「さいたま」に渡来した玄奘三蔵法師 その⑧  法論 大乗はガバーリ外道? 付記:日本の法論

「法論」は、仏教では議論、討論、論争のことですが、、法論は真剣勝負なので、、、この勝負のケジメは、厳しい、、。
このディベートに負ければ、、相手の論に従う、、相手の門下になる、、あるいは袈裟を脱ぐ、、といったものである。

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ナーラン寺に戻った法師は、正法蔵戒賢法師の指示で、、衆僧に「摂大乗論」や「唯識決択論」などを講義をした、、、。

そのころ、同じくこの寺で、大徳シムハラシュミ(獅子光)が、龍樹の「中論」や提婆の「百論」を講義していたので、無著の「瑜伽論」を攻撃していた、、、。

シムハラシュミ(獅子光)は、、「「瑜伽論」で言う「円成実」などの考えは捨てるべきだ」と言っていた。

法師は、これに対して中観派の「中論」「百論」と唯識派の「瑜伽論」は、それぞれの面から説いてはいるが、、究極の真理は相矛盾はしていなのだ、、と考えていた、、、。

法師は、二宗の教えは和合して相背せぬといい「会宗論」三千頌を著して正法蔵と衆僧に示すと、、またたく間に広まり、、普及した。

シムハラシュミ(獅子光)は、、恥じ入りナーランダ寺を去った、、、。

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シムハラシュミ(獅子光)が、、まだ、、ナーランダ寺にいた頃の話で、、、

ハルシャバルダナ王がコーンゴーダを征服し、ウダ国に入ると、、ウダ国の僧侶はみな小乗経を学び大乗経を「空華外道」といい、、、「釈迦が説いたものではない」といっていた、、。

「大乗経」は「カバーリ外道:(ユダヤ経、イスラム経?)」と同じで空華外道だ、、と悪口を言っていた、、、。

ウダ国では、、南インドの王で潅頂師でもある、、老バラモンの正量部の研究書である「破大乗論」七百頌を尊重して、、大乗はこの論を破すことはできまい、、と言った。

ハルシャバルダナ王は、、このことをナーランダ寺の正法蔵戒賢法師に伝え、、法論をするように親書で促した、、、。

そこで、、戒賢法師は、、「海慧」「智光」「獅子光」と「法師(玄奘)」の四名で、これに応ずることになった、、、。

実は、、海慧らは心配した、、、そこで、、法師(玄奘)」は「、、、私が必ず説き伏せてみせます、、どうかご心配なく、、もし万一敗れたにしても、、私は支那の僧なので、皆さんの名声に傷はつきません」、、、と言ったので、、皆喜んだ、、、と言う、、、。

※法論の厳しさを感じます、、、

この結末は、、、ハルシャバルダナ王が法論中止をしたので、、結果を見ずに終わっています。
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■※日本の法論では、、気になる場面があります、、、。

それは、、、
1979年(天正7年)安土城下の浄厳院で、、織田信長の指示で行われた「安土宗論」です、、

※名代-織田信澄  目付役-には、、あの「森蘭丸」の名前も、、、
そりゃあ、、こわいがぎゃ、、信長が、、後ろにおるで、、、

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『信長公記』等に依ると、1579年(天正7年)5月中旬、浄土宗の霊誉玉念(れいよぎょくねん)という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていた。そこに法華宗の建部紹智と大脇伝介が議論をふっかけた。霊誉長老は「年若い方々に申し開きを致しましても、仏法の奥深いところは御理解出来ますまい。お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答えた。

法華宗の方も、では宗論をやろうと京都の頂妙寺の日珖、常光院の日諦、久遠院の日淵、妙顕寺の大蔵坊、堺の油屋の当主の弟で、妙国寺の僧普伝という歴々の僧たちが来る事になった。

そしてこの噂が広まり、京都・安土内外の僧俗が安土に集まると騒ぎは大きくなり、信長も伝え聞く事になる。信長は「当家の家臣にも法華の宗徒は大勢いるので、信長の考えで斡旋をするから、大袈裟な事はせぬ様に」と、菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らを使者として両宗に伝えた。しかし、浄土宗側ではどの様な指示でも信長に従うと返答したが、法華宗側は勝つ見込みで奢っていた為承諾せず、ついに宗論をする事になってしまう。

