勅許を得ぬまま、、井伊大老は日米通商条約締結を決断する、、、これをきっかけに尊王攘夷派は、、先鋭化する。
実務派とすれば、、病弱のうえ子供のいない徳川十三代「家定」、、また、、孝明天皇はもとより、、世間を知らない公家たち、、開国派主導の外に国際的な対応は困難、、と判断した。
井伊は紀州藩主徳川慶福を十四代将軍に強引決定したのち、、、政敵の水戸藩主斉昭、松平春嶽らを蟄居させ、、尊王攘夷派の弾圧に入った、、。
梅田雲浜、、頼三樹三郎、、池内大学、、鵜飼吉佐衛門、幸吉親子、、橋本左内、、日下部、、
いわゆる安政の大獄の始まりだ。
時勢は大きく変わった、、。
江戸や京都にいる久坂、高杉、吉田(栄)や、知人から松陰に、、情報が入る、、
松陰の危機感は膨らみ、、「狂夫之言」という意見書を、藩に提出する、、。
先鋭化は、、狂気としか見えない、、凄まじい気概が必要だ、、
しかし、、現場に出ることができない松陰には、、微妙な現場感覚が持てない、、、妄想が松陰を過激にさせ、、其の策は現実離れし、、弟子を扇動するも、、その策の、、失敗が続く、、。
黒船に乗り込んだ時と、あまり変わらない、、策と現実が噛み合わない、、。
例えば、、井伊大老が天皇を彦根城に移す、、という噂がでると、、
「長州藩の兵をもって、、天皇を比叡山に臨幸させよ、、」という計画を提案する、、。
が、、藩首脳の支持が得られずとん挫、、。
また、、
「一人の奸猾さえ倒せば天下はうまく治まる、、」として水野紀州藩家老の暗殺を計画する、、
これも不発に終わる、、。
現実の困難さと、、生死の際を歩くことの多い、桂(小五郎)などは、萩に帰るも松陰に会わずに、京に飛んで帰るという始末だ、、。
松陰は言う「今の日本国は、、朽ちかけた大建築物だ、、大風が吹き倒壊したのちに、新しい建物を設ければ日本は安泰になる、、私の諸友は、建物の寿命を数か月でも延ばそうとしている、、私を怪物と見ている、、。」
松陰は、、、安政5年12月26日に再び野山獄の人となった、、、。
そして、、野山獄の松陰に江戸送りの幕命が下された、、。
江戸奉行による尋問の後、、処刑を言い渡される、、
松陰は、、「留魂碌」という遺書を門弟に書き残している。
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
留めおかまし 大和魂
十月二十五日 二十一回孟子
※二十一回猛士。「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、で松陰は号としていた。
十月二十七日処刑
二十九日に、小塚原の回向院に桂と寺尾新之助、飯田正伯が向かった、、
回向院の橋本左内の横に穴を掘り遺骸を埋めた、、
文久三年、、幕府の恩赦により、、高杉らが旧長州藩別邸(世田谷区)に改めて埋葬する。
明治15年には神社が建てられた。
【公式】松陰神社/東京都世田谷区鎮座 吉田松陰先生留魂の地
東京都世田谷区鎮座・吉田松陰先生留魂の地/厄除け、合格祈願、家内安全、お宮参り、七五三参り、自動車祓、他、各種ご祈願受付
松陰斬罪の後、、高杉、久坂、伊藤などは、、過激派として尊王攘夷運動にかかわっていく、、
長州藩重役永井雅楽(うた)暗殺計画、、品川御殿山英国公使館焼き討ち、、国学者塙忠宝を九段で暗殺、、
まさに「狂」となって進んでゆく、、、。
やがて、、久坂、高杉らの「狂」は、、長州藩一藩を挙げて尊王倒幕へと動かして行った、、。
参考
吉田松陰(異端のリーダー)津本 陽
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ところで、、
3/21日春の彼岸の日、、、
常磐線南千住駅近の小塚原処刑場跡の回向院に吉田松陰の墓が残っているというので、、回向院に行ってみた、、。
下町の小さな寺だ、、、。
橋本左内の隣に松陰の墓がある、、
立派な方が橋本左内先生とある。
ここには、、、
俗称「鼠小僧」の墓もあります。
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