1858年南紀派の井伊直弼は、大老に就任するや、アメリカとの通商条約締結と家茂の将軍継嗣を断行、更には皇妹和宮の降嫁(将軍家茂との結婚)による公武融和策をすすめるとともに、政敵一橋派の弾圧に及んだ。
皇妹和宮の降嫁(将軍家茂との結婚)による天皇家との和睦は、開祖家康が秀忠の娘和子を天皇家に入内させたのと逆バージョンだ。
家康は平清盛や古くは藤原氏のやり方で天皇家を取り込もうとした。
いわば、天皇家対策としてはオーソドックスなやり方だ。
一橋派、尊攘派に対する弾圧は徹底された、、、、。
1858(安政5年)
7月:徳川斉昭、松平春獄は謹慎処分
9月:梅田雲浜逮捕、
1859(安政6年)
2月:土佐藩主山内豊信は隠居、豊範は襲封
青蓮院宮尊蝕法親王に慎、前関白鷹司政通、三条実万に隠居、落飾、慎。近衛忠煕に辞官、落飾。右大臣鷹司輔煕に辞官、落飾、慎。
8月:徳川斉昭(なりあき)を永蟄居、一橋慶喜(よしのぶ)を謹慎処分
10月: 7日 橋本佐内、 27日吉田松陰を死罪
上は親王、五摂家、親藩、大名、諸大夫、諸藩の有志、浪人にいたる百人以上を断罪した。
安政の大獄といわれる所以である、、、。
なかでも水戸斉昭に対する憎悪は、異常であり、斉昭に幕府乗っ取りの陰謀ありとして、水戸支持派を弾圧した。
水戸藩主である徳川斉昭の永蟄居と子息の慶喜の謹慎は、水戸藩にとっては、政治生命を絶たれることになるのだ。やがて斉昭は蟄居処分が解けない1860年8月15日に心筋梗塞で急遽した。
このことが、水戸藩の過激攘夷派を刺激し、やがて、桜田門外の事件に発展する。
また、吉田松陰への死罪も、松下村塾の塾生達を突き動かすことになる。
時代は熱く、熱く、、、動いていくのだ、、、。
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■堕落した公家と幕末での復権
ところで、幕府と朝廷との関係であるが、、、
信長の時代も秀吉の時代も、、官軍として、天下統一するためには天皇の勅諚が必要だった、、、。
が、、天下統一後の徳川時代には、主権者は徳川である、、。
実権の掌握のため、朝廷への介入は徐々に進められた、、。
西国大名は江戸へ向かう際には、京都市中の通過を許可しないよう京都所司代が監視した。
1609年慶長14年には具体的に関与することになる、、。
公家の密通事件を理由に公家猪熊は死刑、その他5人の公家が遠島、女官は伊豆新島に島流しとし、朝廷の凋落に乗じて介入する。、、、まずは「しょうがないやね」といった下半身からの不祥事に対する攻めは、ある意味現在でも使われる政治的手法ではある、、、某大統領をはじめとして結構多い、、。
慶長18年には幕府は「公家衆法度」を布告する、、、。
公家は学問を第一に励むべきこと、行儀を乱し法度に背くことなきこと、勤務を怠らぬこと、夜分に用もなく巷を徘徊せぬこと、勝負事をしたりするような者を召し使わぬこと、などが定められた。
、、、、、1615年元和元年には「天子の諸芸能のことは、学問が第一なり」と天皇にまで規制している。
高校生の校則じゃああるまいし、しょうもない内容だが、、、
そのくらい規制しないと、世間知らずの公卿さんたちは町人から利用されたり、ズレがでてしまうと言うことかもしれない。
、、、、江戸時代に宮廷の不祥事は多い、、。
1773年の、汚職、二重帳簿事件は下級役人が仕入れ商人と結託し、32名の逮捕者を出すに至る。
後桃園天皇は「、、、、穏便な処置を」と内容を伝えたが、、、
京都所司代は「これは、朝廷の御ためでもあります」と拒絶、、。
2人を断罪、3人を流罪、124人を追放。商人から800人も追放者がでた。コンプライアンスがなされる状況にない。
1788年天明8年の大火災には公家たちが町屋に仮住まいとなったのだが、、。
解放された公卿たちは羽目を外し、非行に走るものが続出する、、、。
お公卿さんたちのヤンチャは、盗み、博徒、偽金使い、遊女の呼び込みまでやる始末、荒れ放題だ。
経済的には天皇は2万石程度の最下級大名並みの禄高であるから厳しくはあるが、甘やかし過ぎの感が否めない、、、のでは。
籠の鳥とも見える天皇家であるが、血の権威に、、、いま、出番が近づいている。
徳川270年という安泰が、勤皇思想を熟成し、幕末に尊皇攘夷の旋風、、、そして公武合体、佐幕(さばく)
