慶応3年11月15日(陽暦12月10日)
京都特有の冷え込みのひどい冬日であった、、、。
PM3:00
龍馬、隣家の酒屋に寓居する土佐藩大目付 福岡藤次を訪問するも不在
PM5:00
龍馬、再び福岡を訪ねるも、まだ帰宅せず
福岡従者 和田某に次の注意を受ける
「先刻、名刺を持った使いの者が、坂本先生はお宅に来て居らぬか、、と訪ねて来ました。、、ご用心下さい」
龍馬、酒屋に 福岡の愛人、「白拍子のおかよ」が居たので、「僕の宿に話においで、、」と声をかける。
おかよは、従者和田に引き止められて同行しなかった、、、。
※龍馬は風邪ぎみのなか、何故「福岡藤次」に会いたかったのか、、、福岡は後藤象二郎と共に、一ヶ月前に将軍徳川慶喜に容堂名で「建白書」を提出した本人だ、、大政奉還のその日にも立ち合っている。
※重要なことが解りました、2010.12.02、、、、、、、、。
後に、福岡の子孫が、「福岡藤次」の話として、会いたかった理由は、、、
龍馬は中岡慎太郎の心境の変化を「福岡藤次」に報告したかった、、、、、、、、、、らしいのだ、、、
龍馬は、武力倒幕に突き進む中岡を、、説得している、、、
この日、「慎太郎がようやく、、気持ちが変わりそうだ、、なので、、わしに任して欲しい、、」と言いたかったらしい、、
このことは、重要な意味を持ちます、、、、、なぜ、、風邪をひいているにもかかわらず、二度も訪問し、中岡の翻意を報告したかったのか、、、、それは、、、、中岡の身に危険が迫っていることを、龍馬が何らかの情報で知っていたからだと思わせる行動だ、、、、、後半で引用するが、、えらく大きな意味がある、、、、誰かが中岡殺害を指示した、、命じたといっていい、、、、。
※白拍子:男装の遊女の呼称
PM5:00
中岡慎太郎、四条河原上ルの書店「菊屋」に立ち寄る。
菊屋にて「峰吉」に「書面を薩摩屋に届け、返事を近江屋に持って来い、、」と命じている。
PM6:00
中岡慎太郎、近江屋に向かう
近江屋にて
慎太郎は龍馬と、釈放される予定の「宮川助五郎」を陸援隊に引き取る相談している、、など密議、、、
その後、大阪から戻った海援隊士 宮地彦三郎、同、長岡謙吉が挨拶に立ち寄るが、中岡慎太郎がいたので階下で声をかけただけで去った、、、
※長岡謙吉は西洋医学を学び海援隊書記として、世に言う「船中八策」を成文化した。
大政奉還の素案となり、内容は変わるが「新政府綱領八策」の素になった。
この直後、文人志士、淡海かい堂(板倉筑前介)が書軸「白梅寒椿の絵」を床の間に掛けて帰る、、
※かい堂は勤皇志士に軍資金などを援助している商人、中岡慎太郎は石川清之介の偽名で三百両の借用書を残している)
土佐藩、岡本健三郎がくる、、、浮世話をしている。
峰吉が薩摩屋の返事をもってきたので、中岡がその場で手紙を読む、、
龍馬、「腹がへった、峰、軍鶏をこうてきてくれ、、」と峰吉に「鳥新」に使いをたのむ、、、
峰吉が使いに出るに合わせて、岡本も帰る、、、
PM9:00(五つ半)
峰吉、鳥新にて30分ほど待たされてから、近江屋に帰るが、惨劇は、この間に起きた、、、。
事件はPM8:00ごろに起きたことになる、、、
「拙者は十津川郷士の何某で、坂本先生ご在宿ならお目にかかりたい」と名札を差し出した。
受けたのは、下僕の相撲とり上りの「藤吉」である
2階にあがり、龍馬に名札を渡して引き返すとき、声も掛けずに刺客が切りつけた、、、
藤吉は音をたてて転倒する、、、
「ほたえな!」
龍馬が大喝した、、、。
その声を目指して、奥の八畳間に刺客が跳り込む、、、
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<龍馬もし、この場を生き延びれば、、明治政府参与像>
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※龍馬暗殺をめぐっては、、いまだに真相は分っていない、、幕府見廻組説、新撰組説、薩摩藩(大久保)説、同(西郷)説、長州藩(伊藤)説、土佐藩(後藤)説、同(容堂)説、薩摩+高台寺党(伊東甲子太郎)、岩倉具視(黒幕)説、紀州藩説(いろは丸事件)、中岡慎太郎標的説、、、、
