(クリックして全画面で拡大できます)
かなりためらったが、コピーさせてもらいました。
説明によれば
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慶応元年2月中旬から3月18日までの間に、長崎へ集結をかけられた各藩の勤皇党は、西郷南洲翁及び勝海舟と共に、世界の情勢に明るい、オランダ人宣教師フルベッキ博士を訪問した。
大隈重信・副島種臣ら門下生と共に、日本の統一をどうしたら良いか、王政復古は、どうなってゆくのかをフルベッキ博士を交え相互して議論し合った。
この写真は、写真術の祖、長崎大村出身の写真家、上野彦馬の写真スタディオでフルベッキ博士の子どもも交え、和やかな雰囲気で記念撮影されたものである。
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維新の重要人物がほぼ揃っている。
しかも、写真が見つかってない西郷までもが、、、、、、、、。
※この時期こんなに主要な人物が一時に集合できないだろうから、偽造と見るのが当初の感想ですが、、、。
これが本物であれば、歴史の見方が大きく変わる。
素人ながら、簡単に写真のチェックを試みた。
超有名人は除き、全身が撮影された、前列の人物
その中から
この写真の「39」広沢真臣(ひろさわ さねおみ)は明治まで生き延びた人物。
以下「Wikipedia)』より
長州藩士で、
1866年(慶応2年)8月末の第二征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉し、
、また、坂本龍馬や薩摩藩の五代才助と会談して「商社示談箇条書」を作成するなど、木戸孝允の貴重な代理人かつ同僚として奔走し、1867年(慶応3年)10月には大久保利通らと共に討幕の密勅の降下にも尽力して倒幕活動を推進した。
1869年には復古功臣として木戸孝允や大久保利通と同じ永世禄1800石を賜り、民部大輔や参議の要職を務めた。
1871年(明治4年)1月9日、東京府麹町富士見町の私邸にを招いた宴会後の深夜、刺客の襲撃によって暗殺された。享年39。死後、正三位を贈位される。
Wikipediaに写真がある。これと上の写真を拡大したものを合わせると
となりますが、透過処理をして重ねると、年代が違うようだが、骨格はほぼ一致します。
※正確には画像認識システムの技法がいいと思われます。
たしか、目と鼻の位置の三角形は変装では変えられないと言うものだと思います。
それと、耳の位置だったと思います。
詳しくは別途確認します。
このことから
①同一人物と思われる。
②他の写真に顔だけ貼り付けた
が考えられるが、どうでしょうか?
勝海舟、竜馬、中岡、桂、高杉、大隈、伊藤、後藤、陸奥、大村、小松、いや-すごすぎです。
更に明治天皇まで、、、、。
明治天皇については諸説あり、この頃はまだ、野に出られる立場にあったと言う人がいる。
西郷の上野の銅像は、まったくの似てないというのは歴史書では常識。
本物と信じたいがどうでしょう。
それとも、ソックリさん大集合なんでしょうか。
暫く、追跡、、、、、、、。
※追記
09.12.21 21:19
それでは、、、、、、、もし、これが本物なら、最も深い歴史の闇に発展します。
それは明治天皇です。
明治天皇は実は、長州藩騎兵隊力士所属の「大室寅之助」である、、、。という説。この写真の中央の人物が、「大室寅之助」です。
皇室の血統が南北朝時代に二つに分かれてことは知ってのとおり。
その後、北朝の血統のみが皇位を継承した。しかし、明治天皇は南朝の正統を認めた。
このことで、岩倉具視による子孫すり替えの陰謀説がある。
※「京都明治天皇」と「東京明治天王」であり
京都明治天皇睦仁(北朝系)は暗殺されたという説もあるが、京都明治天皇睦仁は比叡山方面の某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。という説がある。
「大室寅之助」は南朝の子孫であると言われている。
これについては、まだまだ記述する資料があるがここでは触れない。
写真を比べて見よう。
なにも言いません。
どうですか?