派を押さえ、、
、、勤皇倒幕、、、へと主導権は移って行くのである、、、。
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さて、、、、。
■遣米使節団(咸臨丸)
※1860 安政7年(万延元年) 幕府遣米使節77名は、サンフランシスコを目指していた、、、。
1月18日 1860/_2/_9(木)
・幕府遣米使節77名が米軍艦ポーハタン号にて品川出帆、横浜着
1月19日1860/_2/10(金)【米国:2/9木】
・咸臨丸、浦賀出帆
1月22日1860/_2/13(月)
・ポーハタン号、横浜出帆
2月26日1860/_3/18(日)【米国:3/17土】
・咸臨丸、サンフランシスコ入港
勝(海舟)麟太郎は咸臨丸(300トン)艦長として、2415トンのアメリカ軍艦ポーハタン号に随行した。
<勝海舟 直筆の咸臨丸>
乗り組み員の子孫による「咸臨丸子孫の会」のサイトもある。
咸臨丸子孫の会
咸臨丸子孫の会
軍艦奉行 木村摂取守喜毅 31歳
船将 勝麟太郎義邦 38歳
砲術方 佐々倉桐太郎 31歳
運用方 鈴籐勇次郎敏孝 35歳
蒸気方には 小杉雅之進 18歳
奉行従者 斉藤留蔵 16歳
など若者も多い、、、、、。
米海軍士官は、海軍大尉ジョン・M・ブルックなど11名
合計105名となっている。
若者達の見たアメリカはどんなだったのだろうか?興味深い、、、。
ポーハタン号には、吉田東洋の命で、土佐藩士山田馬次郎も幕府の従者として乗り込んでいた。
この頃龍馬は江戸での剣術修業を終え、土佐に帰っていた。
山田馬次郎を乗船させたことに、、、。
「元吉(東洋)さんも、やりよるのー」と龍馬は言ったものの、ちょっとばかり、うらやましく思った、、。
、、、、、、、、、、というか、、アメリカにいった山田が、、、ほんに、、うらやましく、、思った、、、。
幕末になると、海外渡航、密航は案外簡単では、、、と思われるふしがある、、、。
1862年文久2年には長州藩高杉晋作、薩摩藩五代才助は上海へ視察
1863年文久3年には長州藩井上聞多、伊藤俊輔、らは上海港を埋め尽くす西洋船に攘夷の無謀さを知る。
土佐藩士後藤象二郎、谷千城、中浜万次郎、、沢村惣乃丞、長岡謙吉、陸奥陽之助らが上海渡航している。
実は、時期は大政奉還も近い頃ではあるが、龍馬も長府藩士福原和勝と長府藩主の密旨を受け、慶応3年3月ころ上海に密航し外国事情探索したという記録がある(下関市長府図書館)が、、、本人が直接残したものはない。
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、、、、、、もはや、攘夷を叫ぶ時代は終わろうとしていたのだが、、、、。
、、、歴史回天の渦は更に、早さを加速する、、、。
■桜田門外のテロ事件
1860年万延元年 3月3日 江戸城桜田門で登城中の大老の井伊直弼が暗殺された、、、。
水戸浪士17人、薩摩浪士1人の仕業であった。安政の大獄の歪はここで噴出したのだ、、。
大老テロ事件が起こした衝撃は大きい、、、。
※Wikipedia
孝明天皇から勅許が得られないまま独断で安政の五ヶ国条約に調印し、一橋派・南紀派の将軍継嗣問題を裁決したうえ、安政の大獄で反対勢力を弾圧していた井伊直弼に対し、藩主の父・徳川斉昭への謹慎処分などで特に反発の大きかった水戸藩では、高橋多一郎や金子孫二郎などの過激浪士が脱藩して薩摩藩の在府組である有村次左衛門などと連絡し、薩摩の率兵上京による義軍及び孝明天皇の勅書をもっての謀反を企てていた。
しかし、薩摩藩内では島津久光の統制により率兵上京が不可能となり、両藩士合同の計画は破綻。その事情を知らない水戸藩士側では計画が続行され、高橋多一郎、金子孫二郎らは薩摩藩兵と合流するため西上、関鉄之介率いる実行部隊が大老襲撃を断行することとし、薩摩からは有村※が一人加勢した。
※一人参加した薩摩藩士の有村冶左衛門兼清については、別に記事する。
、、、、襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったという。
、、、直弼の首は遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。
