鎌倉殿の13人 連想——-その1 比企の乱

鬼の来ぬ間に、、温泉に行ったろか、、と思い、、コロナがピークになる前に、、1月3日、4日と湯河原と周辺をドライブすることにした。
年末ではあったが、、露天風呂が素晴らしいという、、奥湯河原温泉の温泉旅館の予約が、ネットの”じゃらん”からとれた。
新幹線で自宅から熱海まで2時間弱、、熱海駅からはレンタカーを使うことにした。

グーグルMapで検索すると、、トヨタレンタカーは熱海駅から5分のはずだが、、見当たらない。
近くの店で聞いてみると、、移転して、、旧位置から10分ほど先になっている、、坂道を上がり、、コンビニの横を曲がり、、じーさんには不満の独り言が続きさまにほとばしる、、なんだよ!”じゃらん”、、ネットのデータふるい”じゃらん”、、ダジャレが悲しい、、。

気を取り戻して、、今日は伊東、川奈に向かう、、、、
天気は良い、、相模湾が美しい、、途中で昼食時間、、熱海、伊東だから、、鰺フライとか鰺のたたき、、かな、、ドライブイン風な食堂に車を止めて、、、、周辺を散策していると、、軽トラに乗った漁師風の男性が近づいてきた、、

「今、時季外れですが、鰺はとれますか?」
「あのね、、最近熱海では鰺が漁れんのよ、、で、●●から仕入れてくるんよ」
、、、ぼそっと語る男性

えっ、、ということは、、駅前で売ってる熱海の「鰺の干物」は、、何処産なの?、、、

結局、、食堂では、名物という「イカメンチ」、、さつま揚げ風の定食を頼んだが、、無言で食べ終わって、、「お茶がおいしかったね」、、と言って車に戻りました。
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さて、、今日の目的地は、、詳しくは伊豆の伊東の「川奈」でした。

伊豆急の川奈駅が、、とても可愛いので立ち寄りました、、東急ストアが併設しており路線バスもあり、TAXもあります、、
しばらく居ると、、こんな電車がきました
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うーん、、住んでみたい、、川奈、、

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あの方は、、、39歳の時
文応元年(1260)7月16日 辰刻(AM8:00~10:00)頃  一通の「勘文状」を時の実質的権力者である、、前執権 北条時頼に提出したのです。
その文状は、鎌倉幕府 懦管である比企能本(ひき よしもと)に校閲を依頼してて整え、、、得宗(とくそう)被官である宿屋左衛門入道最信(宿屋入道)を通じて時宗に渡された。

※懦管:儒学をもって公務についている人、公の機関で儒学を教授するもの
※得宗被官:御案内(みうちびと)、ここでは北条家に仕える側近、
※宿屋入道は北条時頼の側近で、時頼が臨終した時の7人の近臣の一人、武蔵の国児玉党(埼玉県入間郡毛呂山町)

■立正安国論
この「勘文状」は、「立正安国論」と題された文状です。
原案は、駿河の国、岩本実相寺の一切経蔵に籠り思索し、当時の飢饉、疫病、転変地変災害に苦しむ人人をいかに救うか、、原因を諸教の中に見つけて提言を、、約3年間※をかけて、、まとめたと言われる。※立正安国論奥書

客と主人の対話形式で始まります、、、

客が来て、、今の恐ろしい社会現象を嘆いて言います
”転変地変、疫病、飢饉が次々と起こり、人々はあるいは念仏を唱え、あるいは薬師経、あるいは法華経、仁王経、おおくの僧侶は祈祷し、真言を唱えたり、座禅を組んだり、更にはまじないの札を貼ったり、政を司るものもあらゆる救済を施してはいるが、、なんの効果もなく、状況は悪化している、、なんでこうなってしまったのでしょうか、、”

これに主人が答えていきます、、
「私も悩んでいます、、一緒に考えましょう、、多くの経典を読んでみると、今の世の中は仏法が正しく行われていないことがわかります」
仁王経には「国が乱れる時は、鬼神が騒ぐ、鬼神が騒ぐために、多くの民が乱れる、更に外国が侵略してくる、転変地変も起こり、国の中も悪い賊が民を苦しめる」とあります、、、金光明教、大集教、薬師経にも言葉があります、”