信長は「それなら審判者を派遣するから、経過を書類にして勝負の経過を報告せよ」と申し、京都五山の内でも指折りの博学で評判の、日野に住む南禅寺の長老・景秀鉄叟(けいしゅうてつそう)を審判者に招いた。そして折り良く因果居士(いんがこじ)が安土に来ていたので、彼も審判に加えて、安土の町外れに有る浄土宗の寺浄厳院の仏殿に於いて宗論を行った。

法論の出席者は以下の通り。
浄土宗側-霊誉玉念、聖誉定(貞)安(西光寺)、信誉洞庫(正福寺)、知恩院助念(記録者)
法華宗側-常光院日諦、頂妙寺日珖、久遠院日淵、妙国寺普伝、久遠院大蔵坊(記録者)
判定者-正明寺の鉄叟景秀、華渓正稷、法隆寺仙覚坊、(因果居士)
名代-織田信澄
奉行-菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一
目付役-矢部家定、「森蘭丸」

法論の内容[編集]

『信長公記』等に依ると法論の概要は以下の通り。

霊誉「私が言い出した事なので、私から発言しましょう」
しかし、貞安はそれを遮って早口で問いを発した。

貞安(浄土宗側)問う: 法華八軸(8巻)の内に念仏はありや。
(※貴方達は私が信じる阿弥陀様をインチキだと言いますが、、法華経の中に念仏という言葉は出てこないのか?)

法華側答う :念仏あり。
(※法華経の中にも念仏と言う言葉は、あります)

浄土側問う: 念仏の義あらば、何故法華は念仏無間地獄に落ちると説くや。
(※法華経に念仏があるのに、何故法華宗は念仏を唱えると地獄に落ちると言うのか?)

法華側答う :法華の弥陀と浄土の弥陀とは一体や、別体や。
(※それでは法華経の中の阿弥陀と浄土宗の阿弥陀とは同じだと考えますか?それとも別物ですか?)

浄土側曰く: 弥陀は何処にあろうと、弥陀一体なり。
(※阿弥陀様はどこにあろうが同じでしょう)

法華側答う :左様ならば、何故浄土門は法華の弥陀を「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」として捨てるや。
(※阿弥陀が同じだと言うならば、、浄土宗の法然さんは、「捨閉閣抛」(阿弥陀以外は捨てよ)と言って法華の弥陀を捨てることになるが、、、矛盾するではないか?)

浄土側曰く: それは念仏を捨てよと云うに非ず。念仏をする前に念仏の外の雑行を捨てよとの意なり。
(※法華の念仏を捨てよというわけでは無い。念仏以外のことを考えるな、、と言う意味なのだ)

法華側答う :念仏をする前に法華を捨てよと言う経文はありや。
(※それなら、、「念仏に専念さえすれば法華経を捨ててもいい」などという経文は何処にあるのか?)

浄土側曰く; 法華を捨つるとの経文あり。浄土経には善立方便顕示三乗とあり。また一向専念無量寿仏ともあり。
(※浄土教には善立方便顕示三乗、一向専念無量寿仏とある、、方便である)

(法華側曰く):法華の無量義経には、以方便力、「四十余年未顕真実」とあり。
(※なるほど、、方便ですか、、法華経の中の無量義経で、お釈迦さまが四十余年間の説法は方便(仮の教え)であり真実では無い、と言っているではないか、、また、「正直捨方便」ともいっている、、浄土経は方便の教えであるから、、捨てるべきであろう)

浄土側曰く ;釈尊が四十余年の修行を以って以前の経を捨つるなら、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか。
(※釈尊が四十余年間の説法を方便だと言って捨てるならば、、法華以前に説いた四番目の「妙」の教えも捨てるのか、それとも、捨てないのか)

法華側答う: 今言うは、四十余年の四妙中の何れや。
(※今の言は、、四十余年のうちの四種の妙のどれのことか?)

浄土側曰く: 法華の妙よ。汝知らざるか。
(※法華の妙のことよ、そのことも知らんのか?)