この事件の日の前後に、犯人に繋がる人物が存在するに違いないと思うのだが、、、、。
龍馬は、多くの人物に狙われ、また、愛されてもいたのだ、、、
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寺田屋でお世話になった、この人も、側にはいない、、、
「三吉」さんと聞くだけで「いいひと、、」と思ってしまう、、
涙ぐんでしまうほど、好感度が高い、、
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※①最初に疑われたのは、新撰組である。
現場に刺客のものと思われる遺留品があった、、。
「蝋色の刀の鞘」そして「瓢亭」名の入った下駄一足である
刀鞘について、元新撰組で、薩摩藩の後ろ盾で組織した御陵衛士の伊東甲子太郎が「新撰組のものの所持品」と証言したためであるが、、、伊東は18日新撰組に殺害されてしまう。同じ衛士の篠原泰之進が、四国松山出身の「原田左之助のもの」と証言した。下駄は新撰組がよく使っていた料亭「瓢亭」のものである。
、、、だが、、、これらの物証は、むしろ新撰組の仕業と見せかける「偽装」と見られている。
近藤勇は明確に否定しているし、新撰組の中からそのような証言はもれてこない。
②紀州藩の三浦休太郎が海援隊に襲撃される。
紀州藩は「いろは丸」事件で龍馬を恨んでいる。
「いろは丸の賠償金」が決まってから1ヵ月後、賠償金支払いの直前に龍馬が襲われた、、、。
新撰組を使って龍馬を殺害させたのは、紀州藩用人、三浦休太郎だという噂が広がり、海援隊の中島作太郎、斉原冶一郎、陸奥宗光、名前を悪用されたとして、十津川藩士らが復讐として12月7日に花屋町の天満屋で新撰組と宴会している三浦を襲撃したが、討ちもらしている。(天満屋事件)
二日後には、王政復古の大号令が出され、戊辰戦争に入る、、龍馬無き海援隊も、もはや、それどころではない、、、
賠償金は、当初八万三千両であったが、、、
10月19日の紀州藩山田と龍馬の代理の海援隊中島との交渉で最終的に減額和解して七万両となる、、
11月15日龍馬は暗殺されてしまう、、、、
12月30日大洲藩へ船価・海援隊貸し金の合計42,500両が返還される。
同海援隊:賠償金のうち15,345両余を海援隊に分配する、、が、、使途不明。
計算すれば、残り1万2千両余りは土佐藩が儲けた計算になる、、、。紀州藩としては黙っていられないだろう、、、
「いろは丸」事件の経過の中で、賠償金問題で海援隊、龍馬の責任は重い、、
引き換えに龍馬の首を出せ!と誰かが言ってもおかしくはない、、、。
③元京都見廻組の今井信郎が龍馬殺害を自供していた、、、
明治2年5月、函館戦争で降伏した幕軍の中に、元京都見廻組隊士、今井信郎がいた。
自供によると、佐々木唯三郎(見廻組組頭)の命令で渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎ら合計7名で近江屋を襲ったとされた。
このとき、今井は見張りをしていたと証言したため、判決は「寛典をもって禁錮」となった。
検察、裁判の権限を握っていたのは、佐々木高行となっている。
佐々木高行は、土佐藩において山内容堂の側近であった、、また、この判決を谷千城に知らせていなかった、、、
これは、今井を擁護しているようにも思える、、、他に事件の真実を知っているからか、、、
この頃、勝海舟は日記に「、、、、、見廻り組の佐々木(唯三郎)も上より指図されたのだろう、、或いは「榎本対馬」の命令なのか」と記している。
だだ、今井の証言では、中岡慎太郎が語った内容(土佐藩士で谷千城が現場で聴取)と違った点も多く、矛盾が多いため、売名行為とも受け取られたりしたが、見廻組み説は、定説となった。
④龍馬殺害を自供した今井信郎が西郷に助けられた。
明治5年特赦によって、今井は出獄した。このとき函館戦争で最後まで戦った榎本、大鳥も特赦されている。
木戸、大村益次郎など長州派は斬首を主張したが、薩摩派の黒田清隆は反対、西郷が断を下して特赦となった。
今井はその後、静岡県庁に勤務する。西南の役のとき西郷に加担すべく準備したが間に合わなかった。
