三柱鳥居と三井 その謎–② 播磨から飛鳥を訪れた普洞王

「播磨」と言えば、、NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」の出身地であるが、、、
この近くには、、また、、秦氏の秦河勝の墓があり、、、更には聖徳太子の生誕地と言われ、、最初の斑鳩寺(播磨)を建立した地でもある、、、。

斑鳩寺(播磨)—Wiki—
兵庫県揖保郡太子町。聖徳太子は推古天皇から賜った播磨国揖保郡の地を「鵤荘」と名付け、伽藍を建立し、法隆寺に寄進をした。これが斑鳩寺の始まりと伝えられている。斑鳩寺は創建から永らく法隆寺の別院(支院)であったが、焼失、再建の後に天台宗へ改宗した。現在も「お太子さん」と呼ばれて信仰を集めている。なお、俗に「聖徳太子の地球儀」と呼ばれる「地中石」という寺宝が伝わっている。聖徳太子生誕地の橘寺と、墓所の叡福寺を結んだライン延長上にこの太子町の斑鳩寺が位置している

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※この地域に、、、、大和朝廷より、、、かなり遅れて到着した西域からの渡来人、、集団がいた、、。
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※彼ら渡来人は突然、、この地に漂着したわけではない、、、、
一団は、、まずは九州葛城に、、また一団は四国讃岐に、、山城に、、富士秦野に、、拠点をつくり、、
先行隊の情報は、、百済に滞在していた普洞王のもとに届いていた、、と、、考える。

※普洞王(弓月の君とも言われる)は、応神天皇14年(283)に来朝、、百二十県の民(およそ二万五千人)を率いて帰化を希望した。(日本書紀)、、このような大掛かりな移民を受け入れるには、、相当な時間と事前の工作が必要な筈だ、、。
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※この物語は、飛鳥寺や法隆寺ができるより4~500年ほど前の話である、、。

普洞王とその集団は、上陸地点の比奈の浦(兵庫県赤穂郡)をもって最初の都と定めた。
まず、ここを固めねばならぬ、これ以上未知の土地へ前進することは、流亡してきた民族の損耗を、更に重ねることになろう。
それに、、故郷のボスポラス海峡を偲ばせる瀬戸内海沿岸の風光は、彼らの眼に安堵と懐かしみを覚えしめた。
彼らが最初にやった仕事は、丘の上に大闢(ダビデ)の礼拝堂を建てることであった。
これが、、、兵庫県赤穂郡比奈の浦大避神社の前身である。

やがて、、、普洞王は、通訳者と共に、、この国の王が住む、、大和地方に向かった、、、。
このころの大和の政権は、まだ、、中央集権の形をとってはいない、、、各地の部族の均衡の上に成り立っており、、奈良朝以前のことである、、、
「風が絹のように柔らかい。光が、たわむれるように肌にまつわる、、、天国と言うべきであろう。われわれの民族は、ようやく安住の地を得た」、、、やがて一行は、、「飛鳥」の大王の宮居に着いた、、、。

宮殿と言っても、、茅葺の小屋で、、付近の民家とは床がたかどのになっているだけの違いで区別ができる程度の粗末な外観である、、、この館を見るだけで、、この国は平和なのであろう、、、あまりの平和さに、、普洞王の一行は、、思わず、、笑いが込み上げる思いがした、、。

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※瓦の伝来は、、
588年(崇峻天皇元年)仏教伝来より36年後 「日本書紀」によれば百済から「麻奈父、奴陽貴、文陵貴、文昔麻帝弥」の4人の瓦博士と 2人の寺工(てらたくみ)と一人の鑢盤(ろばん)博士が渡来する。