※鬼神とは、超人的な力、、思想、宗教など、、

客人
この国では、多くの寺があり、僧侶も多くいる、、むしろ仏法は広まっているではないのか

主人は
たしかに、、寺も経典も経蔵も多くあります、、寺や僧侶は崇められています、、
しかし、どうでしょう、、僧侶の心は曲がり名誉や利益のために、国主の前で間違った教えを説き、、外見は僧侶でも心は貪欲な者たちが現れる、、と仁王経や涅槃経に書いてあるとおりの現状です、、法華経にも、、悟ってもいないのに悟っていると思い、山里に住み、、人々に敬われたりもする、、そして正しい者を追い出したりする、、と経典にあるとおり、、正しい教えが広まらないのです

客人
そんな悪い僧侶がいるなら、世の中の人々が信じるわけないでしょう、、あなたは誰を非難しているんですか、、

、、、このような問答が続きます、、、。

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この時期、、、あの方は、「天台沙門」として天台法華セクトの法華経回帰運動の先頭になり、念仏者との激しい論争に明け暮れていた時でもある。

当時の鎌倉に多くの支持を得ていた専修念仏は、法然の革新的な発想だ、、写経や仏像の建立や難解な経を学ぶ修行を経なけければ浄土に行けない、、などの従来の貴族主義的な仏道修行では、文字さえ書けない一般庶民は救済されないではないか、、称名念仏こそ末代の衆生を救う「本願」だ、、今まで愚者救済の方便とされてきた易業、コンビニエンスこそ全ての人を救済する唯一の法だ、、念仏さえ唱えれば誰でも浄土にいける、、叡山で多くの経典を学する中で行き着いた選択本願念仏説を、断固として主張した。

法然の「主張は、当初は比叡山をはじめ、伝統仏教、旧仏教側から弾圧された。実益的にも中世の荘園制度を脅かすものでもあった。
しかし、法然の死後には既成仏教と共存するようになると、あの方が鎌倉に戻ったころには、、武家、庶民の多くの人に根づいていた。

—う–ん—えーと–つまり、、、、、
初期のコンビニエンスストアが、、急しのぎのための利用客が主流だったが、、ユーザーのニーズをしっかりと取り入れて改善してきたので、、今では、庶民の日常生活に欠かせない場所になり、お店もどんどん増えた、、ってこと?
、、少し違うけど、、庶民の多くが弥陀信仰に、ある意味、、法然のいう平等に広まっていったのでしょうね、、

比叡山での遊学で、あの方は比叡山惠心流の俊範和尚に師事したといわれています。俊範は比叡山の中で法華経回帰を主張しており、反専修念仏の中心人物でもあったといいます。

あの方の諫暁書「立正安国論」は天台沙門として多忙な理論闘争、真剣勝負の真っただ中での著作であったという、、。

弘安5年(1282年)10月13日、辰の刻(午前8時頃)、、御歳61歳をもって入滅されたが、、前9月25日には、弟子達に「立正安国論」の講義をされたことから、立正安国論に始まり立正安国論に終わるとも言われる。門下にとっては、、最重要なテーマと言っていい、、。

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あの方は、、「、、阿弥陀信仰が、、釈尊の本来の教え二千八百十三巻の経典を捨て、インド、中国、日本の三国の聖人を、賊人扱いすることは間違っているだけではなく、人々を迷わせてる、、邪教である、、、。」、、とします。
法然の言う「捨閉閣抛」(浄土門以外は捨てろ、閉じろ、さしおけ、投げうて)を言う専修念仏宗を排除して、教主釈尊の正しい教えを受け入れなさい、そうすればこの国は仏国土になるでしょう、、という構成になっている。
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■松葉ケ谷の法難

比叡山遊学から12年ぶり32歳のときに故郷の小湊に戻ったあの方は、立宗宣言(建長5年4月28日)(1253)すると、その年の8月には政権の中枢鎌倉に草庵を築いていました。

39歳の時、、立正安国論を提言した、、翌月、、8月27日、、大勢の浄土宗、念仏の衆の暴徒が松葉ケ谷の草庵を襲撃します。
バックには執権北条長時の父であり、、極楽寺に隠居していた北条重時が後ろ盾になっていたといいます。
命を狙われた、あの方は、危うく難を逃れて、、下総(現千葉県市川市)の富木常忍のもとに身を寄せます、、。
この頃、、比企大学三郎、太田乗明、曽谷教信、秋元太郎、、らが入門します。

■伊豆伊東流罪
その後100日あまりして、、あの方は鎌倉に戻るが、、、
弘長元年(1261)5月12日、、早暁に多くの武装した役人が松葉ケ谷草庵を包囲して、検断沙汰を以って捕らえ、、そのまま伊豆の伊東に罪人として流罪船に乗せたのです、、、。

