幕末海防 ペリー来航とロシア

1852年11月24日 フリゲート艦「ミシシッピー」(1692トン)70m、備砲10門、乗員300名は、ヴァージニア州ノーフォークを出航した、、。
艦隊の長は、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー司令長官兼遣日大使
目的地は ジャパン、、、、。

同行艦隊は軍艦7隻、輸送艦3隻である。

ミシシッピーの他に

フリーゲート艦
サスケハナ(2450トン)78m、備砲9門、乗員300名
パウハタン(2415トン)77m、備砲9門、乗員300名

スループ艦
マセドニアン(1341トン)50m、備砲20門、乗員380名
プリマス(989トン)45m、備砲22門、乗員210名
サラトガ(882トン)44m、備砲22門、乗員210名
ヴァンダリア(700トン)38m、備砲20門、乗員190名

輸送艦
サザンブトン(567トン)47m、備砲2門、乗員45名
レキシントン(691トン)39m、備砲6門、乗員45名
サプライ(547トン)43m、備砲4門、乗員37名

全艦が浦賀に来たわけではないが、これだけの大型の艦隊が来れば外国船を見ている海防役人でも、さすがに、驚いたに違いない、、。

艦隊はマディラ諸島、カナリア諸島、セントヘレナ島、ケープタウン、モーリシャス、セイロン、シンガポール、
香港、上海を経由して、、、
1853年5月26日 沖縄本島那覇に到着している。

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ペリーは首里城への訪問を打診したが、王国側はこれを拒否した。しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名と共に入城した。ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、開国を促す大統領親書を手渡した。さらに場所を城外の大美御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振舞った。

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アメリカにとって沖縄は、極東のビジネス航路の補給基地として重要だ、、と判断している。
日本に条約締結を拒否されたとしても、ここは押さえておきたい、、、。沖縄の基地戦略は、すでに幕末のころから続いているといっていい。

また6月9日には艦隊のうちサスケハナ号が小笠原諸島に立ち寄っている、、、。

小笠原は小笠原貞頼と言う人物が発見したといい幕府も1675年頃には開拓を図ったが、やがて無人の島となったことから無人=ムニン=ポニンアイランドとも言われた。
しかし、各国の捕鯨船員には知られていたらしく、やがて1827年にはイギリスはここを海軍基地とすべく6月14日父島に入り占領の証として銅版を残したと言われる。

艦隊が来た頃には、すでにカナダ系、イギリス系、アメリカ系の船員などが生活していた。

このとき、ペリーはアメリカ名のビール島(父島)に調査船を派遣して住民から土地を購入している。

その後、艦隊は沖縄に戻り、湾の測量などを行ってから、艦隊の一部を残して出航、、。
7月7日に伊豆半島沖に停泊、、、翌日PM5時;浦賀沖に到着する。

艦隊をもって威圧する、、だけではない、、、かなりの周到な入国のしかたではないか、、、。
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ペリーは今までの使節が和親条約を拒まれ、なにかと役人が出てきては長崎へ行けという、、。
この国は最高官職がだれだか分らない。

このことを熟知していたペリーは断固とした対日方針で臨むことにしたらしい。

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アメリカ以前に、ロシアなどが何度も幕府の管轄外と言われていた蝦夷の松前藩、琉球などに通商を要求している、が結局、、成功していない、、。

たとえば、

第1次ロシア使節団(1792 寛政4年9月4日)

根室にロシア船エカテリーナ2世号入港、、アダム・ラクスマンは漂流民の大黒屋光太夫ら3人の日本人をつれて日本との通商を要求した。
幕府は、鎖国日本を理解させ、長崎通行許可証(信牌)を渡した、、、ここも長崎に行け、、、である。
しかし、裏ではオランダ側の妨害工作が行われ事実上は履行されない環境であった。

第2次ロシア使節団(1804 文化元年)

