく、、
注)内容は一部に磯田道史 「龍馬史」をアレンジしたフィクションです。
–京都守護職–wikipedia-↓–
薩摩藩主の父島津久光が主導した文久の改革の一環として設けられた新職である。
当時幕府の権威低下に伴い、京都には諸国から尊王攘夷派の過激志士らが集い、治安の悪化が懸念されていた。
元来、江戸幕府においては京都所司代・京都町奉行が京都の治安維持の任についていたが、過激派による天誅(要人暗殺)や商家への押し込み(強盗)などの騒乱が横行し、所司代・奉行所のみでは防ぎきれないと判断した幕府が、京都市中の治安維持及び御所・二条城の警備などを担う役割として設置したものである。
会津藩主・松平容保が文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に就任[1]。
本陣を金戒光明寺(京都市左京区黒谷町121)に置いた。
原則的に藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。
容保は初め徳川慶喜・松平春嶽からの再三の就任要請を断っていた。
藩財政は既に浦賀、蝦夷地の警備の任にあったことで窮乏状態にあり、また、家臣も就任反対で意見が一致していた。
しかし、春嶽が会津藩祖・保科正之の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾した。
任を受けた君臣は会津藩江戸藩邸にあって「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したという。
京都守護職は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に置き、見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組も支配下となった。
しかしながら所司代・町奉行・会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かり(非正規部隊)として新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。
後、元治元年(1864年)には京都所司代に容保の実弟である桑名藩主松平定敬が任命され、兄弟で京の治安を守る形となる。
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つづく
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