桂浜で時間を掛けすぎたので、、コンビニでムスビをほう張りながらの運転であった。
龍馬伝のイベントで華やかな高知市内、そして桂浜の龍馬記念館から、一転して観光客もほとんど見当たらない武市半平太の旧宅に着いた、、、
夫婦2人とカメラを向けるヒゲの観光客一人が、無口で周囲を歩く、、、
居宅は、藁葺屋根はさすがに、使われていなかったが当時を思い浮かべるには足りた、、
しかし、、土塀は朽ち落ち、草木は手入れがされず、墓は木陰に寂しげに立っていた、、。
華やかな龍馬関連のイベントや豪華な山内容堂別邸などの後だけに、、、
「武市さん!あんたって人は、、、」
「あんたの性格から、、質素はいい、、、でも、、、悲しいよ、、、」
土塀は半分崩れ落ち、瓦が周囲に散乱している、、、
ペットボトルやプラスチックなど生活材も落ちていたり、、
、、、そんなに冷たく扱われていたんですか、、、永らく陽が当らない様が伝わってくる。
右が半平太、、左が富の墓
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運転しながら、、泣いた、、、、、。
NHK龍馬伝の武市半平太役の大森南朋(おおもり なお)の、、、、、
気持ちを抑える、武士の顔と、妻、富との別れ、、、切腹のシーン、、、が思い浮かび、、、旅の疲れと重なってか、、、、込み上げてきた激情を抑え切れなかった、、、、
武市半平太の生家を離れ、、次は岩崎弥太郎の生家に向かう、、、
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2010.12.24(※前日の行程記事であるが、、)
■龍馬脱藩道
前日(23日)の疲れと、、酒が残っているのか、、朝、身体が重い、、これは、今日の行程は無理できないな、、、
松山の「ホテルJALシティー松山」をAM9:00に出発
計画からは、すでに1時間遅れで、、「伊予長浜」に向かう、、、
伊予灘の海を眺めながら1時間のドライブ、、9:53 小さな長浜港についた、、
長浜港は、龍馬脱藩道の四国最終地点だ、、、この港から乗船し、長州の上関に向かった
龍馬達は、高知の家を出てから、3日間の山道を超え、、ここ長浜の勤王シンパである「富屋金兵衛邸」に宿泊している、、、
文久2年(1862)3月24日 龍馬は脱藩した、、
「顎(あご)とわしは、少し違う、、」
、、、吉田東洋暗殺を決断した半平太と袂を分けて、、山を越え、今、伊予長浜の港に立っている
、、、今から、、、船で長州に向かう、、、、ただ、、先に展望があるわけではない、、
これより2ヶ月前、、龍馬は半平太の密書を持って、、長州の久坂玄瑞と会っている、、
久坂は熱い、、、熱く激しく語っていた、、
「諸侯頼むに足らず、公卿頼むに足らず、草莽の志士を糾合、義拳のほかに策これなく、、、」
草莽の志士、、つまり脱藩浪人、、志ある一般民衆が行動を起すしか、、国を変えることはできない、、
「坂本さん!!!、、、君は土佐の同志を募り、我らと共に働いてください!!!、、」 激しく語る、、
そうじゃあ、、「元吉ッつあん(東洋)をやっても、事はたやすく成らんぜよ、、家老らあは、俺らを同じ人間と思っちゃあせん、今までと変わることなんちゃないがじゃ、、」
”郷士は下駄を履いてはならぬ、、”、そんな土佐に居て、なにが出来るがじゃ、、、
龍馬は、草莽の士となって、、この国を変える、、、、、そう誓って、、ここから、船に乗ったのだ、、、
<長浜港は小さい港だ>
長浜までは、大洲から「肱川」を川船できたとされている、、、
<海にそそぐ肱川の川幅は広い>
多少、、道を間違えて、、佐田岬方面に寄り道したが、、、肱川沿いに遡り、、県道を大洲に向かう、、、
大洲には、肱川沿いに大洲城がある、、、また、、おなじく、城主の別邸「臥龍(がりゅう)山荘」がある、、
肱川の上流の宿間村から、川船で下るとすると、、、この城、この別邸の側を通ることになる、、、
<臥龍(がりゅう)山荘の不老庵から肱川を眺める>
<臥龍(がりゅう)山荘から歩いて10分大洲城へ>
<大洲城の天守閣窓から肱川を望む>
<肱川には川船が浮かんでいた>
龍馬は、こんな船でここを通ったんだろうか、、、などと、、妄想を膨らましながら写真をとる、、、
今回の旅の計画では、、ここから国道197号線を走り、、梼原町に抜ける予定だが、、、やめた、、、
このまま、、、大洲のジャンクションから松山自動車道、高知自動車道で高知市内に行く、、、
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