今井に寛容だった西郷が龍馬暗殺の黒幕説として上げられる状況理由とされる。
その後今井は教会で洗礼を受けて、生涯を農民として過ごし、大正8年6月没している。
⑤山内容堂名義の建白書(大政奉還)を提出した後藤象二郎は破格の賞与をもらった。
慶応3年10月3日、後藤象二郎は福岡藤次と老中板倉伊賀守を訪ねて建白書を提出した。
建白は「土佐、芸洲、薩摩三藩連合」の形をとって受け入れ、、、
10月13日、慶喜は在京40藩の代表を二条城に集めた。自らは姿を見せず、老中板倉伊賀守から「従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し、、」と決意を披露する、、、ご意見ある者は上様が直々にお会いする旨、申し出るよう、、、
申し出に署名したのは、六名、、
別室にて、土佐、後藤は薩摩、小松帯刀、芸洲、辻将曹らと将軍と直接会話をする、、、後藤はすっかり舞い上がったらしい、、、大汗をかいて進退度を失い、、と桑名藩主松平定敬が記している。
代表して「本日は誠に御英断で感服仕奉る」と小松帯刀が謝辞を述べた、、。
11月6日後藤は報告のため高知に戻るが絶頂であった、、、
11月13日、容堂は百五十石の後藤を、いっきに七百石に増録し、更に執政に任命、役責として八百石を追加し「合計千五百石」に格上げした。
建白書提出の1ヶ月前、大阪に入った後藤は、建白の噂を聞いた各藩有志から連日招かれている。
倒幕、佐幕を問わず、時の人になっていたらしい。
ここらは、薩長とは違う、容堂率いる土佐藩の立場が見えてくる。
近藤勇も、何度も後藤に媚びるように会見を申し入れて、9月13日に後藤と会っている。
更に会見を望んで、建白書の写しをもらえないか、、などと言っている。
後藤としては、もはや、これは坂本のアイデアなどとは言えない状況となった。
明治3年、後藤は蓬莱社という会社を興す、高島炭鉱を安値で払い下げを受け、ビジネスを始めるが、すぐに行き詰まる、、このとき、ピンチを逃れるのに後藤が当時の金で六万円を借りる相手は、、、、、あの、、紀州の三浦安(休太郎)であった。三浦は②で「いろは丸」事件で後藤とも交渉し、海援隊から龍馬暗殺の首謀者と疑われた人物である、、、。
⑥自分の用心棒を切って龍馬暗殺の黒幕説を逸らすという策士とは
武力倒幕以外に勤皇体制の樹立はないだろう、、岩倉は確信している。
幕府の復権はありえない、、大政奉還後に薩長に討幕の密勅を下している、、、
立憲君主制を目指す、薩長、岩倉、、共和思想の龍馬、、最後の駆引きが続く、、、
龍馬暗殺の黒幕は誰か、、西郷を擁護したいものは、大久保といい、岩倉という、、、
薩摩藩と接近中の高台寺党伊東甲子太郎から得た隠れ家情報を、特攻の京都見廻組に流して、手を汚さずに始末する、、
龍馬暗殺の前日に、龍馬と面談した伊東甲子太郎は、新撰組が狙っているぞと竜馬に忠告する、、、
甲子太郎から情報を掴んだのは、潜入している、二重スパイといわれる斉藤一、ここから会津藩公用人 手代木某へ、更に、手代木某の実弟 京都見廻組 佐々木唯三郎に伝わり、彼らは治安行為として龍馬殺害を公務を執行したと言う、、ただ、新撰組の仕業を臭わす偽装工作がなされ、、、
しかし、元新撰組で薩摩と近い高台寺党、伊東甲子太郎は、新撰組近藤らの謀略によって、暗殺されてしまう、、、。
近藤に呼び出された伊東は、酒宴の歓待を受け、したたか酩酊する、、帰宅に途中、法華寺近くで突然槍で突かれ、刺客が一斉に切りかかった、、。
※伊東甲子太郎:
池田屋事件、禁門の変以降、幕府は長州壊滅に向けて動く中で、新撰組も増員を図ることになる、、
江戸での隊士募集に応じた中に文武に長けた「伊東甲子太郎」がいる、、伊東は水戸の尊皇思想を学ぶ「尊皇攘夷派」である。
伊東は門弟七名を連れて入隊するが、本心は新撰組を尊皇攘夷化することにあったと言われる、、。
神経をとがらす、土方らは、隊内の「粛清」を行った、、、斬った数は敵より多いと言われる粛清の嵐である。