、、、、当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭井伊家の御家断絶と、それによる水戸藩への敵討ちといった争乱の激化を防ぐための、幕府による破格の配慮である。井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に命日が「三月二十八日」と刻まれているのはそのためである。直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外で負傷した旨の届けが幕府へ提出され、将軍家からは直弼への見舞品が藩邸に届けられている。
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事件は、幕府の威光を大きく落とした、、。
土佐から見る幕府は、巨大であった、、それが、、、、大老がたった20人足らずの刺客に首を取られるとは、、、、
どうしても信じられない、、。
3月19日に江戸からの飛脚が到着して、事件の詳細が広まった、、。
※拙者Blog「お静とお松 (桜田門外の変) 」参照
404: ページが見つかりませんでした | 東葛の風
千葉県東葛地域からの風を送ります
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9月17日 幕府は一橋慶喜、松平春獄、山内容堂の謹慎を赦免をする
※1862年(文久2年)に率兵上京した島津久光は、勅使大原重徳を擁して幕政の刷新を要求し、幕府は松平慶永の主導で井伊政権の清算を図った。その結果、直弼の側近だった老中安藤信正および久世広周を罷免するとともに、直弼の失政を理由に京都守護の家職を井伊家から剥奪し、松平容保を京都守護職に宛てた。
騒然とする国内、またしても、政情は変化する。
翌年の1861年文久元年、8月に武市は江戸で、土佐勤皇党を結成し、高知に帰国する、、、、。
■土佐藩 吉田東洋の暗殺と龍馬
時勢は切迫している、、、、。
武市半平太は、土佐藩の実権を握る吉田元吉(東洋)を必死に説得していた。
「天下の大勢は、すでにかくの如くあいなれば、先生は両藩(薩長)の機先を制し、土佐一藩をこぞって勤皇の大業に駒を進められて、しかるべしと存じまする」
元吉(東洋)は大笑いしていった。
「そのほうは、浪士らにてがわれたじゃ。白粉とおはぐろで婦女子のように化粧ばしよった、堂上公家衆を相手に、なにができるぜよ。、、、当山内家ご開祖とご公儀が間柄が、島津、毛利とはことなるかは、知っちゅうろうが、、、」
幕府の弾圧をなんとか周旋してきた東洋にとって、時勢は読んでいる、、。水戸藩浪士の過激派の行動はどう収拾するのか、、。
海外情報は岩崎弥太郎などに長崎から入れさせている、、。中外新報、香港叢誌、香港新聞など海外の新聞、雑誌も読んでいる。
ただ、藩内の保守派の動きに楽観すぎた、、、。
東洋を支える「おこぜ組」と言われる4―50人の藩士は、上下の区別なく登用して、藩を動かしてきたが、、。
吉田東洋は古くは山内の血筋とはいえ、大阪の陣では長宗我部氏の侍大将の遺臣である。
長宗我部の遺臣が山内家の上士になるのは極めてめずらしいのだ。
しかも今や、土佐の実権を握っている、、、。
郷士として260年も差別されてきたのが長宗我部一族だ、、、。
安政の大獄のおかげで、旧重臣は責任を取って蟄居させられている。
吉田は保守派に好まれてはいない、、、。
尊攘派でもない家老の山内下総は
「武市半平太らあが、それほど思いこんじゅうなら、いっそ吉田を殺ればえいが、、」
緊迫する藩内、、、、、土佐勤皇党の半平太と保守派は、互いに目的の違う船を利用しようと企んでいる。
一藩勤皇を実現して薩長と肩を並べ、幕府に合して国体を守る、、、。
天皇は万民に等しく仁慈を垂れたもう一天四海の総主である、、、。
今をおいてしか立ち上がる時はない、、、、。
半平太は既に、吉田東洋暗殺を決断した、、、、。
顎(半平太)とわしは、少し違う、、、。龍馬はそう思いはじめている。
元吉(東洋)をやっても、いままでとかわるっちゃないがじゃ、、、。
にん、日本はもっと、もっと大きな変化が必要がじゃ、、、、、竜馬はもっと遠くを見ていた。
——–つづく—————-
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