実は怖いくらい見事に一致します。
思わぬことでした。
※追記
09.12.20 20.52
フルベッキ写真を取り上げた本、山口貴生著「日本の夜明け」について、反証論文があります。
※追記
09.12.24
この中に
”「大室寅之佑(祐)」の名前が「フルベッキ写真」に登場するのは、近年になってからである。島田氏は関係していない。平成14年ごろからではないか。明治天皇すり替え説を補強するためにでっち上げられた人物である。写真など存在しない” とあります。
反証・山口貴生著「日本の夜明け」
慶應義塾大学 高橋信一
久方振りに加治将一氏の「幕末維新の暗号」について行った検証と同じことをやる破目になった。2009年3月文芸社から刊行された「日本の夜明け フルベッキ博士と幕末維新の志士たち」の著者、山口貴生(隆男)氏が「フルベッキ写真」の陶板額を売り出した張本人である。彼の前著は、陶板額に付けて販売された解説書だが、「フルベッキ写真」自体の解明に纏わる事柄は記述されていなかった。これらについて最初に説明していないのは一種の情報操作である。彼に会ったのは3年前のことだが、その際にブログに掲載している私の「フルベッキ写真の調査結果」の草稿を送って、「陶板額の修正版を出すように」と言ったのに、無視されている。本書は、たくさんの歴史の記録を集めて来て、幕末・明治維新の周辺状況を詳述した労作には違いないが、そんな暇があったら、「古写真の歴史」についての学習を徹底的にした方がよかった。「古写真」を論じているのに、「古写真の歴史」がほとんど語られていない。参考文献として引用されているのは、渡辺出版の「上野彦馬歴史写真集成」のみである。それも、掲載する写真の引用に使っただけのようだ。「上野彦馬歴史写真集成」の巻末には「フルベッキ写真」に関する東京大学の倉持基氏の論考があるのに、それを読んだ形跡が認められない。読んだのなら、故意に無視しているとしか思えない。「古写真の歴史」の解明は、これまで限られた研究者によって行われて来たので、確かに不明な点は未だに多く、間違って解釈されてきたことが現在でも踏襲されているということがあることも否めない。「上野彦馬歴史写真集成」にも多くの修正すべき記述がある。しかし、「フルベッキ写真」が撮影されたスタジオが上野彦馬のものでないということには断じてならないのである。そのことは、「古写真の歴史」をちょっと勉強すれば理解出来るはずである。
舎人学校
大学生と社会人の父親の“教育論”
※12/19 12:47 追記
「Wikipedia)』で、オランダ人宣教師フルベッキ博士で検索すると、この写真のことが掲載されています。
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「フルベッキ写真」とは、フルベッキとその次女・エマ(夭逝した長女と同名)を囲んで、致遠館の塾生と岩倉具定・具経兄弟などが集まり、写真師上野彦馬によって撮影された写真。現在の研究では、撮影時期は1868年12月(明治元年10月-11月)頃とほぼ特定されている。
この写真は古くから知られており、1895年(明治28年)には雑誌『太陽』で佐賀の学生達の集合写真として紹介された。その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されている。
1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には西郷隆盛・高杉晋作・勝海舟・坂本龍馬・大隈重信らが写っているとする論文を発表した(翌々年にはこの論文の続編を同誌に発表)。島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。佐賀の学生として紹介された理由は、敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたものだとした。
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※同 追記:
フルベッキが工科系出身であることから、フリーメイソンではないかと仮説を立てると、別に言われている「竜馬フリーメイソン説」がにわかに真実味が出てきて面白くなる。ここでは敵も味方もない。つまりフリーメイソンだから、、、、、。
※もし、明治元年撮影であれば、竜馬も中岡も存在しない。従って、この写真は致遠館の塾生の仮装が入ったものかも知れない。
※2009.12.19 追記
もう一枚写真を追加してみよう。ご存知 桂小五郎(かつらこごろう)
幕末の厳しさが顔にでていてとてもいい。中央は明治2年撮影、右は政府要職の頃(享年43歳)
どうでしょうか。
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木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日(1833年8月11日) – 明治10年(1877年)5月26日)は、幕末~明治初期に活躍した日本の武士・政治家。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。
長州藩士で、いわゆる「長州閥」の巨頭。江戸時代(幕末)には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。贈正二位。
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参考
証言: 近代天皇制は海賊某の孫大室寅之祐を明治天皇にすり替えた長州の大陰謀で成立した(1)
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明治天皇の生母とされる中山慶子(つまり孝明天皇の種をもらった女性)の墓が東京・文京区の豊島ケ岡墓所にある。ところがこの明治天皇の生母の墓を、明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていないのだという。現在の中山家当主は、鬼塚氏の問い合わせに「生母に関しては箝口令がしかれていて、一切答えられない」と言ったそうだ。
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