『青天を衝け』–その6 パリ万博

1864(文久4年)
7月18日 禁門の変(蛤御門の変)にて長州藩の敗退
8月2日 第一次長州征討令
11月 長州藩謝罪 俗論党

1865年(元治2年)
1月2日 長州藩 高杉晋作が馬関で挙兵
5月11日 土佐 武市半平太 切腹
5月6日 坂本龍馬 桂小五郎と会談
8月16日 亀山社中がグラバーから小銃430丁購入し長州に運ぶ

1866年(慶応2年)
1月21日 薩長同盟成立
1月23日 坂本龍馬 寺田屋で負傷 薩摩藩邸に逃れる

■12月5日 一橋慶喜 第15代将軍に就く
12月25日 孝明天皇天皇 崩御(37歳)

■1867年(慶応3年)2月 訪欧使節団 パリ万博に幕府使節団
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日本が初めて参加した国際博覧会であり、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展した。幕府からは将軍徳川慶喜の弟で御三卿・清水家当主の「徳川昭武 15歳)」らが派遣された。一方、薩摩藩からは家老の岩下方平らが、佐賀藩からは佐野常民らが派遣された。

薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成した[要出典]。幕府は薩摩藩に抗議したが聞き入れられず、幕末の政争が如実に現れた万博となった。この時、幕府もフランスで勲章外交を行うために独自の勲章制作を開始したが、結局、間もなく幕府は倒れ、幻となった(葵勲章)[要出典]。

このほかに江戸・浅草の商人(清水卯三郎[5])が数寄屋造りの茶屋をしつらえた。3人の柳橋芸者(おすみ、おかね、おさと)が独楽を回して遊んだり、煙管をふかしたりするだけの光景が、物珍しさから、上記の幕府や西南雄藩による公式展示以上の人気になったという。

開成所の高橋由一・宮本三平らの油彩、北斎・国貞・芳幾・芳年らの浮世絵、銀象牙細工の小道具、青銅器・磁器、水晶細工などが出品された[
パリ万博使節団01.jpg
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このころ、、慶喜の側近は、、目付 原一之進である。
組頭の森から、、[渋沢、目付役 原一之進さまから、急のお呼びである」急ぎまいれ、、
何事か、
「今のたび、、フランス国で博覧会が開かれる、、各国の帝王や、名代が出席される。日本からも派遣されるようフランス公使から申し出があった、、そこで、この時世、、上様の御弟の清水昭武様を御内裏になることになったのだ、、」

「上様の思召しでは博覧会の終わった後、、ヨーロッパの国を巡り、3年ないし5年は昭武様をフランスにとどめて、学問させよとのことだ」

「水戸の家中がえらく、、反対したが、、ようやく昭武さまに7人のお付き添いが決まった、、だが、この7人が攘夷亡者での、まったく洋学の志がない、、幕府からは外国奉行、ほか幕臣が同行するのだが、、むしろ水戸の7人を抑えきれるか、、心配なのだ、、。」

そこで、お上(慶喜)のご内意で「渋沢を一行に加えて派遣せよ」とのことである。
家中でもない、お前ならうまくまとめられるだろう、、そこで「庶務会計の適任者」がいないので、、渋沢が適任という体裁じゃ、、、

「早急に用意をいたすように、、」

高いところから、、慶喜も原も見ていてくれた、、、亡き、平岡円四郎の笑顔が目に浮かぶ、、思ってもいなかった下命であった。

使節団一行28人は、、横浜ー上海ー香港ーサイゴンーシンガポールーアデンースエズ運河は工事中のため汽車でカイローアレキサンドリアー船でーマルセーユー汽車でパリへ、、、

栄一は進んで、、その新しい世界へ、、飛び込んでいった。

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