佐渡へ—②(塚原問答)

「あの方」が鎌倉街道を通り、依智(厚木)の佐渡守護代、本間重連の館で28日間滞留された後、文永8年10月10日ここを立ち、、難渋18日間の旅の先に、、新潟「寺泊(てらどまり)」に護送され、、、荒海を超え、、、、1271年11月(旧暦文永8年10月28日 )ここ佐渡の「松ヶ崎」に着いた、、、ここで行く先が定まらず、、3日間の野宿を強いられた、、
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今、見る、夏の日本海とは違う、、、冬に向かう荒海を眺め、、、、、房総生まれの「あの方」は、、これからはじまる、、流配生活に何を思ったのであろうか、、、

翌12月(新暦)1日に山を越えると、「塚原」と呼ばれる平地に出る、、「あの方」は山野の墓場にある、一間四方のあばらや「三昧堂」に配置きされます、、、

※一間四面のあばら家といえば、、、1.8m×1.8mですから、、、寒さは外気そのものでしょうね、、
※ママ:一間とは身舎(もや)の柱の数をいい、、四面とは庇が四方に張り出していることで、、間面記法というらしい、、約8畳くらい。

「あの方」はそのときのことを、、

、、、、、、塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のように、死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし。上は板間あわず四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆることなし。かゝる所に所持し奉る釈迦仏を立まいらせ、しきがわ打ちしき、蓑うちきて夜をあかし日をくらす。夜は雪・雹・雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給わず、心細かるべき住まいなり。、、、、、、

と記しています。
※極寒地獄の佐渡塚原は、、「あの方」と弟子にとって、、鎌倉の滝の口に続く、、「死」を目前に見た場所です、、「あの方」と弟子は、、ここで殉教者となったかも知れません、、。

※しかし、「あの方」は、「不行菩薩は、増上慢の僧達に杖で打たれてこそ、法華一条の行者となったのだ、、」むしろ、この難を喜ぶべきだ、、、と言うのです、、、

鎌倉より流配されし、、、法華経の僧が、大音声を発しておる、、、、、
そのことは、近隣に知れ渡り、、、

翌文永9年(1272年)1月には、佐渡だけでなく北陸・越中、出羽、奥州、信濃から諸宗の僧など数百人の僧侶が問答を挑みます、、、「あの方」は全てを破釈(塚原問答)し、、、やがて、、阿仏房・千日尼夫妻など帰依する方も出ました。

※阿仏房・千日尼夫妻

順徳天皇に仕え、従四位上に叙せられる。和漢の学に通じ、歌道にも上達していた。承久3年(1221年)に承久の乱により佐渡島に流された天皇に従って、仁治3年(1242年)に崩御するまで側近く仕える。その直後に妻とともに剃髪し、30年間も天皇の陵に廬を結んで住む。もともと浄土宗を深く信仰し、念仏怠りなく、自ら「阿仏坊」と号していたが、文永8年(1271年)の冬に日蓮が佐渡に流され、塚原に潜んでいたところを訪問し、日蓮の説を聴き、妻とともに浄土宗を棄てて弟子となる。文久11年(1274年)に日蓮が鎌倉を経て甲斐に隠栖すると、遠くにありながら再三身延山を訪れては日蓮の説法を聴いていた。弘安元年(1278年)に90歳の身で登山したのに対し、日蓮は大いに感激して、「日得」の名を与えた。その翌年に寂す。

※佐渡、妙宣寺は日得(阿仏房)開基といわれている、、、

※STOP
少し、、感傷的になりすぎた、、、この状況を想像してみよう、、、

雪深い、佐渡は塚原の地に、、、数百人の僧が押し寄せたとすると、、、、
まさに、、、大イベント会場と化してしまう、、、、

悪僧、阿弥陀如来の大怨敵、一切衆生の悪知識、、、と悪口罵詈(あっくめり)されたとしても、、、
遠く都を離れた北海の地であって、、「あの方」は、、すでに有名人であったのだ、、

※特に、当時の浄土宗、禅宗は鎌倉前期より広く民衆に支持されており、、、その念仏、禅を「国を滅ぼす邪教」であると過激に断言する「あの方」は、、おそらく下総、八幡郷以外では、、ほとんどが敵中にあるといってもいい、、のでは、、。

「あの方」との問答とは、、質疑応答形式であったのか、、、
ただ、ただ、、罵倒されたのか

※たしかに、檀家(僧でない信者)達の、罵りは「震動雷電の如し」と「あの方」も言っているので、、、
凄まじいばかりの悪口罵倒を衆人から浴びせられたようだ、、、

また、「たまたま、殺されずに、佐渡まで来たが、、どうせ殺される身だ、、大勢で集まって殺してしまおう、、おとがめもなかろう」、、という者もいたという、、
地頭の本間重連の、、「正邪を論じるべきである」という、はからいで、、なんとか、その場は落ち着いたが、、。