伊東は粛清を逃れるため、分離という案を示す、、、「われわれは、薩長両藩と親交を結び、彼らの機密を探って新撰組の活動に資せん、、」という口実を持って申し入れる、、孝明天皇御陵墓衛士拝命を大義名分に離脱に成功するが、新撰組との確執は残る。東山の高台寺月真院に屯所を構え、高台寺党といわれた。
⑦二重スパイに疑われた、近江屋新助
中岡、龍馬遭難の宿となった、近江屋新助の曾孫の家から、封印されていた二通の封書が開封された、、、
差出人は近江屋新助と弟の小三郎となっていたが、宛先が松平主税様御内 岡又造となっていることから、問題となる、、
松平主税は、幕府講武所師範、大旗本、浪士取締役として、近藤勇、土方、沖田らを採用して京都に警備として上洛させた幕府要人といえる、その松平に討幕浪士を支援する近江屋が、密書を送るのか、、、
しかし、差出人は近江屋であるが、中身は海援隊幹部佐々木多門のものであった。
つまり、近江屋の名前を借りて、佐々木多門が松平に密書を送っていたのである。
海援隊とは、幕府にも薩長にも通じていたことになる、、
⑧刺客は中岡慎太郎を標的にしたが、同席の龍馬が巻き添えをくった
当日、刺客たちは、中岡の跡をつけて近江屋に切り込んだ。遭難の朝、龍馬が土蔵から奥座敷に移っているのは知られていない、、龍馬は中岡暗殺の巻き添えで殺害された、、。
慶応二年頃には、慎太郎は土佐の同士(板垣、谷など)に、すでに大政奉還を進言しているが、、
、、龍馬、後藤らが、徳川救済含みの大政奉還策を打ち出した頃には、もはや、時勢は討幕しかないと判断していた、、、、
これは、長州と長らく行動を共にし、三条ら公卿を警護し、岩倉の警護など深い繋がりを持ってきた慎太郎の当然の読みだ、、、、、
「未だ周旋と議論とに終始して、国を興し、難を釈くものを聞かさるなり」
時勢論では、徳川救済+土佐救済などありえない、、列強の脅威を思えば、、薩長とともに討幕によて国を変えねばならない、、、開戦は必至、、むしろ、容堂、後藤と対立する、、そのことでは、龍馬とは、いささか違う、、、
それでは、慎太郎を狙う者はだれか、、、、。
、、、、エーー!!、、、普通に考えれば中岡慎太郎は、「一緒に軍鶏を食おう、、」と同席したために、龍馬暗殺の巻き添えをくったんじゃあないのか?
どうして、話が「逆転」してしまうんだろう、、、この説を言う人は、どうしてこの発想になるんですかね、、、。
※ひとつの推測が、このあと出てきました、、、、。
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※長くなった、、、ここらでチョット息抜きにビールでも、、と思ったがM氏からもらった麦芽100%ノンアルコールでも飲んで一息してから考えようか、、、、
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※龍馬暗殺の経緯の定説は、ほぼ土佐藩士、谷千城が現場で生死をさまよう中岡(2日後の17日に死亡)から聴取したものであるが、後に龍馬暗殺を自供する元京都見廻組、今井信郎とは内容が異なる点が多すぎる、、、
中岡暗殺の巻き添え説では、谷千城が聴取したストーリーとは、大きく違ってくる、、、
龍馬ほどには目立つ派手さはないが、尊王派最前線を歩いてきた現場での中岡の活躍は、幕末志士として正統派で、史家の認めるところだ、、、幕府側、、、あるいは土佐保守派から命を狙われておかしくない、、、本人も「、、、おめおめ生きながらえ、、、赤面の至りに御座候」 と手紙に書き、命を掛けた行動の連続であった。
薩長連合の実際の貢献者は中岡慎太郎である、、と言うのは知るところだ、、、。
そもそも、龍馬が文久2年3月に脱藩するが、これは、東洋暗殺の疑いを逃れるのと、武市ら土佐勤王党の「全藩勤王」の考えにはついていけないことにある。結果的には開国富国強兵を語る幕臣の勝海舟の門人となる、、、。
「いかんぜよ、、佐幕も尊王もあるかよ、、みんな日本人じゃき、、」
神戸海軍操練所の龍馬は明るい、、希望を見出した風だ、、、武市さんとは違う、、そう、、龍馬はイデオロギー闘争で死ぬことが自分の選ぶ道でない、、と思っている、、
だから、、浪士仲間を海軍操練所に誘う、、イデオロギーじゃあない、、必要なのはテクノロジーだ、、しかし、、これは尊攘運動にしてみれば、同士の切り崩しともとられる、、、。
