<平成22年3月10日台風により天然記念物の大銀杏が倒壊した>
※本殿に向かう階段は、、手すりがありません。シルバーの方は慎重に登っていました。
降りる時も怖いです。バリアフリーは馴染まないのでしょうね。
※鶴岡八幡宮のルーツは?
宇佐八幡宮(九州大分)→石清水八幡宮(京都府八幡)→鶴岡八幡宮(鎌倉)
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康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。
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鎌倉の鶴岡八幡宮は、、京都府の八幡市にある石清水八幡宮の若宮(子)として鎌倉に造営したものである。
また、、
石清水八幡宮は、、平安時代に宇佐八幡宮から勧請したのが始まりである、、
祭神は次の3柱。3神は「八幡三所大神」「八幡大神」等と総称される。
中御前:誉田別命 (ほんだわけのみこと) 第15代応神天皇の本名。
西御前:比咩大神 (ひめおおかみ) 宗像三女神、すなわち多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ)の3柱を指す。
東御前:息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと) 神功皇后の本名。
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※更に注意深く、、見ると、、どうやら、、
宇佐八幡宮(九州大分)は、、豊前国(ぶぜんのくに:現在の福岡県と大分県の一部)の香春岳にある香春神社(かわらじんじゃ)の辛島氏(からしまし)が祭祁をとり行う。
辛島氏は5~6世紀に渡来した「秦氏」で、、辛島は伽羅の集落(島)という意味である。
香春神社の際神は、、辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)と言うらしく、、伽羅国の神でしょう。、、さらに、、その元宮である、古宮八幡宮は、祭祁に必要な銅鏡や銅矛を作っていたという、、ので、、鍛冶の技術を持ち込んだのしょう。
辛島(秦氏)が伝えた鍛冶翁の蕃神は、やがて大和朝廷に組み込まれて、日本の神となったらしいのです。
自分としては、、鍛冶翁の蕃神は「一身ハ頭の荒ぶる神」、と言うことから、、8部族から成る集団のことではないか、、、一身ハ頭=8の部族=8旗=八幡、、かと、、。
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さて、、鎌倉八幡宮の、、
祭神とされる、、応神天皇と言えば、その時代に秦氏が大挙して来朝したことが挙げられる。
※普洞王(弓月の君とも言われる)は、応神天皇14年(283)に来朝、、百二十県の民(およそ二万五千人)を率いて帰化を希望した。(日本書紀)、、このような大掛かりな移民を受け入れるには、、相当な時間と事前の工作が必要な筈だ、、。
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秦氏は、この島にやや遅れて渡来(283)したが、、その後は文化産業に大きく貢献し、宗教的にも、多くの遺産を残しながら、この島全土に渡る氏族になったのです。
先のルーツからして全国の「八幡神」については秦氏の遺産と言えます。
、、ので、、ズバリ言ってしまう。
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宇佐八幡宮; 現在応神天皇が祀られている宇佐八幡宮(大分県宇佐市)は、元々、応神天皇が拝んでいた神が祀られていた。
宇佐八幡宮は、秦氏が創建した全国の八幡神社の中心であり、そこには本殿が3つあり、本来は3つの神(三位一体の神)が祀られていた。
”八幡”とは、元々”ヤハタ”と読み、”ユダヤ”を意味するヘブル・アラム語の”ヤェフダー”、あるいは、”秦氏の神”の”ヤハ・ハタ”から来ている。749年に、ここから初めて神輿(みこし)が上京したが、神輿は旧約聖書の「契約の箱」に酷似している。
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八幡は、、もともとは「イヤハタ」と読む、、「ハチマン」の読みは神仏習合によって「八幡大菩薩」となったことで始るのである、、
更に、、秦氏の秦はハダと読むので、、「イヤハダ」が適切な読みになる、、。
秦氏は、、ユダヤからの流浪の末に日本に辿り着いた渡来人と言われる、、。
ちなみに、、ユダヤはヘブライ語で「イエフダーYehudai」と言うらしい、、
したがって、、八幡→ヤハタ(YHD)→イヤハダ(YHD)→イエフダー(YHD)、、となり、、
八幡神はユダヤの神様→聖書の絶対神(ヤハウエ)のことだ、、と言える。
また、、アラム語ではイエス・キリストは「イシュ・メシャ」と発音すると言う、、
「イシュ・メシャ」→「イズ・マシ」「イザ・マサ」→「ウズマサ」→太秦(うずまさ)
平安京(京都)は、、桓武天皇が、、秦氏、、の領地に都を移したもので、、秦氏は稲荷神社(INRI)や八幡神社(YHD)を日本中に広めた、、。
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言ってしまえば、、八幡宮とは,、、その昔は、、
古代キリスト教エレサレム教団か景経(ネストリウス派)ではないか、、と言われるのだ。
参考 「秦氏の謎」学研 飛島照夫、三神たけはる著
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、、、と言うことは、、八幡宮を氏神とする源氏は秦氏?ですか?、、
※平安時代の後半になると、、秦氏は官職から、その氏を消し、、一部は源氏を名乗って豪族と結び付き武士団を形成する、、。
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※桓武天皇の子孫から「桓武平氏」ができる。
その6代後の清和天皇のころには「清和源氏」がでてくる。
いずれも、皇子が関東地方に居住する朝鮮系※の人を「武士団」として結集し、その棟梁となった。
そのときに、平氏は百済系が結集し、源氏は新羅系が結集した。
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※さらに言えば、、
一言で朝鮮系、、百済系、新羅系と言うが、、
韓国は高句麗、新羅、百済、伽那の時代の前は、、弁韓、辰韓、馬韓の三韓時代がある.
、、この中では、馬韓以外の、、辰韓、弁韓は秦人の複数の部族が移住してきて出来た部族集団とも言われています。
つまり、、朝鮮系と言っても、、秦氏系も含みますが、、さすがに混血するでしょうから、、その習慣も土着風俗の中に溶け込んでしまう、、秦氏が新羅系渡来人として扱われることもあるし、、百済系と言われ、、伽羅系といわれ、、更には秦の始皇帝の末裔と言われる。
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※まあ、、
遠くイスラエル、、弓月、、秦王朝、、辰韓、、百済を流浪した旅人集団の一部が、、この島にも辿り着いて、、その遺伝子の痕跡を残した、、その一つが鶴岡八幡宮、、だなんて考えながら、、鎌倉を歩くのは、、やや妄想に過ぎるでしょうか、、。
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※そして、、実は「あの方」が、、この鎌倉で、、無間地獄とまで言い切った専修念仏の、、法然祖師は、美作国※九米の南条稲岡庄の生まれで、、父は漆(うるま)の時国、母は秦氏(はたうじ)なり、、、(行状絵図)
法然と秦氏 山田繁夫 学研パブリッシング
※岡山県美作市
和銅6年(713年)4月3日、備前守 百済王南典と備前介 上毛野堅身の提案により[5]、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の六郡を分けて設けられ、[6]初代美作守には分立提案者である上毛野堅身が就任した。
とありますので、、父は漆の技術を伝えた秦氏、母も秦氏となります。
源氏と浄土宗とは、、秦系として、相性がいい、、のではないでしょうか、、、。
——–書きかけです————-
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