思うに、、僧侶達は、わざわざ、北陸、信州各地から、、やって来たのだ、、悪口を言うだけに来た?、、、
そうではないだろう、、、鎌倉新仏教の、、新たな波動が押し寄せているのだ、、、

伝行大師(最澄)、弘法大師(空海)の時代から、、もはや時代は、大きく変化した、、
世は天皇、公卿の時代から、、武家の時代に入った、、、

それは、50年前の「承久の乱」で、、人々は感じはじめている、、、
源氏の勝利で、、鎌倉幕府が実権を握り、、、
国主天皇の有り方、、、既成仏教への不信、、など既成概念の変化が現れ始めた、、のだ、

国家鎮護の宗教から民衆の救済の宗教に変化が求められている、、
「あの方」はその変化を強く感じていたであろう、、、

仏教的には、、「末法思想」が身近に感じられる、、この時だ、、
仏教者であれば、、、「あの方」の激しい言動に関心を持つであろうかと、、、

「おのおの方、静かに成されよ、、、」と「あの方」は、、、法論に望んだ、、、

会場?では、寒さをしのぐ為には、薪を燃やしたことであろう、、、
隣人と論争する者もあったであろう、、
耳をこらし集中する者、、野次を飛ばすもの、、、茶を飲むもの、、
騒然とした、、、つまり大変賑やかな場所になった、、のではないかと、、

この騒動に、、地元の人は、、「あの方」を改めて見直したであろう、、
もしかしたら、、、目ざとい商人が、、屋台などの商いにやってきたかも、、、

また、、鎌倉から離れずついてきた弟子がいたはずである、、、
その場を、、仕切ったりして、、、

「お静かに、、ハイ、その方どうぞ、、あ、宗派とお名前をお願いします、、」
、、、、、、、
「すいません、、もう暗くなってきましたので、、今日の質問は、あと1名に限らせていただきます、、明日は9時から再開します、、」
、、、、、、、
、、、、、、、
※これは、、無いでしょうけど、、、

問答は、、2日間続いたらしい、、、、、、、

※追記2017.07.13
この時、佐渡に随行した弟子を調査する
日興 26歳
日向 20歳
日持 21歳
日頂 20歳(半年遅れで佐渡へ)

となる、、このことから
この時に仕切るとしたら、、ここは、、年長の日興であろうかと  、、、、、、
それにしても、、、20歳から26歳の青年が「あの方」を必死にサポートしたことに、、胸に熱いものが込み上がる、、更に若者たちは佐渡滞在中に数か所の寺院を折伏改宗している。

「あの方」は、
「とにかく、、ひどい、、鎌倉の者と違って、、、仏法の基本が出来てない、、自語相違、は有るわ、経文と経論の区別もつかん、あるいは忘れたり、、妄語、、物に狂い、、それらを一々丁寧に説得した」
その結果、その場で念仏の袈裟を脱ぎ捨てた者もいた、、、、

※しかし、、これには念仏衆、長老達の危機感を煽ることとなり、、このままではまずい、、佐渡で「あの方」に関わることを禁止し、関われば弾圧を加える、、といった策謀が進めらることとなった、、、、詳しくは記さない、、、

、、1272年(文永9年)初夏に配所が「一の谷」というところに移されます、、、
ここで、、受け入れ責任者の一谷入道は、、はじめ敵愾心をもって預かるが、やがて感応し、、母と共に「あの方」に深く帰依するのです。

一の谷は、真野湾から、ほど近い、、谷間で、、、住居としては、まあ、まともな場所ではないでしょうか、、、今は一の谷妙照寺となっている境内を歩いてみた、、、。
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<一の谷妙照寺、前には稲田が広がる>

初夏ともなれば、生まれ故郷の安房小湊にも似た、、真野湾の入り江に、、出向いたかも知れない、、、
「善日丸」と呼ばれた幼少のころ、、清澄山から海草採りに、浜に下りてきた僧侶達のように、、、、
浜の子供たちに新鮮なイメージを与えたかも知れない、、、

「かっこいいな!」気さくで清廉な僧侶に、、「善日丸」が子供ながら思ったように「そうだ、、自分も僧になろう」、、、そんな風景もあったかもしれない、、、

、、、潮風が僧衣の袖をたなびかせていたのだろうか、、、

佐渡に来るまで、、、「あの方」の2年数ヶ月の配流生活を、、、、、「壮絶」、、としか、、思い描いていなかった、、
しかし、、暑い夏の佐渡に来て、、おそらく、、もっと普通に生活した場面があったんだ、、、と思い直したのです、、、。
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※たしかに、、、佐渡には「あの方」を慕って、弟子が来るようになる、、、4月頃には「四条金吾」が、、5月には幼い女の子(乙御前)を連れて女性の「日妙(後の)」が、、、一の谷を訪れている、、。