法華側返答なし。閉口す。
(※、、、、、、、)

浄土側重ねて曰く 捨てるか、捨てざるか。
(※捨てるのか、捨てないのか、、どっちやねん!、、)

重ねて問いし所、法華側無言。其の時、判者を始め満座一同どっと笑い、法華の袈裟を剥ぎ取る。

天正七年己卯年五月二十七日辰刻
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宗論が終った直後、頂妙寺の日珖は「妙」の一字に答えられず、群集に打擲され、法華八巻は破り捨てられた。法華宗の僧や宗徒達は逃げ散ったが、これを織田信澄らが捕え、宗論の記録を信長の下へ届けた。信長は時を移さず、安土から浄厳院へ出向き、法華宗・浄土宗の当事者を召し出して、霊誉と聖誉に扇と団扇を贈り、大いに褒め称えた。審判者の景秀鉄叟には杖を進呈した。

そして大脇伝介を召しだして「一国一群を支配する身分でもすべき事ではないのに、お前は俗人の塩売りの町人ではないか。この度は霊誉長老の宿を引き受けたにも係わらず、長老の応援もせず、人に唆されて問答を挑み、京都・安土内外に騒動を起こした。不届きである」と、厳重に申し渡して真っ先に斬首した。

更に信長は追及して「宗論の場では己は発言せず、他人に問答をさせて、勝ち目になったらしゃしゃり出様と待ち構えていた。卑劣な企みで、真にけしからぬ」と、普伝の首も斬った。残った法華宗の歴々の僧達へは、次の様に言い渡した。「大体、兵達は軍役を日々勤めて苦労しているのに、僧職の者達は寺庵を結構に造り、贅沢な暮らしをしている。それにも関わらず、学問もせず『妙』の一字にも答えられなかったのは誠に許し難い。ただし法華宗は口が達者である。後日、宗論に負けたとは多分言うまい」、そして「宗門を変更して浄土宗の弟子になるか、さもなくば、この度宗論に負けた以上は今後は他宗を誹謗しない、との誓約書を出すがよい」と申し渡した。詫び証文の概要は以下の通り。

敬白 起請文(きしょうもん)の事
1.今度(このたび)近江の浄厳院に於いて浄土宗と宗論を致し、法花宗が負け申すに付いて、京都の坊主普伝、並びに塩屋伝介が仰せ付けられ候事。
2.向後他宗に対し一切法難(非難)致し可からざる之事(今後は、他宗に対し決して非難は致しません)。
3.法花一分之儀立て置かる可き之旨、忝く存じ奉り候(法華宗に寛大な御処置を賜りまして、誠に有り難い想いです)。私共法華宗の僧はいったん宗門を離れ、改めて御許可を得てから前職に就かせて戴きます。

天正七年五月二十七日   法花宗

上様、浄土宗様

この様な証文を出した[5] 上に「宗論に負けました」と書いてしまったからには、法華宗が負けた事を女子供迄もが後の代まで聞き知る事になった。別の文句が幾らでもあったのに失敗した、と歴々の僧たちが後悔していると伝え聞いて、またまた世人はこれを笑い者にした。

建部紹智は堺の港まで逃げたが捕縛された。この度の騒動は大脇伝介と建部紹智が発端となったのだから、紹智も首を斬られた。

以上、信長公記の記述による。
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※屈辱的、衝撃的な敗北である、、、、。

※そもそも、、念仏宗との論争は、、鎌倉時代に天台法華宗や、天台沙門を名乗る頃の日蓮上人が、当時の鎌倉幕府に遇された浄土宗を、国を滅ぼす悪法と断じて論争を仕掛けていたものである。
天台宗など伝統教団では、法然が「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」、、つまり、法華経を含む釈尊の宝塔を捨てよという、専修念仏に対して危機感を抱き、、弾圧を加えてきた。

しかし、、現実に苦しむ庶民にとっては、高度な学識を重ねる伝統仏教よりも、誰でもが念仏「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば来世に極楽浄土に行ける、、とするコンビニエンスな易教が望まれていたのだ、、。

