有村冶左衛門とお静(静子)と娘のお松(松子)再登録

お静にとって、「井伊直弼」という人間は夫と長男の仇討ちの相手である、、、。

夫である日下部伊三次(くさかべいそうじ)は、薩摩藩士であるが、運命的な過去を背負っている。

伊三次の父の名は連(むらじ)といい、ある事情で薩摩藩を脱藩して後、水戸領の高萩で私塾を開いているうちに、水戸藩主斉昭に知られ、その子伊三次は水戸藩に採用された、、、。
やがて、日下部伊三次は亡父の故郷である薩摩藩に復帰することを願い出て、許される、、。といった経緯の持ち主である。

このことから、水戸藩と薩摩藩の双方に人脈ができ、西郷、大久保、など薩摩藩士と水戸藩の交流を支えた。

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※水戸藩と薩摩藩、その底流には、幕末尊皇派のバイブルとも言える、後の「水戸学」「大日本史」の存在がある、、、と言えるのでは、、。

※具体的には、会沢正志斎の「新論」、藤田東湖の「弘道館記述義」に多くの尊皇攘夷浪士が影響を受けた。

横井小楠、佐久間象山、吉田松陰、江藤新平、西郷隆盛、伊藤博文、、、、など幕末の大物に”南朝派”とも言える尊皇攘夷思想に大きな影響を与えている、、、、。

※嘉永4年(1851年)12月吉田松陰は、東北遊学の際に、水戸に入り、1ヶ月滞在している、、。会沢正志斎とは会えたが、藤田東湖とは会えていない。しかし、「新論」の会沢正志斎や豊田天功と会えて感動している。

「客冬水府に遊び、首として会沢、豊田の諸子にいたり、その語るところを聞く。すなわち嘆じて曰く、身、皇国に生まれて、皇国の皇国たるゆえんを知らざれば、何をもって天地に立たん、と。、、、、」

安政元年(1854年)に西郷隆盛は樺山三円と共に水戸学の権威、藤田東湖の許を訪れて感銘している。

やがて至る大政奉還、、、明治天皇神格化、、、江藤新平、西郷隆盛の反乱と死、、、、、背後にいる英米エージェント、、、、まて、、、幕末、維新の歴史の闇、、このテーマはここでは、まだ早い、、まだ遠い、、、。
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伊三次は安政2年(1855年)島津斉彬に目をかけられて薩摩藩に復帰し、江戸の藩邸に入る。安政5年(1858年)将軍継嗣問題や条約勅許問題が起こると上洛、水戸・薩摩両藩に繋がりを持つ事から攘夷派の志士の中心として京都で活動。また水戸藩士鵜飼吉左衛門らと三条実万に接触した。安政5年(1858年)水戸藩へ密勅が下ると、実万よりその写しを受け取り、木曾路を通って江戸の水戸藩邸へ届けた。wikipedia
が、、、、、、、。

その日下部伊三次が、井伊直弼の安政の大獄の弾圧によって、息子と供に逮捕され、江戸伝馬町の牢獄でひどい拷問の末に衰弱死した。翌年には、長男祐之進も牢死する。

 
井伊直弼 享年46歳

安政の大獄は、大老井伊直弼が徳川家の威信回復のために、行った勤皇派、水戸支持派など政敵に対する弾圧である。
米国の通商条約に無勅許で調印したことが、勤皇攘夷派の反撃理由にされるが、開国反対派を圧政により押し切り、国難を乗り切ろうとしたが、、、、。

さすがに、百名以上の断罪に対する反動は大きかった、、、、

恐怖政治は続かず、これを機ととらえる勤皇攘夷派、倒幕派の勢いははいっきに加勢し、、。

ついには、水戸と薩摩藩との過激派による、井伊直弼誅殺計画が練られていた、、。
更に薩摩藩は壮士三千人をもって京にのぼり、朝廷を守護して幕府に臨み、朝命によって、改革を迫るクーデターを起こすという計画を持っていた。

お静にとって、夫と長男の仇は、、薩摩藩の尊王攘夷志士にとっても、討伐の相手となったのである。

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安政の大獄によって、夫と息子を牢獄で失ったお静、そして娘のお松は江戸城下でひっそりと暮らしているが、、、、、

江戸の薩摩藩邸から遠くない、お静の借家は、この頃、薩摩、水戸藩の過激派の連絡場所(アジト)となっていた。

そこに田舎出の若者の薩摩藩士「有村冶左衛門」が、長兄の指示で、この「日下部殿の遺族」の家で生活することになるのである。

この青年「有村冶左衛門」は、まだ、大事件の主役を演じさせられることには気づいていない。

井伊直弼の暗殺という大事件、桜田門外の変は水戸藩の過激派浪士によるものであるが、水戸藩士17名と薩摩藩士1名によるテロ事件である。薩摩藩士からたった1名加わっていたのがこの青年である。