1274年2月(旧暦文永11年3月13日)に赦免され、、、真浦から佐渡を発つまで、、、ここで、数々の重要書簡(御書)を記しています、、、

文永9年(1272年)2月  塚原   「開目抄」
文永10年(1273年)4月 一の谷  「観心本尊抄」

は最重要の書とも言えます、、、。

佐渡の一の谷では、「観心本尊抄」で説いた法門を、図様化した「十界互具の大曼荼羅」という、構図としては完成型の曼荼羅を顕わしました、、

曼荼羅の構図は、安房の小湊(誕生寺所蔵)での作は、海を意識してか「渦巻き状のもの」も見た記憶がありましたが、、(真筆かは疑問)

追記 wikipedia
文永10年4月25日、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』を著述し、自身が図顕される大曼荼羅本尊についての教義的な意義を教示した。佐渡始顕本尊の図顕はその3ヶ月後である。

佐渡始顕本尊 縦176.3 横79.0 明治8年焼失

[文永八年太才辛未九月十二日、御勘気を蒙り佐渡国に遠流さる。同十年太才癸酉七月八日之れを図す。この法華経の大曼荼羅は仏滅後二千二百二十余年、一閻浮提之内、未だ之れ有らず。日蓮始めて之を図す]

鎌倉で首を落とされようとした滝の口での難から、、佐渡流罪によって「あの方」が、明らかに変化し、、
「発迹顕本」してゆく、、、のです、、、。

※天台沙門として法華経の行者たらんとし、、数々の難に合い、、法華経と一念三千の法門を確信し、、やがて、、釈迦が虚空会の儀式で、地涌の菩薩に託した悟りとは、、
末法の世に託された正法とは、、、ただ、、妙法蓮華経の題目なのだ、、「あの方」は、、、、、久遠の仏との、、時空を超えた対話によって、、、そう、、、悟ったのだ。




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<根本寺の三昧堂跡、、信憑性は確認できない>

※根本寺HPより————–

当山は山号を塚原山といい、昔、佐渡の国仲地区一円の死人の捨て場所として、古墳累々たる塚原なりと云い伝えられています。全国の日蓮宗十大聖跡の一に列せられています。
今を遡る七百有余年前、日蓮聖人御年五十歳佐渡法難の砌、文永八年(1271)十一月一日より翌九年四月半に至る迄、秘かに阿仏房夫妻の御供養を受け、辺り一帯は屍陀林にして鬼火明滅し、身の丈ほどに積る雪中の三昧堂に謫居された聖跡であり、日蓮聖人は此処に総ゆる艱難を克服し、正月十六日には越後、越中、出羽、奥州、信濃の諸国より集まった他宗の法師等数百人と問答し、「利剣を以て瓜を切り、大風の草を靡かすが如し」と御述懐遊ばされし程の大勝利を占められた。又二月半には六十一年の御生涯中の形見とも言われ、また、一大事とも言うべき『開目鈔』上下二巻を御著作なされ、本佛釋尊の予言になる「末法の大導師本化上行菩薩とはこの日蓮なり」と、御自身の本地を開顕されたのも塚原三昧堂であります。

我れ日本の柱とならん
我れ日本の眼目とならん
我れ日本の大船とならん

この「開目鈔」に認められた三大誓願であり、当山の別名を「開迹顕本の霊場」とも言われています。
当山の境内地は約一万七千坪で、本堂、祖師堂、三昧堂、千仏堂、妙見堂、七面堂、二王門、二天門、太鼓堂、鐘堂、宝蔵、経蔵、戒壇塚、庫裡、等凡そ二十九棟が鬱蒼とした杉や松に囲まれ、佐渡が島の中で聖人謫居を偲ぶ聖蹟として多勢の参拝をいただいています。

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<根本寺から9Kmにある世尊寺に造られた堂>
、、、世尊寺は日興上人の開基と記してある、、、、、

※にいがた観光なび———————-

資料によれば、順徳上皇の遣詔に従い畑方村(現在の畑野地区の一部)に仏堂を建てて供養を行っていた遠藤藤四郎盛国(後の日増上人開基二祖)という人物がおり、この人物が文永8(1271)年に日蓮聖人が佐渡へ流罪にされた際に随身渡島した日興上人の教化を受けて入信帰依し、文永10(1273)年に師である日興上人を開山と仰ぎ、日蓮聖人より「令法久住山大覚世尊寺」の称号を受け創建したとされています。

その後、開基三祖である日久上人は弘安7(1284)年に道場を畑方村から国府川畔へ移し、「国府道場」の名を周囲に風靡しました。以後およそ300年を経て、天正10(1582)年、第15世日健上人の代に寺地を現在地に移し、今日に至っています。
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※拙者関連Blog 「郷土千葉の最東端の海辺に誕生した」

郷土千葉の最東端の海辺に誕生した
尊敬するその方は、当時起こっている天変地変、飢餓、疫病などの原因は「人々が誤った世界観を持っているためだ」と言い切った。 つまり、多くは人災だと言うのである。 たとえて言えば、「身体を曲げていれば、影が曲がっている」ように、「正しい世界観を...

―――――――書きかけです

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