
日蓮宗の江戸前期における興門流(日興上人)の教学は、要山系(京都要法寺)と石山系(富士大石寺)に大別されるという。しかも、江戸中期に石山に日寛が出るまでは興門流の教学は、京都要法寺教学が主流をなしており、石山教学は要法寺教学の亜流を成していた。(執行海秀氏の評価)
そのことは、文禄3年京都要法寺日昌が富士大石寺15代の法統を継ぐことになってから、23代日啓まで9代「百数十年」にわたり、要法寺系によって法主が輩出されたことで大石寺教学は要山系辰門流が主流となっていたのだという。
ところが、享保11年、富士大石寺26世日寛により石山教学が体系化され、興門流教学は逆転して「日寛教学」が主流となったのです。
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日寛(にちかん、寛文5年8月7日(1665年9月15日) – 享保11年8月19日(1726年9月14日)、1718年登座)は、日蓮正宗総本山第26世の法主(大石寺貫首)。
日蓮正宗では、第9世日有とともに中興の祖としてあがめている。
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内容は当方には難解すぎるので、、、苦しむが、、
「、、本迹相対もなお究極の教判ではない、その本門は下種の本門によって否定される、、」
「、、全ての教は本門といえども脱益の教で、下種のみが観心の大教である、、」
これは、中古天台教学の教判の一つ「十法界抄」の「四重興廃判」が基盤であり、観心正意の教判といえる。
本尊論
本尊に於いては法・人・人法一体(個)の3種に分別する。
法本尊:事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経
人本尊:久遠元初自受用報身の再誕、末法下種の主師親、本因妙の教主大慈大悲の南無日蓮大聖人是なり」とする
人法体一(個、不二):人と法は一体である
「他門に於いて宗祖を上行の再誕と言ふが如きは、外用の浅近に執したもので、未だ内証の深秘を知らざるものなり、、」
「本果妙の釈尊は脱着の教主で本地自受用報身如来の垂迹に過ぎず、然るにいま日蓮聖人は本地自受用報身如来の再誕であって、本仏そのものである」
日寛は、、「日蓮聖人の開目抄に曰く一念三千の法門は但法華経本門寿量品の文の底に沈めたり」
文底秘沈の解釈として、、寿量品の文底に秘められた観心こそが末法の世に意味を持つものだ、、
日寛と富木入道殿ご返事:御書「富木入道殿ご返事」にある「日蓮が法門は第三の法門なり」について、「第三の法門」とは「三種教相」のことで従来は「師弟の遠近不遠近の相」のことであったが、日寛は「観心の大教起これば本門の大教亡ず」と解した。この「観興本亡」を日蓮聖人の本意と解釈した。その文上を「本因妙抄」「百六個相承」に求めた。
但し、この2点は日蓮親撰ではないというのが現代判定だと言われています。
私の興味は、、日寛上人は、、細草壇林に学ぶのですが、、、、一説に、、、
埼玉県川越の「仙波壇林」の門をたたいたという話があります。以前のブログ
じーさん徘徊 川越 星野山 無量寿寺(天台宗別格本山 中院)その1 | 東葛の風
との関連を妄想したいと考えている。
ーーーーつづくーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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