文武百僚も悲しみの涙を堪えることは出来なかった。
遺骨は遺言に従い、、長安の慈恩寺翻経堂に安置され弟子数百人がとり囲み哀号した。
4月14日には、長安の東方、、白鹿原に葬られたが、送る人は百余万人が集まり、、葬儀は華やかであった、、が、、遺言により柩は草筵(むしろ)であった。
5年後(688)4月には、、その遺骨を長安の南30里樊川の北原に移し塔寺を建て葬る。
、、、、、慈恩伝
日本に仏教が伝来し、その流れは、、やがて飛鳥時代の聖徳太子や奈良時代に大きく花開き、、平安時代桓武天皇時代に最澄、空海による遣唐使節団によって、、ほぼ流れが決まったと思われるが、、日本の僧が仏法発祥の地、、天竺に法を求めるには、あまりにも遠かったのでしょう、、、
日本の僧では、、直接天竺に到る僧(入竺求法僧)は誰もいなかったようだ、、、。
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真如法親王(平城天皇の第3子、素子の変をきっかけに空海の弟子となった)天竺に渡ろうとして、途中の羅越国で歿した。真如法親王のほか、天竺に渡ろうとした日本人には、奝然・慶祚・明恵・栄西などがいるが、これらはすべて計画で終わった。
インドの地を踏んだ日本人で年代と名前が明らかなのは、皮肉なことに仏教徒ではなく、宣教師フランシスコ・ザビエルが日本へ行くきっかけとなったヤジロウ(アンジロウ)である。ヤジロウら三人の日本人が、一五四八年、ポルトガルの植民地ゴアで洗礼をうけている。
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※「孫悟空」「西遊記」で知られる「三蔵法師」ですが、、
もともと、三蔵法師とは一般名詞で、
—–wikipedia——-
仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のこと。また転じて訳経僧を指していうようになった。単に「三蔵」と呼ぶこともある
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「経」とは釈迦の教え、、「律」とは戒律、、「論」とは経、律の解釈のことである。
「西遊記」の原材は、、玄奘三蔵法師の入竺求法の記録のことです。
洛陽に生まれ僧となった玄奘は、諸国遊学の後に、、貞観3年 (629)30歳のとき、求法への志を抑えきれず、、国禁を破って長安から入竺求法への旅に出るのです。
それは、シルクロードを西に向かい、、トルファン、、クチャ、、サマルカンド、、カブール、、イスラマバード、、カシミール、、ダッカ、、ガンジス川を下り、、舎衛国、、摩訶陀国、、17年間に及ぶ求法の旅は想像を絶する過酷な旅路であったに違いない、、。
テーマの” 「さいたま」に渡来した玄奨三蔵法師 ”は、知る人は、、あの事だな、、と解るが
知らない人は、、何を言ってるのか、、と思うでしょう、、、。
Googlで「さいたま市」「岩槻区」「玄奘」で検索すると、、その意味が判ります、、。
当然、、生身の玄奘三蔵が渡来したわけではありません、、果たして現在の日中関係から問題にならなければ良いが、、、。
日本の仏教は、、その殆んどが漢訳によって伝来した、、そこには、翻訳者の辛難辛苦と求法への強い思いがある、、鳩摩羅什、真諦、不空、法護、義浄などが、、翻訳者として知られている、、、。
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玄奘は、その翻訳数においては、、他の翻訳者の翻訳合計1222部を上回る1338部を、、帰国後17年間を掛けて成した、、。
※そして、「翻訳」こそ、、多くの誤解と新釈と習合と分派と、、新たな進化を生んでいる、、と思える。
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※当時、、長安には、法常と僧弁という二人の高僧がおりました。
大小二条を学び、、三学(戒、定、慧)を研究し尽くして、、「摂大乗論」を講義していたと言います。
玄奘法師は、、、「摂大乗論」は既に学んでいたが、、二人の僧に従って研究した、、。
法師は、この経の研究は1回で理解してしまった、、。
高僧は感嘆し、、
「貴方こそ仏門千里の駒と言えるでしょう。仏道が再び知恵を明らかにするのは、まさに貴方によって行われるでしょう。残念なことに、私は年老いてしまったので見ることはできません」と嘆いた。
その後も法師は、各地の高僧に逢い、、仏法の釈義を聴くが、、どうしても納得できない、、
「この際は、西域に赴き、、釈の疑惑を正すべく、、「十七地論」=「瑜伽師地論」をもって解決の道を得よう、、」と、、求法を誓ったのです。
※さて、、「瑜伽師地論」という、何やら難解そうな経ですが、、この際、、少し入門編を覗いてみようかと思う、、、。
書きかけですーーーーーーーー
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