一方、中岡は文久3年9月、龍馬より1年半後に脱藩するが、、、脱藩前の中岡は、土佐勤王党で武市と行動を共にしており、東洋暗殺時も武市の道場にいて、嫌疑をかけられている。
その後、武市が藩主と共に600の兵をもって入洛したのに合わせて、「五十人組」という自費組織をつくり上京するのだが、この自主組織の幹部となって、京都、江戸において、過激な志士活動を展開している、、
このころに中岡は、高杉、久坂、井上ら長州藩の急進派と意気投合している、、、
長州藩と親密となり、水戸を訪ねたり、松蔭を「先師」と呼び、佐久間象山と会って、びっくり圧倒されたり、25歳の中岡は時勢を見る目を養いながら志士の道を歩む、、、
中岡の脱藩は、、尊攘派の転落にある
京都で会津藩と公武合体派の薩摩藩が結託して、急進派公家と長州藩を追い落としたことから、様子は変わった、、
急進公家の三条らは京都を追われ、七卿落となって、長州に逃れている、、
中央の動きに、土佐では山内容堂が勤王党の弾圧に入る、、、文久3年9月5日、中岡は長州に向かうが、事実上の脱藩となった。戻ろうとしたが9月21日、高知城下では、戒厳令がひかれ、武市瑞山ら勤王党が検挙投獄され、中岡も逮捕状が出ていたのである、、、。その後、武市が切腹に至り、土佐勤王党は壊滅する、、、。
中岡は草莽の士となった、、。
神戸操練所廃止後に行き場を失い、勝の紹介で薩摩に世話になる龍馬とは大きく違い、長州の中で自力で尊王討幕の道を歩むことになる。
————、、、、、、、
この日、龍馬と慎太郎という、ツワモノ二人が、抵抗する間もなく惨殺されてしまった。
この状況を、こう説明する人が居る、、
近江屋での二人の口論はつづく、、、
龍馬:「真太よ!時勢は変わっちょる、大政奉還でこの国はかわるぜよ、おまんは、なんで戦にすすむんじゃ、まだ無駄な命をすてさせるかい、、」
慎太郎:「ふざけたことを言うな、なんも変わツちょらん、徳川もそのまま、幕閣も幕軍もそのまま、見廻り組も、新撰組もなんもかわっとらんじゃろが、、だいたい、おまんがやってることは、倒れかけちょる幕府につっかい棒をだしちょるがじゃ、、」
龍馬「あまいぜよ、真太、戦争に持ち込めば幕府も必死、その力を見くびれん、、海軍もある、、日本は火の海になるがぜよ、、」
慎太郎:「おんし、いつからへこたるい腰抜けになった」
延々と激論が続いていた、、、いがみ合いは止まらない、、、
慎太郎:「ほんに、おまんを、切りたくなるぜよ、、」
龍馬:「ああ、、それで、なにが、どうなるんじゃあ、、それを無益な殺生というがじゃ」
慎太郎:「じょうだんじゃ、、き、、」と言ったが、場は冷えた、、慎太郎は脇差しを背後の屏風の後ろに押しやった、、龍馬に対し、というより、本気で興奮している自分が怖い、、、
しかし、、、これで、慎太郎は防御ができない、、、運命とは、、こうゆうことなのかも知れない、、、。
峰吉が来て、二人は話を止める、、が、、
「峰吉、腹が減ったき、軍鶏こうてきてくれ、、、」と使いに出す、、
再び論争、、、、、
龍馬:「おんしは全て、戦にもていくが、そげな馬鹿のひとつ覚えではことはならんぜよ、、なんで無益な殺生をくりかえすんかね、、」
慎太郎:「無益とはなんじゃあ」
龍馬:「全ての殺生は無益ぜよ、生かすことを考えんかい、みんな生きることをよ」
慎太郎:「おんし、そんじゃあ、武市さんも、土佐の同志も、久坂も吉村も犬死というかい」
龍馬:「きけ-や、大政奉還で世の中かわったんじゃ、、、」
慎太郎:「なーら言うちゃる、、おまん、大政奉還の、その日に、、、いいか、、その日にじゃあ、、、討幕の密勅が出されたがじゃ、、、知っちょるんか」
龍馬:「なに、、、、密勅、、」 龍馬は知らない、、
激高した、、心を静めようとして雑談をしようとするが、、もう、、、頭に血がのぼり、、息が荒い、、、
そのとき、刺客数名が身を潜め、忍び寄るのを不覚にも気がついていない、、。
藤吉が龍馬に、人が訪ねてきたと名札を持ってくる、、、
慎太郎は、どうせ龍馬が、また、ホラふくんだろう、、勝手にしろや、、振り返りもせず、身体をずらした、、。