罪状は、、御成敗式目(貞永式目)第12条 、、悪口の咎、右、闘殺の基、悪口より起こる。その重きは流罪に処せられ、その軽きは、召籠めらるべきなり、、
軽ければ籠に入れ、重ければ流罪するというもの、、、

当然ながら、、重いか、、軽いか、、なんぞは時の政権が判断する、、

本来、侍所で扱う検断沙汰ではあるが、、役人が忖度をもって処断したのである。
忖度は、、極楽寺入道の北条重時に対してである、、。

御成敗式目(貞永式目)は北条泰時の時代に、、
、、およそ、評定の間、理非において親疎あるべからず、好悪あるばからず、ただ、道理の推すところ、、、、政道の私無き事、、
を誓わしめたもので、、、公正な裁判をすべく定められたものであるが、、

権力が長く続くと、、これらは建前になる、、、古今東西、、よくあることだね、、。

伊豆の川奈には、、流罪の地 川奈にあの方を密かに助けた漁師舟守弥三郎に由来する舟守山連慶寺という寺がある、、
また、、弥三郎が、あの方を匿ったといわれる洞窟の御岩屋祖師堂というのがある、、どちらも真贋不明である。
ここは、あの方を妄想いて尋ねることにした。
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■比企の乱 健二3年9月2日(1203)

テーマに戻ろう、、あの方が前執権 北条時頼に提出した「立正安国論」を校閲した人物、、比企能本(よしもと)は、、、鎌倉殿と13人で語られる、、比企の乱で騙し討ちされた比企能員(よしかず)の実子であるといいます。

比企能員は、源頼朝の乳母の比企尼の甥ですが、武蔵の国(現在の埼玉県比企郡あたり)有力御家人です、、、
比企尼は頼朝が14歳の時で伊豆に流罪された時に、京都から武蔵の国比企に戻り、伊豆の頼朝に生活物資を提供し支援続けました。

ばかりでなく、比企尼の長女の夫は安達盛永は頼朝の従者として、比企尼の次女と三女は、2代将軍頼家の乳母となります。
次の将軍となる頼家を比企の館で育てています。比企家の女性は頼朝、頼家の2代にわたる乳母となるのです。

※乳母:母親の代りに乳児に授乳し養育する女性。古来宮廷貴族の間では乳人 (めのと) といって,生児のために母親のほかに授乳する女をおくのが常であった。『日本書紀』神代の巻にも乳母の話があり,乳人のことは平安時代以降近世まで,『栄花物語』をはじめ諸記録にみえている。江戸時代には将軍家,諸大名をはじめ民間にもこの慣習が行われ,乳母の権力は大きかった。乳母の容貌や性質は生児に移るといわれ,その選定にはきびしく吟味が加えられた。

さらに2代将軍将軍の源頼家は比企能員の娘、若狭局を妻にします。

比企氏は源氏の最有力支援者であり、むしろ北条氏よりも源氏の近い親戚なのです。
頼朝亡き後、2代将軍頼家は比企氏との存続を望んでいました。

東松山市観光協会(比企一族の地)
鎌倉幕府立の立役者 比企氏 – 一般社団法人東松山市観光協会

その頼家が病に倒れます、、後継者問題が発生します。
そこで
頼家の長男一幡(いちまん)6歳 は東日本統治 実質後見人 比企氏
頼家の弟千幡(せんまん)10歳 は西日本統治 実質後見人 北条氏

こりゃあ、、一見うまく分けたようでも、、危ない構図だわなあ、、

先に動いたのは比企氏ということなっている、、(これは、、後に暗殺される行動から疑問です)
比企氏は、、このままでは嫡男である一幡様の治世が奪われるかも知れない、、北条打つべし、と諮ったといいます。

北条政子がその動きに感づき、、文官の大江広本と密談、、北条時政と比企氏暗殺計画を練る、、のです。

「仏像供養の儀式を行いますので、北条の館にお出でください」

時政の誘いに、、比企能員は家来もつけずに北条の館を訪れます、、(
ここです、、安易に訪問するということは、緊張感が無かったことになります、、)
「先に北条打つべし、、」は、、北条側の言い訳ではないのか?、、、

北条時政の陰謀により比企能員は殺害されてしまいます。
更に頼家の嫡男「一幡(いちおう」も殺害され比企氏の館は皆殺しになります。
これを、、比企の乱(変) 健二3年9月2日(1203)といいます。

このとき、、2歳の男児であった能本は安房の国から京都の伯父の家に逃れて出家する、、儒学者として順徳天皇に仕えて承久の乱では佐渡に同行、、4代将軍の藤原頼経の未台所となった姪の竹御所の計らいで鎌倉に戻ったという、、。

