龍馬 脱藩 その3(長州藩の本意)

1861年(文久元年)10月、龍馬は、「剣術詮議」を名目に讃岐丸亀の矢野一乃丞を訪ねるため、土佐を発ったのだが、、、本当の目的は武市半平太の書簡を持って、長州藩士久坂玄瑞に会うたことと、政情探索であった。

安政の大獄、そして桜田門外の変、、、、長州、薩摩そして幕府改革派の動き、、、、。

龍馬は、”ほんとは、どうなんだ”、、、という思いが強い。

この時期、長州藩は長井雅楽(うた)の建言する公武一和、「航海遠略策」の開国論を審議している。

長井は言う
「現在国家の急務は、上は天朝をはじめ奉り、下は庶民に至るまで一体となり、国難にあたる策を求めねばならない。
だが、国の方針は一定せず、公武は疎遠となり、人心は和合せずに、むなしく時日を空費している、、。
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幕府が諸侯の意見をまたず、通商条約を締結するなどで天朝の逆鱗をかうのもごもっともである、、
しかし、朝廷が幕府に対し、破約攘夷の督促をするのもどうなのでしょうか、、
血気の暴論だけでなく、、外国との利害曲直を考えなくてはいけないでしょう、、、
今は、利は敵にありて、勝てはしない、、
また、幕府の独断調印は非はあるが、国内の問題で海外との条約を破棄するのはまずいだろう、、、

よく考えてください、、、
そもそも、鎖国はキリシタン禁制に端をはっしたもので、古来から皇国の掟ではありません、、
、史実としても根拠がないでしょう、、、鎖国は断じて神慮ではないのです、、、

われわれは外国の恫喝に恐れていてばかりではいけないのです、、、
むしろ、開国して、進取の方策により、我が国威を五大州に伸長することが必要なのです。
朝廷は、鎖国の方針を変えて、海軍を振興し、海外との交易をさかんにして、、公武合体、海内一和して、、、
皇国の威勢を増して五大州を圧倒すべきなのです、、、。
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長州藩は先んじて、「航海遠略の策」を持って、公武の周旋をすべきである。」

といったものである。、、、、もっともな話である、、、。

長州藩首脳部は、審議した結果、これを藩の方針として決定した、、、、。

藩は、周旋のために、文久元年3月長井雅楽(うた)を江戸に送った。

江戸周旋の前に、京都において、三条実愛に内謁して、この意見書をさしだしたところ、、。

三条実愛はこれに感動した、、、、。

「、、堂上は世事にうとき井蛙(せいあ)ゆえ、失策も多い、、、越前家より鎖国は下策と申す説があったが、、理由が良く説明されないままに、、、天皇が鎖国を決断されたままなのです、、、。」
意見書は天皇に捧げられて、嘉納された、、、、。

天皇の答えは

「国の風吹き起こしても天津日を  もとのひかりにかえすぞまつ」

である、、、、???。

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龍馬は真意を確かめたかった、、。
長州は、尊王攘夷なのか、、、開国、公武合体なのか、、、。
藩の上層部と藩士の言うことが違うじゃないか、、、。

龍馬は、丸亀の剣術もそこそこに長州藩の久坂家を訪ねる、、が、、、久坂義助(玄随)は江戸におり不在である、、、。

久坂は正月には戻ると言う、、、龍馬は久坂のスケジュールに合わせて、とりあえず、情報収集のため大阪に滞在することにした、、。
文久二年正月まで龍馬は大阪にいた、、、。

久坂と会えたのは、正月14日のことである、、、。

龍馬は確認したいことを義助(玄随)にたずねた、、、

「尊藩の藩是は、航海遠略の策と聞いちょります。、、君はなんで、攘夷ばやるがですか。」

「航海遠略の策は、松蔭先生も説かれるところです。しかし、、方今の遠略策は、幕府を助け、天朝をないがしろにし奉るものです。、、アメリカからはずかしめられ、条約を押し付けられながら、その罪を糺さず遠略策で国威を進展させることはできません。、、
アメリカが幕府を押さえ、幕府が天朝と諸藩をおさえ、諸侯は国中の有志をおさえ、、、そなため我らは皆手足を縮めて犬の如く、狐のごとくにて、心ならずも、天朝に不忠の罪を犯しているのです、、、。」