ガタリと音がした、、神経が苛立っていた龍馬が
「ほたえな!」と一喝する、、、
「お前のほうがウルサイわい」と慎太郎は、むくれている、、、防御体制はない、、、
刺客は、龍馬の顔を知らない、暗い部屋の襖を僅かに開けて、、
「坂本先生、、お久しぶりです、、」と馴れ馴れしい口調できた、、
「はて、どなたか、、」と目を細める龍馬、、、
これで、龍馬だとわかった、、。
さすがに、慎太郎は背中にひやりとした空気を感じて、我に帰るが、、、、遅かった、、、
刺客の一人が、座りしなに、後ろから拝み打ちに慎太郎の肩筋からザックリと切り下げた、、
もう一人が、「こなくそ」と叫び、片膝で抜き打ち、龍馬の額を横にザックリとなぎった、、、
、、、、いずれも一刀目で深手である、、相当な腕前と思われる。
ここで「ザックリ」と書いたのは、その傷の深さをわかってもらうためだ、、、
※状況証拠からは、二太刀目は龍馬が床の間の刀をとるところを、追い切り、さらに上段から切り下げられ、龍馬は鞘のまま受けるが、頭から縦に切り込まれる、、
龍馬は脳髄が出るほどであったし、慎太郎は片腕が、皮一枚でつながっている状態だ、、、
充分に防御することもなく、一方的にやられてしまった、、、、
刺客は明らかに周到さがあり、部屋の位置、天井の高さ、、油断をさせる口上、、落ち着いた手口は、、やはり、新撰組や見廻組のようなプロ集団であろうと考えるのが妥当か、、、
———————
それにしても、、この説明は、谷の記録に基づいている、、、。
ここでも中岡は巻き添えをくった形で、中岡が標的ではない、、、、
※それでは、中岡暗殺に龍馬が引き込まれたという、中岡標的説を記す、サイトからコピーします、、。
———copy—————————–
福岡孝弟(藤次)の子孫が、TV番組にて龍馬暗殺を語ったという内容である。私が、中岡と龍馬暗殺の黒幕を、最初に閃いたきっかけが、この内容なのである。
要約させてもらうと、「曽祖父は福岡孝弟と申しまして、(龍馬の)死の真相を、ある筋から知っていたんだそうですが、誰が聞いても、いや、あれは言っちゃいかん事になっとるんだ、と言いました。佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ、と」
つまり、福岡孝弟は事件後、どのくらいのタイミングか、定かではないが、真相を知っていたのである
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「、、、あれは、いっちゃいかん事になっとるんだ、、、」この言葉から何が推測できるのか、、、
土佐藩では、、「紀州人が新選組を扇動して、新選組の者が斬りに来た。鞘は全く原田左之助の鞘である、こういうことになっている」という、土佐藩の決まり事にでもなっているかのような、、、
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大政奉還前、土佐の兵を上京させなかった後藤に対して、中岡は龍馬に「後藤を斬る」とまで言い放っていた。
龍馬はなんとか中岡をなだめたが、福岡に対しては福岡邸に乗り込み、暗殺未遂すら起こしていたのである。
であるからか、事件当日、龍馬は、風邪を引いているにも関わらず、午後三時と五時に渡り、わざわざ二回も福岡邸を訪れている。本の多くは、目的を書いてないが、後の福岡談話には、その理由が述べられていて、「あとで家人に聞くと、今まで中岡がどうしても聞かない。中岡は武力倒幕論であったから。ところが、どうやら中岡もそろそろ折れてきた。だから私に安心するようにと言いたかったらしい」という事であった。
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※龍馬が、福岡邸を二回も訪ねたのは、この説明であれば、状況は概ね理解できる、、、
一方の大政奉還を建白した、藩主山内容堂(及び後藤、福岡)にしてみれば、長州と合わせて武力討幕を主張する中岡率いる「陸援隊」の存在は藩論に、反することになる、、、しかも、中岡が福岡の暗殺未遂まで起こしていたのなら、、、、危険だ、、、、。
