流人日蓮を護送していく一行は、、井出沢か小野路、関戸、多摩川を渡り、、国府(府中)を過ぎ、久米川の宿に泊まる、、。
翌朝、、一行が歩む鎌倉街道を、、騎馬の一隊が枯葉を巻き上げて過ぎていった、、。
一行はあわてて脇によけるが、、何事か?、、
佐渡まで護送する、、依知郷の地頭本間六郎座衛門尉重面の家臣が、、話すに、、。
「武蔵国には保元平時の昔から、騎馬に強い党が七つあります」
「横山、猪俣、私一(きさいち)、村山、西、丹治(たじみ)それに、、これからまいります児玉とで、、武蔵七党と呼んでおります」
今宵は、児玉に泊まる予定であるが、、その領主、児玉六右衛門尉藤原時国が出迎えている、、
時国の祖父庄四郎高家は、、源平の合戦では一の谷で功を挙げている幕府に通ずる家柄、、。
「鎌倉への所要があって上るたびに、、聖人の姿を見ておりました、、騒ぎ立てる衆人に一歩も怯まず堂々と説法する姿に、、剛勇の武者のような感情をもち、、」、、「はたして、、法華経に帰依することを決めた」
児玉時国は、久米六右衛門永尉藤原時国と名乗り、館は、、その後に玉連寺として現在に残る、、。
あの方は、、佐渡赦免の帰路の折にも、この館に宿泊している。
昔を残す門前
やや朽ちた寺内には、、久米家の墓がある
あの方にとって、、極寒の佐渡流罪の旅路、、ひと時の休息となった。
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佐渡へ—②(塚原問答)
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「あの方」が鎌倉街道を通り、依智(厚木)の佐渡守護代、本間重連の館で28日間滞留された後、文永8年10月10日ここを立ち、、難渋18日間の旅の先に、、新潟「寺泊(てらどまり)」に護送され、、、荒海を超え、、、、1271年11月(旧暦文永8年...
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