「アメリカ大統領は将軍よりも智にすぐれてます、、日本にいる外国公使も老中より、才において優れておりますけえ、抑えられた頭をあげらませんのう、、。」

「、、、このままでは日本は亡国になります。亡国にならんために日本を乱世にせにゃあいけんのです。」

「公家の陋習は幕府よりはなはだしく、夷荻を近づけては神を汚すばかりです。、、、、諸侯、幕府は頼むに足りません、、我らのような草莽が、こぞって決起するほか道はないのです、、、」

もはや、一般民衆の決起意外に道はない、、といっている。

※これは、吉田松陰の説である、、

北山安世宛(書簡;佐久間象山の甥)  安政六年四月七日 松陰 三十歳
別名:草莽崛起論 と言われる

北山安世宛(書簡)         安政六年四月七日   三十歳

※松陰は、ここで、、

那波列(なぽれ)翁(おん)を起してフレーヘードを唱へねば腹悶(ふくもん)医(いや)し難し。

ナポレオンを起こしてフレーヘッド(自由;オランダ語)を唱えねば胸中の苦悩を解消できない。

とも、、言っている。
画像
久坂義助(玄瑞)像

久坂さんは、殿さんも幕府もいらんちゅういっとる、、、つまり、アメリカのような自由な国にすることじゃあか、、、
義助(玄瑞)さんは、もっともっと危ない道を歩くつもりじゃあ、、、。

「坂本さん!!!、我らは千歳一隅の好機にめぐりあったのです!!。君は土佐の同士を募り、われらとともにはたらいてください!!!、、」

義助さんの熱さは、藩論を引っくり返すかもしない、、、と思った、、しかし、、。
、、、龍馬は暫く長州に留まって剣術指南などしてすごした。

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ようやく、1月23日に久坂義助は半平太への書状を龍馬に渡して高知へ返した、、。

内容はこうだ、、

「ついに諸侯頼むに足らず、公卿頼むに足らず、草莽の志士を糾合、義拳のほかにはとても策これなきことと、私共同士中、申しあわせござ候。
失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても、大儀なれば苦るしからず。
両藩共存し候とも、恐れ多くも皇統綿々万葉の君の叡慮あい貫きさずては、神州に衣食する甲斐はこれなきかと、友人ども申し候ことにござ候」

義助が言う尊王とは、現実の天皇では無い、、ことは義助との話しで、わかってはいる。
存在しない理想の天皇である。、、、、神と言っていいかもしれない、、、。
今の日本では、草莽の志士、つまり、脱藩浪人たちが、、、、
天皇という神をたてて、行動を起こして、国を変えていくしかない、、と義助らは考えている、、、。

新時代を招きよせるには、激しい行動が必要なのだと、、、。

だが、、、、、、ここでも龍馬は、、、そうは思わなかった、、。

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時勢は逼迫している、、、。

水戸藩過激派による大老暗殺事件は、攘夷派を勢いづけた、、、。
土佐勤皇党率いる武市半平太は、決起を促す浪士等と話し込んでいる、、。

京へ上らねばならぬ、、、だが、、、東洋がそれを阻んでおる、、。
半平太は、すでに東洋暗殺を、、、、決断している。

龍馬は言う。
「元吉っつあんをやっても、事はたやすく成らんぜよ。家老らあは、、俺らを同じ人間と思っちゃあせん。今までと変わることはなんちゃないがじゃ。」

半平太が言い返す
「そがなことはない、、、、今日は、元吉っつあんをやるそうだんじゃあ。お前んの意見聞いちょくか」

龍馬は答える。
「俺は、殺しとうはないちゃ、、」

龍馬は座をたった。

その後 龍馬 脱藩
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。

※その後の長井長井雅楽(うた)

文久2年(1862年)、幕府で公武合体を進めていた安藤や久世らが坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。同年3月再度入京したが、この頃には尊攘激派の台頭が著しく、久坂らの朝廷工作によって長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、敬親により帰国謹慎を命じられた。6月に免職され、帰国。翌、文久3年(1863年)、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。本人も藩論が二分され、内乱が起きることを憂い、自害した。享年45。

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