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大政奉還を建白した容堂に、松平容保が「大政奉還を推し進めた御自分の足元、自藩では、徳川を討とうと、陸援隊という倒幕軍を、隠しているではないか」と、苦情を言ったとしたら・・・
容堂はきっとカンカンに怒った事であろう。
しかも慶喜には、大政奉還建白時に「さすがは、容堂!」などと褒められたりもしていた。
陸援隊は、後藤と福岡が、藩の主要には知らせず勝手に作ったものであるから、容堂が知らなかった可能性は高い。プライドの高い容堂候の事、面目丸潰れと成ったであろう。
そして、すぐにでも、家臣に確認した可能性が高い。それも、大政奉還前の可能性もある。もしかしたら、後藤や福岡に直接、事の真意を迫ったかもしれない。が、後藤や福岡は、当然惚けた筈である。あれは倒幕の為ではないと誤魔化したかもしれない。
となると、容堂が、他の土佐藩上士に対して、龍馬や中岡をどうこうしようとするまでもなく、陸援隊と並び、藩の倒幕勢力の存在を押さえ込もうとした可能性が高くなるのである
————————————————-
※「陸援隊」を押さえるべく土佐の上士が動く、、、、中岡を切れ、、、、、
ここでは、、、既に「陸援隊」中岡も、「海援隊」龍馬も幕府見廻り組みからは当然マークされている、、密偵はつけられているだろう、、、、見廻り組みと、土佐藩容堂側近が手を結んだら、、、これで、二人の行動は全て筒抜けだ、、、。
————————————————–
中岡と龍馬の暗殺後に、新撰組の近藤勇が見廻組の佐々木に「昨夜はお手柄であった」と、冷静に言っている所から察すると、当初から、暗殺部隊として、新撰組ではなく、見廻組が選ばれたのだろう。
その見廻組にしても、京都守護が本来の役割であり、研究家が「暗殺実行部隊のメンバーは、正式な見廻組ではなく、傭兵部隊の様相が濃い」とするなら、しごくもっともである
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土佐藩重役、寺村左膳の「脱藩者の事であるから、藩としては、この事件に表向き不関係の事」とした態度。
維新後に於ける後藤の沈黙。菊屋峯吉や近江屋主人の、不確かな証言。これは、菊屋にしても、近江屋にしても、土佐藩御用達である。口止めや何かしらの圧力があったのかもしれない。お得意様の意向に、逆らう事はしないであろう。
薩摩にしても、長州にしても、岩倉卿にしても、この暗殺事件に対して、必死の犯人捜しなどしたような痕跡もない。これも、暗殺された人間の自藩である土佐が関係しているとなれば、興ざめもしよう。
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※つまり、、土佐藩のお家の事情、シガラミから離れ、、、龍馬も中岡も脱藩し、時勢を見てきた、、、
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「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された土佐藩の元藩主は、先祖の一豊が徳川方についた為、その恩恵も有り、代々徳川家には従順であった。
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※揺れる容堂は、この段階では、、、「会津の好きにさせい、、、」といったのであろう、、、。
現場では、中岡の挙動とともに、龍馬の情報も逐次入っていた、、追っ手の中岡が近江屋に動いた、、、暗殺実行部隊としては、同伴者の龍馬をやらねば、やられる、、関係だ、、、。
「会津の好きなようにさせい、、、、」二人を倒すことが決定された、、、、。
こうして、中岡慎太郎暗殺の巻き添えをくって、、、龍馬は殺害された、、、。
土佐藩陰謀、見廻組実行犯説、中岡暗殺標的説、、、倒幕前夜に複合した力学が働いた、、、、、、
と見られるのである、、、、。
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