比企能員(よしかず)の実子の能本(よしもと)は京都で儒学者となって帰ってきました。
鎌倉には比企能本が比企一族の菩提をともらって建てた長興山妙本寺があります。
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比企氏の乱の詳細は、本郷和人著 「承久の乱」から続けます。
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川奈港は、かってイルカが多く遊泳していたらしい、、しばらく休んで、、ふたたび伊東から熱海、湯河原に向かう、、奥湯河原の温泉宿が楽しみだ。

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素人妄想録

素人の発想ですが、、阿弥陀如来という仏さまは、、西方浄土に仏国土を持つ仏ですから、、妄想としてはルーツはギリシャ、ローマの神様ではないかと想像したりします。

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「さいたま」に渡来した玄奘三蔵法師 その⑤ ガンダーラの仏典
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※ガンダーラはギリシャ史料に、、Gandarae、、ダリウス碑文にGandaraとある、、。
「アレキサンダー大王」の東征以来、、多数のギリシャ人、ペルシャ人が往来した。クシャン朝時代には中心地であった。

初期仏教には仏像はありません。、、、ガンダーラで仏像は生まれました。
この地でギリシャ文明とインダス文明が合流した、、後に仏像が誕生します。
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西方浄土、、とはそのまま、、西国、、ヨーロッパを示す暗号ではないでしょうか
そして、、南無阿弥陀仏、、はアミターバに帰依する、、と唱えるのは、、アミターバのいう通りです、、と連想してみる。

これは、、アーメン(主のおっしゃる通りです)に近いのではないか

仏教的には、、印度で広まった浄土思想は、「無量寿経」「観無量寿教(観教)」を経典としており、「観教」は釈尊が示したものと言われている6種類の観想の一つである。

一方、、無量寿経は中国僧の善導の教えが伝わるのであるが「阿弥陀仏が法蔵菩薩として修行時代に、、全ての人々が、、仏の国に生まれることができないなら私は仏にならない、、」と誓った、、そして仏になり浄土にいる阿弥陀を思う口称念仏を修めれば、全ての人が浄土に行けるはずだ、、というものです、、、こちらが法然が行き着いたものです。

中国化された仏教は、、多くは初期仏教のシンプルさからは、、かけ離れて進化している内容が多い、、と思います。

多くの文化が、、旅の途中で進化、、変化、、習合するのは、、当然の事実です。

※法然は、、有名な「秦氏」の出自です。比較的遅く渡来した秦氏系には、、その後も地下文化として引き継がれた、「景教」への思いがあるのではないか、、遺伝子に深く刻まれた、、記憶、と言っていい、、。
平安末期に地下に潜った秦氏は、、その後も歴史の中で、脈々と文化を繋ぎ、「聖」の分野でも、頭角を現す。

あの時、、中央アジアーモンゴルー中国ー日本、、と、、異端の民は、、旅を続けた、、、。
日が昇る最果ての地に、、安住を決めた一部の旅人こそ、、ニュウタウン大和に多くの文化を提供した、、新たな渡来人だ、、。

「刻まれた記憶」、、それは脳の奥深い海馬、、でもない、、おそらく細胞に伝達された情報が、、世代を超えて、、発現する、、のだ。

遺伝子は、次の信長の時代にも、、容易にキリシタン大名を生んだのではないか、、高山右近、黒田官兵衛など秦氏が気になります

、、、、素人の妄想は続きます、、、、、、、、、

wiki–景教(けいきょう)———————

ネストリウス派(英語: Nestorianism, ギリシア語: Νεστοριανισμός)は、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオス[注釈 1]により説かれたキリスト教の一派で、東方教会(東方諸教会)に含まれる。

431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はサーサーン朝ペルシア帝国へ亡命し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった[2]。唐代の中国においては「景教」と呼ばれる。のちにはイラクを拠点とする一派アッシリア東方教会などが継承した。

wiki—阿弥陀如来(あみだにょらい)——————–

大乗仏教の如来の一つである。梵名はアミターバ(अमिताभ, Amitābha)、あるいはアミターユス (अमितायुस्, Amitāyus)といい、それを阿弥陀と音写する。阿弥陀仏(阿弥陀佛)ともいい、また略して弥陀仏ともいう。

梵名のアミターバは「量(はかり)しれない光を持つ者」[1]、アミターユスは「量りしれない寿命を持つ者」[1]の意味で[2]、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持ち(東方は薬師如来)、五智如来において西方に位置する観自在王如来と同一視するが、真言宗では阿弥陀が法蔵菩薩であったときに師事した仏として、別尊とする。
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