弾圧に耐えた浄土宗は、、伝統教団との融和をも含む教義に進化して、、教線を拡大して行くのです。
※尚、、「阿弥陀仏」の由来や法然の母親「秦氏(はたうじ)」、、出生の岡山が渡来人「秦氏」の地であること、、そして秦氏は古来キリスト教(景教)の系統であったことは、、知られているが、、別の項で詳しく調査する。

※そして、、この頃の信長が「キリスト教」に興味を抱いていたことも、、影響があるかもしれない、、。
拙者blog「京都徘徊–その4(信長の叡山焼き討ち、、、と、、ポルトガルのアジア植民地政策) 」
京都徘徊--その4(信長の叡山焼き討ち、、、と、、ポルトガルのアジア植民地政策)
2011.11.30の記 午前中は、木屋町通、土佐藩邸跡周辺で、幕末の気配を感じながら散策、、 午後は叡山に向かった、、 京阪三条駅から出町柳駅へ、、、叡山電車に乗り換えて、、八瀬叡山口駅で下車、、ケーブルカーに乗り換えて比叡駅、、、ここか...
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※ここでの、、ポイントは、、「、、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか。」
、、という設問である、、。

法華側としては???なのは、、、実は、、「見解の相違」と言う奴だ、、、。

その前の、、、
浄土側曰く; 法華を捨つるとの経文あり。浄土経には善立方便顕示三乗とあり。また一向専念無量寿仏ともあり。
(※浄土教には善立方便顕示三乗、一向専念無量寿仏とある、、方便である)

、、と、、言った段階で、、法華宗は、、、「無量義経」を切り札にして勝利を確信していた、、。

この経によれば、、「四十余年未顕真実」とあり、、釈迦が法華経以前の教えは「方便」で真実の悟りでは無い、、とするもので、、「正直捨方便」、、方便は捨てよ、、と読めるからだ、、。

※法華宗(日蓮宗)は、、天台智顗(ちぎ)、日本天台宗最澄の「五時八教の教判」を、、「折伏」のマニュアルとしている、、、。

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教相判釈(きょうそう はんじゃく)とは、中国をはじめとする漢訳仏典圏において、仏教の経典を、その相(内容)によって、高低、浅深を[要出典]判定し解釈したもの。略して教判ともいう。

■五時八教の教判、

あるいは五時八教説(ごじはっきょうせつ)とは、天台智顗(ちぎ、538年 – 597年)が、一切経を五時八教に分けたものである。日本へは最澄が紹介した。これを日蓮が採用し、法華経が最高の教えであるという根拠とした。

五時[編集]

最初に華厳経を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったとして、次に平易な阿含経を説いたとする。人々の理解の割合に応じて、方等経、般若経を説き、最後の8年間で法華経と涅槃経を説いたとする。そして最後に説いた法華経が釈迦のもっとも重要な教えであるとしている。

五時を、説法した期間・会座(えざ=説法の場所)・経典などを分類すると次の通り。
1.華厳時 期間 – 21日間(一説に31日間とも)
会座 – ガヤー城近郊、ナイランジャナー河の菩提樹の下など、7処8会
経典 – 華厳経(大方廣仏華厳経)
位 – 乳酥、別・円を説く頓教、擬宜の教え

2.阿含時 期間 – 12年間
会座 – バラナシー国の鹿野苑
経典 – 増一、長、中、雑、小の阿含経、法句経などの南伝大蔵経
位 – 酪酥、蔵のみを説く漸教(秘密・不定教もあり)、誘引の教え

3.方等時 期間 – 16年間(一説に8年間)
会座 – シュラバスティーの祇園精舎、マガダ国の竹林精舎、ヴェーサリー国のアンバパーリー園など
経典 – 大方等大集経、阿弥陀経等浄土三部経を含む大宝積経、大日経、金光明経、維摩経、勝鬘経、解深密経など権大乗経
位 – 生酥、蔵通別円の4教を対比して説く漸教(秘密・不定教もあり)、弾訶の教え

