龍馬 脱藩 その1( 朽ちた大樹)

人は、自分ではどうにもならない大きな時代の渦の中で、人生の決断を迫られることがある。

文久2年(1862)3月24日龍馬は、母屋で朝餉をとったあと、草履を履いた。いつもの癖で右肩をあげ、本丁筋を西に向かう。
通り道の瓦屋の店先に幼馴染みの龍太が妻のお麻と立っている。

龍馬:「おお龍太、元気でやっちょるか」

龍太:「、、、、龍やん、これは俺の志じゃき」
と言って龍馬の懐に紙包みを押し込む。

龍馬:「すまんのう、こがな気遣うてもらわんでかまんによ」

幼い頃から剣術道場でも龍馬を慕ってきた龍太は、龍馬の国抜けを知っていた。
もっとも、この頃土佐から多くの郷士が国抜けしており、龍馬はやっぱりといった風である。

龍馬を見かけて、近所の女たちが寄ってきた。

女:「龍馬さん、どこへいくがかね」

龍馬:「ちくと西のほうじゃ」

女:「恋人の所じゃろがあ-」

龍馬:「まっこと、おまんは、なんで知っちゅうがな」

女たちがどよめき笑った。

龍馬:「ほんじゃ、いくぜよ」

女達:「早う帰ってきいや-」

いつもとあまり変わらぬ風景の中で、龍馬は土佐を脱藩していった。

いつもの風景?、しかし、、、、

前夜、龍馬の脱藩を手引きした沢村惣之丞と、夜を徹しての綿密な打ち合わせをしている。

乙女姉さんとも会った、、。
「龍馬、兄さんが出かけたときに、蔵の鍵を開けて忠廣を持ってきたぞね」
藤原忠廣の名刀は父八平が秘蔵していた逸品である。

しかし、この日、龍馬は、短刀をさしただけで、大刀は差してはいない。
刀は荒倉峠まで、やはり手引きの河野万寿弥が持っていてくれる。

いつもの風景は脱藩のそぶりを隠す芝居であるのか、、、、それとも、、。
龍馬の自然の振る舞いなのか、、、、。

、、、、、、、、、参考 津本陽著 龍馬 。

、、、、、どうやら、龍馬は臭い芝居をしたと思われる、、、、。

この2週間後(4月8日)に土佐藩重役 吉田東洋が何者かに暗殺される。
龍馬は暗殺の実行計画を知っていた、、。

だから脱藩を急いだと思われるふしもある、。
まずい、、、下手人にされるかも知れない、、、、。

疑いを持たれないようにしなければならない
そのためには、俺は脱藩したぞ、、。と周囲に知らせなければならなかった、、。
龍馬は白昼堂々と女共に手を振られて、脱藩したのだ、、、、、、。

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画像
<龍馬27歳、、丸亀で撮影とあるが、?>

時代は大きく動き始めていた。、、。
話は龍馬脱藩の少し前になるが、、、、、、、、。

260年の鎖国で世界から取り残されたニッポンの玄関をアメリカ合衆国がこじ開けようとしている。
アジアのマーケットをめぐる覇権はイギリス、フランスが軍事行動をもって植民地政策を強行している。

1853年ぺりー来航する
そして翌年
1854年幕府は日米和親条約を締結する。

安政3年(1856)隣の清国では、アヘン密輸をめぐり、アロー号事件がおこり、これを理由にフランス、イギリスが軍事行動を起こす。
支那は前面敗北して、列強の要求を全て受け入れることになってしまった。

「イギリス海軍が日本に来るのは見えている、、、。」
アメリカにとっても極東の権益確保を急がねばならない、、、。

アメリカ総領事ハリスは幕府に脅しをかけている。

安政5年(1858)幕府は混乱する国内を立て直すため、もがきながら、彦根藩主井伊直弼を大老に付ける。
時間はもう限られている、、。
260年の安逸は、軍備だけではない、あらゆる面で海外との大きな差がついてしまった。
どう考えても、列強を敵として戦争を起こせる状況にない、、。
井伊直弼はアメリカとの通称条約締結を実行する。

国内事情としては、、トップの将軍家が、もう使い物にならないのだ。

ハリスが第13代将軍の家定に謁見したときに、奇妙な様子に気づいている。

将軍は頭を左後ろに返し、右足を踏み鳴らす動作を3―4回ほど繰り返したという。
病弱、脚気ともいわれる将軍家定に、外国との形式的な外交折衝すら役に立たない、、。
(、、、とはいえ、平穏な時代を過ごしている公家とて同様であった、、、。)

井伊直弼らは、もはや、継嗣将軍には家定の従弟の8歳の慶福を推すしかない。

これでは、国際社会に対抗できない、松平慶永(春獄)らは一橋家当主となっていた17歳の慶喜を擁立する。
同調者は次のとおりとなった。

老中筆頭の福山藩主 阿部正弘
尾張藩主  徳川慶勝
阿波藩主  蜂須賀斎祐
宇和島藩主 伊達宗城
土佐藩主  山内豊信

更に外交担当官僚の
老中    堀田正睦
勘定奉行 行川路聖誄

松平慶永の懐刀には橋本佐内がいる、、
藩校 明道館学監心得として 洋書習学所などを設ける。
彼は英語、ドイツ語を読解できる、、。

橋本佐内は慶喜を大統領として結集する内閣を模索していた。
画像
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橋本佐内 『ウィキペディア(Wikipedia)』
越前国に生まれる。嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し
蘭方医学を学んだ後、水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)と交遊。他に梅田雲浜や横井小楠らと交流する。越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となる。

安政4年(1857年)以降、由利公正らと幕政改革に参加。14代将軍を巡る安政の将軍継嗣問題では春嶽を助け、一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開した。幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち、攘夷で揺れる幕末期では危険人物とされた。

安政6年(1859年)、春嶽が隠居謹慎処分に命ぜられた後、南紀派で大老となった井伊直弼の画策により将軍継嗣問題に介入した事が問われ小塚原刑場にて斬首。(安政の大獄)享年26。

墓は吉田松陰などとともに南千住の回向院にある。戒名は景鄂院紫陵日輝居士。

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徳川300年、いまや「幕藩体制という大木は朽ちて倒れようとしている。」

混乱する国内事情、、、第13代将軍の病は重く、時期政権をめぐる権力闘争は激化してゆく、、、。
井伊直弼と一橋派の対立は、一橋派への弾圧となって表面化した、、、。
事件は、すぐそこまで迫っている、、、。

つづく—————————————————

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