「やり申す、やり申す」「オイはやっどー」、、、、「彦根の赤鬼ば-倒す、、」、、この若者はあどけない。

この年の2月半ばから、江戸市中には、水戸の浪士が続々と潜入してくる。

「結局は、薩摩藩からは有村兄弟二人だけとは、、、、」水戸藩周旋の木村は当惑した。
「それでは裏切りではないか、、」と言い掛けて、、、止めた。

当初予定では、薩摩藩国元では「精忠組」有志数十人が脱藩覚悟でこの計画を実行すべく準備をしていたが、そのことが、島津久光に漏れた、、、。

「まあ、、、待て、、。」として藩主からの説得により脱藩は中止された、、、。
国許の応援を得られなかったばかりか、江戸藩邸の「精忠組」は有村兄弟を残して国許に召喚されてしまった。

「薩摩藩士の信義、名誉をまもらねばならぬ、、、。」さすがに、有村兄弟に逃げ場などない、、、。

計画の首謀者有村俊斎は長男で国許におり、雄介は次男、冶左衛門は三男で江戸藩邸におり、同士は六名であった。しかし、、、雄介と冶左衛門の兄弟以外は国許に戻されてしまった。

長くなったが、この青年、薩摩藩士「有村冶左衛門」は、水戸藩浪士と共に死ぬ覚悟でこの暗殺計画に参加したのである。

決行の日は3月3日、、、。
諸侯が祝賀のために登城する。
時刻は辰(AM8:00)

前日、三月二日水戸藩士一統は品川の引き手茶屋「虎屋」から楼閣「土蔵相模」で酒宴を張った。
が、、、有村兄弟はそれには参加していない。

お静(静子)と娘のお松(松子)の住む、日下部(クサカベ)家にいた。

日下部伊三次の位牌に手を合わせた後に、お静が切り出した。
「冶左衛門殿を是非とも養子にいただき、日下部家の後を継いでいただきたい」

明日死ぬ覚悟のものを、、、。
しかし、母の強い意志により仮祝言をしたのである。
これで母娘にとって、明日の斬奸は、日下部家の身内の仇討ちとなったのである。

水戸藩への恩義、薩摩藩への恩義、、そして夫と長男の仇討ち、、、武士の妻という過去を背負って母子は時代に飛び込んできた、、他の選択もあった、、しかし、、生前の夫の言葉が残る「井伊を倒さなければお国がつぶれる」
静子と松子にとって、この日のための長い生活であった。

三月三日の雪は珍しい、、、。
だが、これがその後の攻防に大きく影響する。

田舎侍の諸侯の登城行列の見物は珍しくないらしい。
見物人の中から、「捧げまする」と連呼して井伊家の行列に躍り出たものがいる。

笠を跳ね、羽織を脱ぎ捨てると、白鉢巻、十文字のたすきでいきなり先頭の供頭役を切り下げた。
井伊側は雪のために、刀にツカ袋、鞘は油紙のサヤ袋を被せてあるため、すぐに刀は抜けない。

降雪の中、不意を撃たれた彦根藩士は、充分に戦う余裕もなく殺害された。

井伊直弼は籠から引き出され、首をはねられた。
現場から近く(600m程度)の彦根藩邸では事件に気がつかなかったという、、。

闘争はわずか15分あまりと言われている。

冶左衛門は、かなりの傷を負いながらも、井伊の首を運ぶため雪道を歩くが、途中歩けなくなり、和田倉門から遠藤但馬守屋敷あたりで切腹する。

このあたり、司馬遼太郎の小説「幕末」で生々しい、、。

なぜ、薩摩から1名だけが加勢したのか、、その繋がりは見えた、、、。

※この若者「有村冶左衛門」が会沢正志斎の「新論」、藤田東湖の「弘道館記述義」を学んだかは分らないが、「大日本史」を学んだとは思えない、、、。

この若者を突き動かしたもの、、、。
それは、、、封建社会という見えない鎖の時代(なか)に在ったから、、、と言える。

やがて、模索されるデモクラシーの時代まで、、もう少し時間がかる、、、

それぞれの立場で、日本中が苦悶する、、、、だが、、、、遠くに灯りは見える。

この日を境にして、日本は大きく回天する、、、、、、。
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画像
映画「桜田門外の変」より

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※水戸学、尊皇攘夷そして徳川御三家意識の相克
–天狗党と諸生党の悲惨な争い—

藤田小四郎(東湖の長男)、武田耕雲斎らにより結成され、一時は1千名にも達した「天狗党」ではあったが、反天狗党で保守派をまとめた市川三佐衛門は「諸生党」を結成し水戸藩は内戦状態になる、、、。

-Wikipedia———————-
天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した。武田金次郎らは処刑から逃れた。

慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、武田金次郎ら天狗党の残党は、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた本圀寺党と合流し、朝廷から市川ら諸生党を追討を命じる勅諚を取り付け、水戸へと舞い戻って藩庁を掌握した。天狗党と本圀寺党(両者を併せてさいみ党と称した)は直ちに報復を開始し、今度は諸生党の家族らがことごとく処刑された。

水戸を脱出した諸生党は北越戦争・会津戦争等に参加したが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、9月29日には水戸城の奪還を狙って城下に攻め寄せたが失敗に終わった(弘道館戦争)。敗れた諸生党はさらに下総へと逃れて抗戦を続けたが、10月6日の松山戦争で壊滅した。こうして市川を始めとする諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、武田らはなおも諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復・私刑はしばらく止むことが無かった。

結局、この党争によって生じた殺戮の応酬により水戸藩内の主要人物がほとんど死んだため、水戸学が明治新政府の指針となる思想として信奉されたにもかかわらず、水戸藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無かった。

※薩摩の尊皇攘夷派

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—-Wikipedia————
精忠組(せいちゅうぐみ)とは幕末の薩摩藩に存在した藩内組織。『誠忠組』とも。

概要 [編集]
近思録崩れの秩父季保が愛読した『近思録』を輪読する会を西郷吉之介(西郷隆盛)・大久保正助(大久保利通)・長沼嘉兵衛(早世)・有村俊斎(海江田信義)・税所喜三左衛門(税所篤)・吉井仁左衛門(吉井友実)・伊地知竜右衛門(伊地知正治)らが結成し、後にそれが発展したものである。彼ら自身が「精忠組」、「誠忠組」を名乗った事実はなく後世の命名である。

安政の大獄期、僧月照とともに入水した西郷隆盛(蘇生した後、奄美大島潜伏を命じられた)を盟主的存在とし、大久保・堀仲左衛門・岩下方平らが主導した。水戸藩と共同して大老井伊直弼を暗殺し京都への出兵を行おうとする「突出」を計画したが、藩主島津茂久およびその父で後見役の島津久光から軽挙妄動を抑制されて頓挫。

結局井伊暗殺には有村次左衛門のみが参加(桜田門外の変)し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となる。藩当局の対応に不満を懐く一派はあくまで突出を主張したが、大久保らがそれを抑えた。

久光はその後、精忠組の取り込みを図り、大久保・堀・吉井らを側近として抜擢し、活躍させた。文久2年(1862年)に久光は、精忠組の主張する「突出」に代わり、幕府改革を企図した出兵を実行に移す[1](詳細は文久の改革を参照)。しかし精忠組の中でも有馬新七ら過激派は、真木和泉・清河八郎ら諸国の尊王攘夷派志士らと連携し、孝明天皇奪還計画などに加わり、久光の説諭にも従わなかった。

有馬らが集結する旅館寺田屋に向けた久光からの上使として奈良原繁・大山綱良らが最後の説得を行うが、交渉は決裂。精忠組の同士討ちとなる寺田屋騒動が発生した。ここにおいて精忠組の結束は事実上崩壊した。

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※尚、興味として日下部(くさかべ)という名は、九州地域から古代のヤマト政権を連想させる。
案外にDNAに刻まれた倭国への回帰意識は連綿と続いていたのかも知れない、、、、。

勤皇派の総本山と言われる水戸藩では、日下部の苗字に親近感持っていたのではないか、、、。

日下部姓の由来

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彦坐命(ひこいますみこと)の後裔氏族の一つ。始祖は彦坐命の子狭穂彦王(さほひこおう)とされる。(古事記 開化天皇の段)

開化天皇(第9代)——- 崇神天皇(第10代)
|-彦産湯隅彦命
|- 彦坐命–狭穂彦王・・・日下部連祖

御名代(みなしろ)とは天皇、皇后、皇子、皇女の名にちなんで設けた皇室の私有の部(べ)をいう。
日下部氏はその日下部の部民を管掌する中央・地方の伴造氏族の広範な氏族名である。中央伴造としての日下部氏の姓は初め連(むらじ)、天武13年(684年)八色の姓制定に際し、宿禰を賜った。

地方伴造としての日下部氏の姓は値・使主・君など多様である。また、部民は姓をもたないが、のちに連などを賜った場合もある。

※連(むらじ):村(むら)主(じ)または、群主(むれあるじ)が語源と考えられていて、朝廷に労役、生産物の貢物をもって仕える人々を統率する伴造(とものみやつこ)に与えられた姓、、。

全国各地に設置された御名代に関係する氏族であることから、その分布も諸国におよび中央伴造としての日下部氏およびその支氏族に限っても山城・河内・和泉国などに居住していた。

大和朝廷は朝鮮半島情勢の緊迫化に伴って、磐井の乱後に、屯倉制や部民制を列島中に拡げていった。とくに乱後の九州では、軍事的部民が設置された。

大和朝廷は、肥後地方に日下部・壬生部・建部・久米部などに軍事的部民を設置した。

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