4.般若時 期間 – 14年間(一説に22年間)
会座 – マガダ国のラージャガハ附近の霊鷲山など、4処16会
経典 – 大般若経、金剛般若経、般若心経など
位 – 熟酥、円教に通別を帯ばしめて説く漸教(秘密・不定教もあり)、淘汰の教え

5.法華涅槃時 期間 – 8年間(うち涅槃経は一日一夜)
会座 – マガダ国のラージャガハ附近の霊鷲山など、2処3会(法華経)、クシナガラのアジタパティー河辺の沙羅双樹の下(涅槃経)
経典 – 法華経28品を中心とする法華三部経、涅槃経
位 – 醍醐、円教を説く頓教(秘密・不定教なし)、開会の教え

ただしこれは、経典に書かれている時間・時期的な記述や場所、またその内容から、あくまでも順序だてて分けただけで、必ずしも釈迦が絶対的に必ずその順番で説いたわけではない。

八教[編集]
八教(はちきょう)は、化義(けぎ)の四教と、化法(けほう)の四教に分けられる。

化義の四教[編集]
化義の四教とは、人々を導くための形式(儀式など)を義と呼び、釈迦の教えを形式の上から分類したもの。

1.頓教(とん、頓とは速やかの意で、仏が悟りを開いた直後、衆生の機根に関係なくすぐに説いた教え)

2.漸教(ぜん、漸とは次第にの意で、浅い教えから深い教えと次第し順序を追って衆生の機根に応じて説いた教え)

3.秘密教(ひみつ、正しくは秘密不定教といい、機根の違う衆生同士に説法の違いを知られず(秘密)に、各々別々(各別)に応じた不定の得益がある法を説いた教え)

4.不定教(ふじょう、正しくは顕露(けんろ)不定教といい、機根の違う衆生同士でも説法の違いを知り(顕露)ながらも、各々別々(各別)に応じた不定の得益がある法を説いた教え)

これを五時と配釈すると、頓教は華厳時、漸教は阿含・方等・般若の三時、秘密教と不定教は華厳の一部と阿含・方等・般若となり、非頓非漸・非秘密非不定が法華涅槃時とする。

化法の四教[編集]

化法の四教とは、教えそのもの(四諦など)を法と呼び、釈迦の教えを内容から分類したもの。

1.蔵教(ぞう、経・論・律の三蔵教(さんぞう)の略。)
小乗教ともいい煩悩を断ずるために、空理を悟るべきことを説くが、すべての実体をただ空の一辺のみと見るので「但空(たんくう)の理」といい、また偏った真理なので「偏真の空理」ともいう)

2.通教(つう、蔵教と別教に通じる教え。)
大乗の初門。諸法の本体に即しそのまま空とする体空観(たいくうかん)を説くが、利根な菩薩は、ただ単なる空ではないという中道の妙理を含む「不但空の理」を悟るも、鈍根な菩薩や声聞・縁覚は蔵教と同じく「但空」を悟るに止まった)

3.別教(べつ、前の蔵・通二教や後の円教と違い、菩薩のみに別に説かれた教え。)
前の二教が空理のみを説くのに対し、空・仮・中の三諦を説くが、三諦は互いに融合せず、各々が隔たるので「隔歴の三諦」といい、一切の事物について差別のみが説かれて、融和を説いていない。また中道諦も説くが、空・仮二諦を離れた単なる中道なので「但中の理」という。また三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)を説き、これを断ずるために、菩薩の五十二位の修行の段階を説く。さらに十界の因果を説くも、各々の境界を別個に説くだけである。したがって別教は三諦円融や十界互具(じゅっかいごぐ)の義もない不完全な教えとされる)

4.円教(えん、円満融和の教え。空仮中の三諦の融和、十界互具を説く、最も優れた完全なる教え)

これを五時と配釈すると、蔵教は阿含・方等、通教は方等・般若、別教は華厳・方等・般若、円教は華厳・方等・般若・法華涅槃となる。しかし華厳・方等・般若と涅槃経は蔵・通・別の方便教が混じる雑円の教えであり、純粋な円教ではない。ただ法華経のみが独立して純粋な妙なる円教を説くとされる。

