※このエピソードは後世の付会とする懐疑的な見方がある、、しかし、、「あの方」自身が後に記した「種々御振舞御書」などから、、当時、何らかの天体現象があったとされている。
※
、、、不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、
、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし。、、、
「あの方」は、、夜明けになると見苦しいので早く頸を切れ、、と大音声で言うが、、畏れて近くに寄るものがいない、、と記しています。
たま、たま、、とはいえ、、当時このエピソードの影響は大きい、、、。
「あの方」も、、あの時、私は一度死んだのだ、、と、、自身に言い聞かせるのです。
その後「あの方」は、依智(えち;厚木市)の本間六郎佐衛門の館に護送されることになった。
本間屋敷に着いたのは9月13日正午頃と言われる。
この日、、執権「北条時宗(当時22歳)」から急ぎの書状が届く、、、
「、、、この人はとがなき人なり、今しばらくありてゆるさせ給ふべし、、、」
、、ここに1カ月間滞在する、、、。
※一説には、、「あの方」を抹殺すべし、という強行派の「平頼綱」と同情派の反頼綱(安達泰盛、大学三郎など)との綱引きがあったとされる。
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平 頼綱(たいら の よりつな)
鎌倉時代後期の北条氏得宗家の御内人。鎌倉幕府8代執権北条時宗・9代執権北条貞時の執事で、貞時の乳母父。父は歴代執権の執事を務めた平盛時(または平盛綱)[2]。
御内人の筆頭格として時宗の専制体制を補佐した。
時宗死後に対立した有力御家人の安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし、内管領として時宗の嫡子貞時を擁し幕府内外で絶大な権勢を振るうが、頼綱の恐怖政治に不安を抱いた貞時の命によって誅殺された(平禅門の乱)。
安達 泰盛(あだち やすもり)
鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。安達義景の三男。評定衆、御恩奉行。
鎌倉幕府第8代執権・北条時宗を外戚として支え、幕府の重職を歴任する。
元寇・御家人の零細化・北条氏による得宗専制体制など、御家人制度の根幹が変質していく中で、その立て直しを図り、時宗死後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行うが、内管領・平頼綱との対立により、[霜月騒動]で一族と共に滅ぼされた.
※[霜月騒動]
霜月騒動 - Wikipedia
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大学三郎(比企大学三郎能本:ひきだいがくさぶろう よしもと)
※千葉県教育委員会
重要文化財(古文書)より
<大学三郎御書(日蓮真筆) 本土寺所有>
日蓮聖人の庇護者であった比企大学三郎能本にあてた弘安元年(1278)の書状で、縦30.2㎝長さ383㎝の巻物になっている。法華経の教えが華厳・真言両宗より優る由縁を説いたもので、龍口法難の折りに大学三郎が安達泰盛に働きかけて日蓮助命に奔走したことも書かれている。
大学三郎は、比企能員の末子である。能員は、源頼朝の乳母であった比企禅尼の養子で、頼朝の挙兵以来側近としてしばしば武功を立て信任を得た、鎌倉幕府初期の重臣であった。娘の若狭局が鎌倉2代将軍頼家との間に嫡男一幡を生み、さらに権勢を加えたが、頼家が重病になるにおよんで、一幡を擁する比企氏と実朝を擁する北条氏の争いにより滅ぼされた。当時2歳の能員の末子が成人して、比企大学三郎能本と名乗り順徳天皇に仕えた。
その後、鎌倉に帰り日蓮の弟子になり、日蓮宗を信奉し日蓮を支えた。
※大学三郎は晩年に住居を本行院として出家します。法号を本行院日学といい弘安九年八五歳で寂しました。
※関連サイト
鎌倉妙本寺
妙本寺 - Wikipedia
比企能員の変(ひきよしかずのへん)
比企能員の変 - Wikipedia
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「あの方」と弟子の「佐渡流罪」が決定すると、、
やがて鎌倉市中での弾圧が始る、、、
日朗はじめ5人が検挙され、土牢に押し込められる(長谷の光則寺)、三位房は頸を刎ねられんとす、妙日尼の夫(日照の縁者)は所領を没収され、鎌倉追放者は260余人となった。
鎌倉の拠点は、ほぼ壊滅したのです、、、。
拙者関連Blog 佐渡へ—②(塚原問答)
佐渡へ---②(塚原問答)
「あの方」が鎌倉街道を通り、依智(厚木)の佐渡守護代、本間重連の館で28日間滞留された後、文永8年10月10日ここを立ち、、難渋18日間の旅の先に、、新潟「寺泊(てらどまり)」に護送され、、、荒海を超え、、、、1271年11月(旧暦文永8年...
そんな中であるが、、千葉介頼胤が守護する下総の「八幡荘(現市川市)」は比較的無事な場所であった。その主な家臣には富木常忍、曽谷教信、大田条明などの武士がいる。
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※「安国寺」曽谷館跡、曽谷殿屋敷 を訪ねてみた。
千葉県市川市曽谷1-35-1
曽谷城は源頼朝が千葉勝胤(かつたね)に下総を与え、その末の千葉之助胤鎮(たねしず)が、同族の曽谷重胤(しげたね)へ曽谷一帯三千町を与え、城主となったのが始めとされる。重胤の孫の曽谷教信(きょうしん)が、日蓮聖人に帰依し、安国寺を建立した。
『市川市史第二巻』
市川よみうり
鎌倉松葉ケ谷の焼き討ちにあった日蓮は、下総八幡荘の冨木常忍の館で百日説法を行った。曽谷教信は聴聞して帰依する。教信の招きにより八幡荘曽谷郷に赴いた日蓮は曽谷館の妙見堂で三度の説法を行い妙見堂の開眼供養を営んだという。
教信は出家して「法蓮日礼」の法号を給わった。
<曽谷山法蓮寺>
市川市大野町4-2946
曽谷教信は晩年、「大野城跡」に近い大野の高台(殿台:とうのだい)に「曽谷山法蓮寺」を建て、移り住んだ。正応4年(1363)68歳没
曽谷教信没後、1世紀、、康正二年(1456)年、千葉氏と足利氏の「市川合戦」に巻き込まれた一族の曽谷左衛門直繁、曽谷弾正忠直満、曽谷七郎将旨らは討死し、、、、曽谷氏は滅亡したという。
※実は、この大野城址、、豪族大野氏、、は調査したいことが多い、、、
ここに残る地名
殿台(とうのだい)
殿内(とうない)
御内(みかど)
迎米(むかいごめ)
馬寄場
楯台
などが、、中世の城郭を示す呼び名となっている。
———-書きかけです———
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