時代の流れは速まっている、、、
しかし、その前に尊王攘夷運動の切っ掛けとなった、、日米和親条約、通商条約を見ておこう、、、
■ペリー来航1853(嘉永6年6月3日)
「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」という有名な狂歌があります。浦賀に来たアメリカの蒸気船4隻を、、お茶の「上喜撰」四盃にかけた庶民の皮肉です。
度肝を抜かれた幕府であったが、、翌年、、、
日米和親条約の締結、一八五四年(安政元年3月3日)となった。
①日米両国は「永世不朽の和親」を結ぶ
②下田とはこだてを開港して、、、
③アメリカの役人を下田に置く
④日本がアメリカ以外の第三国に許可した条約を、アメリカが望むなら交渉なしで同じ条件を与える。
最恵国条約ではあるが、、それほど問題とはならなかなかった。
1856年安政3年、、アメリカ中日総領事ハリスが下田の玉泉寺に総領事館を開設
1857年日米通商条約の交渉開始
1858年 4月彦根藩井伊直弼が大老に就任
6月 日米修好通商条約調印
8月 天皇が井伊大老を批判する勅語を水戸藩に伝える
、、井伊大老が、、勝手に進めたわけではない、、、
江戸時代、、「禁中並公家諸法度」以来、、天皇は国家の政治にかかわるべきでない、、それが慣例であった。
将軍隣席の元に尾張、紀伊、水戸御三家、親藩、諸代、外様、、の各大名が議論し、、合意のもとに国是と決める、、、
そのうえで、、天皇に奏上し裁可を得て全国に発令する、、、
この段階では、、開国容認が、、各藩の意見であった、、
草案は作成された、、、ハリスとの約束の期限は3月5日、、、となった。
■孝明天皇の反発
1858年(安政5年)2月9日、、老中堀田正睦らは、、朝廷代表に草庵を示して丁重に説明する、、、
2月23日 条約調印は国家の重大事につき、三家以下、諸大名が議論して再奏上せよ、、との天皇の言葉を伝える。
これは、、、通常は形式的なもので、、一任する、、と捉えるのが慣例であった。
ところが、、孝明天皇は、、反発した、、これで、、朝議(朝廷の最高会議)以外に、、下級の公家たちも、、開国に反対する、、この中には岩倉具視もいる、、、、
、、もう一度、、、衆議せよ、、というものになった。
ハリスとの約束の期日には間に合わない、、、次にイギリスの軍艦が、、日本に向かっている、、との情報も入った、、
井伊大老は、、天皇の勅許なしには調印したくない、、、、
意見調整は、、遅れた、、大老の悩みは、遅れることによって、むしろ、朝廷が幕府に不信を抱くかもしれん、、
イギリスが来る前に、、、6月19日、、ポーハタン艦上で、、日米通商条約は締結された。
一方、、幕府側の将軍「家定」は、病弱であり、、次期将軍を決めなければならない、不安定な幕政にある。
わずか、2カ月前の4月23日に就任した、、井伊大老が、、時代を背負って行かねばならない、、
そして、、次期将軍をめぐっては、、和歌山藩主徳川慶福(よしとみ11歳)、、水戸藩主徳川斉昭の七男で一ツ橋家の養子になった慶喜(よしのぶ20歳)の2名に絞られていた。
が、、、徳川慶福(よしとみ11歳)に内定していた。
将軍家定は「一橋は好かぬ、紀州が好き」といっていたらしい、、言わせたという説もある。
一方、、ここは老中政治を改め、国難を乗り越えるため、英明の噂高き一ツ橋慶喜を将軍にたて、、幕政改革をすべし、との声が、各藩からもも高まっていった、。急進派の長州の吉田松陰、改革派の松平春獄の越前藩橋本佐内、、薩摩藩島津斉昭の側近西郷隆盛、などがいる。
天皇の開国反対ー尊王攘夷派の動きー将軍の病ー老中改革の政敵ー列強の開国要求ー長州藩の動きー薩摩藩の動きー!!どうする!!
■安政の大獄と桜田門外の変
6月24日、、、徳川斉昭と水戸藩主徳川慶篤と名古屋藩主徳川慶恕が、、不時登城して井伊大老に面会を求める、、、
老中列座の中で、、斉昭は、、調印は違勅の罪に当たる、、松平慶永に大老を代われ、、今は、、幕府の強化が必要、、将軍を一ツ橋慶喜にせよ、、同じく名古屋藩主徳川慶恕も同調、、越前福井藩松平慶永も違勅調印を攻めろ、、慶喜を世子にせよと、、主張する、、。
すでに世子は、、徳川慶福(よしとみ11歳)に内定していることでもあり、、辞職を求められた井伊大老も、、アタマにきた、、
問題視されたのは、、、条約の内容ではない、、「天皇の勅許」がないまま、、調印したことなのだ。
6月25日、井伊大老は、将軍世子は、、和歌山藩主徳川慶福(よしとみ11歳)、、と公表する。
当然、、徳川慶福(よしとみ11歳)が将軍となれば、実際の政治は井伊大老の思うまま、、となる。
そして、、徳川斉昭と一橋慶喜に謹慎、、名古屋藩主徳川慶恕、、越前福井藩松平慶永には謹慎と隠居を命じた
病弱で会った将軍家定は、、翌7月6日に亡くなっている、、、、
幕府批判勢力に対する弾圧がはじまる、、、いわゆる、、安政の大獄だ、、、
水戸藩家老安島帯刀(たてわき)は切腹、、茅根伊之助(頭取)は断罪、鵜飼吉左エ門(水戸藩京都留守居)、飯泉喜内(三条家家来)、吉田松陰(長州藩士)、橋本佐内(越前藩士)が獄門、、水戸藩士が多い、、
上級公家家臣15名(遠島追放)、堂上公家13人、など、、
やがて、、水戸藩浪士による、、大老暗殺、、、桜田門外の変に繋がる、、、
長きにわたる太平の世に、武闘派の出番はなかった、、ところが、、今まさに国難である、、、日本中が騒めき立った、、、
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