ロシア皇帝の命を受け、露企業代表者ニコライ・レザノフはロシア戦艦ナジェンダ号、ネヴァ号は、大西洋-南アメリカ-ハワイ-カムチャッカ半島―経由で―長崎に来航
このとき、日本の漂流者4名(石巻の回船若宮丸)を乗船、ラクスマン条約の履行を求めた。
幕府は、ここでもグダグダとした後に事実上の拒絶をしている。

樺太、択捉(エトロフ)の攻撃
1806年(文化3年)ユナノ号、アヴォシ号の2隻は樺太南部アニワ湾を襲撃、翌文化4年には、エトロフ島の内保を襲撃、エトロフ中心部シャナにも砲撃した。

シャナには、津軽、南部両藩から230名が駐屯していたため、戦闘になるが、どちらかと言えば逃げて籠城したようだ、、、。ロシア側は徹底的に破壊していった。、、、この戦闘には「間宮林蔵」も加わっていた。

学術探検隊 派遣(1811 文化8年)

南千島や韃靼海峡(間宮海峡)の沿岸測量を目的に軍艦ディアナ号(艦長ゴローニン)がクナシリ沖で盛岡藩の駐屯部隊と遭遇、ゴローニンを逮捕した。

第3次ロシア使節団(1853 嘉永6年)
ペリー来航の2ヶ月前にプチャーチン提督のロシア軍艦パルラダが小笠原父島の二見港に来航、嘉永6年7月18日には、四隻の艦隊(軍艦ではないらしい)を編成して長崎に入港、、、、。アメリカ議会の情報を知り、使節団の派遣を察知したロシアは、先を急いだ、、、。両国の国境を定める。交易を求める。として幕府の回答をせまった。

※プチャーチンが長崎に入港したことを聞きつけた「吉田松陰」はロシア艦での密航を企てる、、。
このときに、師である佐久間象山から、はなむけに一篇の詩をもらっている、、、。
ロシア艦での密航に失敗したが、この詩を大切にして、下田での黒船の密航時にも持参していた、、、。

この詩を幕府の役人に見つかり、一時は象山と松蔭は死罪になりかけた、、が、、、、老中安部正弘の度量により、「二名とも国元にて謹慎させよ、、、、」となった。

この頃上海では、ロシア、フランス、オランダ、イギリス、そしてアメリカなどの艦船が停泊し、互いに情報交換している、、、。

日本は、オランダとの交易が中心であるが、このころ幕府は、半分アメリカにわたせばいいかな、、、などと考えていた。とにかく、、幕府はどこにも、のらりくらりの「ぶらかし策」で対応しようとしていたのである、、、。
もう、笑うしかないですね、、、。

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浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の四隻からなっていた。大砲は計73門あり、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。この件は事前に通告があった為、市民にその旨のお触れも出てはいたのだが[5]、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようだ。、、、、、
このときの様子は「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」(蒸気船と茶の上喜撰、4隻を4杯、茶で眠れなくなる様子を、黒船の騒ぎとかけた皮肉)という狂歌に詠まれている

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ところで、漁夫で15歳だった土佐の中浜の万次郎らが、難破してアメリカの捕鯨船ジョンハウランド号に救助され、ハワイのホノルルからサンフランシスコに渡り、10年間アメリカでの教育と生活を経験して、琉球に戻ったのはペリー来航の2年半前であった。

※薩摩藩の取調べの後、土佐に戻った万次郎は、河田小龍の元に預けられ、万次郎の話は小龍の門人である坂本龍馬に伝わることになる。

1861年には、外国奉行水野忠徳以下18名が例の「咸臨丸」に乗って小笠原に向かっている、、。
そしてこれには、中浜万次郎が通訳として乗船していた。

イギリス人ナサニエルサボリーをはじめ、住民に対し小笠原が日本領土であることを認識させ、住民に日本国民になる手続きをとらせた。
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——-つづく——————–

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