「峠」

福地は、、、、、、地球儀をかかえてきて、それを卓子の上に置き、、
「ここです」、、、、と一点をさし示した、、。
なるほど、、アルプス山地の中に、様々な国境に囲まれて小さな国がある。そこがスイス国らしい、、。

「小さいが知能の優れた国ですよ」
、、
「わが国の長岡藩のようなものだ」、、、と、、、継之助は大まじめで応じ、、。
「その人は、スイス国の武士ですか」ときいた。

「いいえ、商人です」
、、、、名はファブルブランドと言い、日本で時計を商うためにほんの1ヶ月間、この横浜にきたという。
時計だけでなく、、兵器もあつかいたいという。

翌日、、継之助は居留地に出かけることにした。
「これが一番館だ」、、その隣に「2番館」があり、どちらも英国商人のものだ、、、
「3番館はアメリカ人の商館である。、、、、

スイス人ファルブランドの商館は175番館で、、、2階建ての粗末な木造洋館である、、。

司馬遼太郎さんは、、、幕末の維新戦争の中でも熾烈を極めた北越戦争は、、、
長岡藩の河合継之助なる幕末の英傑の存在が大きい、、、として「峠」という小説を書いた、、。

スイス人のファルブランドは、実在なのか創作なのかは知らない、、、、、
長岡藩に最新の銃器を売り込んだ、、。

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只見町河井継之助記念館
画像
<ガトリング砲について>
ガトリング砲とは、1862年米国人リチャード・ガトリングが南北戦争の最中に発明した最初の機関銃で、1分間に200発もの弾丸を発射できる当時最強の兵器であった。
継之助は、日本に3門しかなかったガトリング砲を武器商人スネルから2門1万両で購入した。長岡城攻防戦では、継之助自ら射手として西軍に対し、大手門の土手を盾に乱射したと伝えられている。
河井継之助記念館所蔵のガトリング砲は、当時使用された機種1868年型をもっとも忠実に再現したものである。

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国論を二分する事態に、長岡藩内の勢力も二分していた、、、。
、、、河合継之助は勤皇倒幕政府と旧徳川との間にあって、、、武装中立国を目指した、、、

(スイス人を登場させたのは、継之助の戦いの狙いを「武装中立」と見た、司馬さんの伏線なのかも知れない、、、)

、、、、、、、、

時節は津波のように(やや気になる表現だが、、)長岡藩に押し寄せている、、、。

時節という津波は、、長州、薩摩から発し京都、江戸、、北越、会津を撃破して、、、ついには北海道函館まで達するのである、、、。

武士の時代が終わることを強く予感し、開国も時代の流れだとする開明派の継之助ではあったが、、、、、
今は、、時を稼ぐのだ、、時が必ず解決する、、、武装も、、そのためだ、、、と、、

継之助は、自身の戦略に確信を持っている。

、、、、が、、、、、

努力のかいなく、、中立への道は、官軍の軍監岩村高俊(長州藩;24歳)によって、、あっけなく閉ざされる、、、
断念した河合継之助は、奥羽連合と共に最後の決戦に突入し、、武士としての美学に殉じる、、、。

※この小説の中で、、、
司馬遼太郎さんは、スイス人ファルブランドの言葉を使って、、おもしろいことを言わせている。

「われわれアーリア人種は中央アジアのどこかに住み、ヨーロッパに移動した。日本人の遠い祖先もそのあたりにいて逆に東の方に移動したのでしょう。それ以来、われわれは会っていない」

いまはじめてあなたと私とはこうして出会っている、とこの若い商人は目をかがやかして言った、、、。

※拙者関連blog参照
古事記とシュメール語(日本人はシュメール人だった) | 東葛の風
言葉の翻訳から発生する意思の誤解は、当然というか、間違いを起こすことはあるでしょうね。 ※いま科学や学問の進化が、翻訳を更新して、歴史を引っくり返すことがあるかも知れません。 いや、、、歴史の真実と虚とを、とんでもない展開で説明するのです。

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