最古の瓦屋根は、、飛鳥寺と言われる

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※大陸の文化から、、やや離れた、、いわば、、「大陸の別荘地」のような平和な島が、、やがて、、ニュータウンとして変貌し、、続々と、、移住者が押し寄せる、、やがて、、小さな島に、、王権を巡る、、戦いが始まるが、、、渡来人の中でも、、先行した蘇我氏と物部氏が、、熊襲や蝦夷や土蜘蛛と呼ばれた土着系の部族を武力で圧倒し、、、更に後着の秦氏は、、、中央権力と距離を置きながら、、宗教文化や商業や技術者集団として定着して行く、、のか、、。
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<高松塚古墳は藤原京期(694年~710年)の間の造営>
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「播磨に漂着した普洞王と申しますもの、大王の御稜威を伝え聞き、貢物を運んでまいりました」

「変わった貌じゃな」、、「出雲でもあるまい、、百済でもあるまい、、さては蝦夷か?」、、大王はマジと一行の貌をながめた、、、。

「いえ、、、」
普洞王は、言葉を詰まらせた。このような極東の島国の、しかも山垣で囲まれた国の王に、、コンスタンチノーブルの話をしたところで、、理解がとどくまい、、
漢民族がローマのことを「大秦」と呼んでいたのを思い出した、、、。
「大秦と申す国から参った者」

「大秦、、、?」
おおきみは、、、待臣に発言を促した、、、。
「はて、秦と言うは国はむかし在ったかに聞いておりますが、、。今は亡んでございませぬ」

「ならば、なんじらは、その亡んだ秦の王族であるか」
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<この時の大王は、、この人:応神天皇:諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも称される。応神帝御影(『集古十種』より)Wiki>

※、、、、面倒な説明は混乱の元だ、、
先に到着した、、中国からの移民団などは、、漢の皇族の劉宏の末裔などと大和朝廷に届け出ている、、、

かくて、、、普洞王の一団は「秦の始皇帝」の末裔として大和朝廷に受け入れられた、、のである。

<司馬遼太郎 兜率天の巡礼>からアレンジ、、

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※秦の始皇帝は、「紅毛碧眼」だという伝承があります。
その容姿は、明らかに漢民族ではなく、ペルシャ系統の特徴と言われてもいます。

※シルクロード沿いの秦の国にも、、要職に着く渡来系の民族が現れる、、、荘襄王の時代(紀元前251年~前246年)に、 各国を渡り歩いた大商人であった呂不韋が秦の丞相となります。
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<呂不韋>

呂不韋は一説に、、始皇帝の父という説もある、、彼はイスラエルの民である、、、。
仮に、、血縁で無くとも、、イスラエル系の集団の中から、、始皇帝が育った、、とも考えられる。
我々が考えているより、、当時の大陸や世界は、、自由な交流があったのか、、。
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http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_190.html より

■秦の始皇帝(しこうてい、紀元前259年 – 紀元前210年[4][5])Wiki——

、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 – 紀元前221年)[6]。姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(Shǐ Huángdì)、または秦始皇(Qín Shǐ Huáng, チンシュフアン)と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり[6]、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した[7]。

中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。統一後始皇帝は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した[6]。従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを行った。巨大プロジェクトも実行し、万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などを、多くの人民が払う犠牲の上に行った。また、法による統治を敷き、焚書坑儒を実行したことでも知られる[7]。

、、、、、

「中央集権国家」

始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した[57]。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され[58]、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた[59]。これは郡県制を中国全土に施行したものである[56]。

統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招く[58][60]と強行に主張した李斯の意見が採られた[56]。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された[61]。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった[59][62]。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった[59]。

「経済その他」

始皇帝と李斯は、度量衡や通貨、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法[63]などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った[61][64]。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した[61]。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された[59][64]。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。李斯は秦国内で篆書体への一本化を推進した[60]。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた[65]。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい[66]。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した[59][60]。

度量衡を統一するため、「基準となる長さ・重さ・容積の標準器」が製作され各地に配られた。

「万里の長城」

中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の遊牧民であった。戦国七雄が争っていたころは匈奴も東胡や月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。[70]。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせた[70]。そして巨大な防衛壁建設に着手した[45][77]。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった[57][70][78]。

-----書きかけです—–

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