したがって、法華は化儀と化法の八教を超越しているので「超八・醍醐」の教えという。

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同じく

最古の教判は、竺道生によるといわれるもので、以下の4種に分けられた。

1.善浄法輪(ぜんじょうほうりん) – 在家信者のために説いた
2.方便法輪(ほうべんほうりん) – 声聞・縁覚・菩薩のために説いた
3.真実法輪(しんじつほうりん) – 法華経を説いた
4.無余法輪(むよほうりん) – 大般泥洹経(だいはつないおんきょう、法顕訳の涅槃経前半部のみ)を説いた

次いで、慧観(えかん)の五時の教判が提唱される。

1.鹿野苑で四諦転法輪(したいてんぽうりん)を説いた
2.各所で大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)を説いた
3.各所で維摩経(ゆいまきょう)・梵天思益経(ぼんてんしやくきょう)を説いた
4.霊鷲山で法華経を説いた
5.娑羅双樹(しゃらそうじゅ)林で大般涅槃経を説いた

慧観は、この五時を定めて、五時の教判の源流を創始したとされる。

道生・慧観ともに、法華経を訳した「鳩摩羅什の筆頭の弟子」である。

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※つまり、、、「経判」は、、「研究成果」ではあるが、、はたして、間違っていないか?、、と言われれば、、検証、判断は難しい、、のでは、、、。

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例えば、、ここで、、

1.華厳の妙
2.阿含の妙
3.方等の妙
4.般若の妙

の、、四期に分けると、、浄土三部経の「妙」という言葉が、「3.方等の妙」で出るのだから、、、浄土宗が念仏を唱えているのは、釈迦の本意ではない、、。

設問は、、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか

とあるため、、、答えられなかった、、、とする、、、

「法華の妙よ。汝知らざるか。」

と更に追い込まれて、、沈黙してしまった、、、

答えは、、「浄土三部教は、、第三の「妙」であり、方座第四の「妙」では無い、、貴方が間違っている、、捨てるべし」、、で良かったのだ、、、。

※つまり、、、「見解の相違」、、ということで、「引き分け」で、終わったのだ、、、。

しかし、、「妙」という最高の悟りを無視できない、、日蓮宗は、、南無「妙法」蓮華経、、なのだから、、困った、、、。

法華宗は、その場では、、知識の外にあり、、答えられなかった、、、。
ディベートとしては、、完敗である、、、。

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※方便とは、、
「方便」はサンスクリットの upaya ウパーヤの漢語訳であり、upaya は、upa~を語幹に持つ動詞(=「近づく」「到達する」)から派生した名詞である。すなわち、ウパーヤは「接近」「到達」「手段」「方策」などが元々の意味である。
仏に近づく「巧みな方法」、、と言われる。

※しかも、、、現在は、、法華経は、、釈迦が直接に説いた経では無い、、という説が有力であるから、、法華宗は、そのことを前提としてスタートしなければならない。

※更に言えば、、「アミダ:(アミターバ)」は「アーメン」の語源が似ており、ただ「アーメン」と唱えよ、、も、、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えよも似ている、、。「弥勒下生」は「キリスト降臨」と似ている、、

副島隆彦に言わせれば、、「アミダ」は、、「アメンの神:アーメン:アクナートン神」に似ている、、
クシャーナ朝のカニシカ王の時代に、、キリスト教が仏教に流れ込んだ、、その時に阿弥陀如来が生まれたであろう、、阿弥陀如来はマグダラのマリアだ、、とまで言う、、。

※先に記した、、浄土宗の祖師「法然」が岡山で生まれ、、母が「秦氏」という名前からして
秦氏=古代キリスト教との関連を想起します。

岡山県は秦氏の活躍が濃厚な県です(地名と営み)
岡山県内の秦氏 - 地名と人々の営み
岡山県瀬戸内市長船町内の地名から人々のかつての営みを研究しています。地名はその地域の人々の暮らしや営みに必要な事柄を、その土地につけた名前です。その名前を地域の人々すべてが認識してはじめて地名になります。従って「必要な事柄」と「共通の認識」...

それじゃあ、、どっちも、、ケンカにならないよね、、、。

まま、、

危ない話になるので、、、
ここでは、、深入りはしない、、ことにします。

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