『青天を衝け』–その4 一橋慶喜が将軍後見職となる

1860(安政7年)3月3日午前9時頃、、登城のため江戸彦根判定を籠で出た老中井伊直彦、、藩士26名、、総勢64名を従えて桜田堀から、、桜田門に差し掛かった、、冬の名残の雪は吹雪交じりの大雪になってきた、、彦根藩士は雨合羽、、刀は柄袋を付けていた、、
いきなり、、水戸浪士の一人が、訴状をもって駕籠訴し、供頭に切りかかる、、直後に反対側から大老に向けて短銃を発射、、、した。
、、、、
「桜田門外の変」と言われる、、井伊大老暗殺事件が、、幕府の中心、、江戸城桜田門外で起きたのだ、、、

実に、、この2年前、、1858(安政5年)9月、、越前藩士橋本佐内、光岡八郎、、薩摩藩の堀中左衛門、有馬新七が密議、、大老を襲撃して変乱を起こし、、京都(天皇)を、、越前、長州、薩摩で守護して幕政を一新するというクーデターを計画していた、、が、、進んではいなかった、、火種はもはや、、発火点を超え、、燎原に燃え移ろうとしている。

桜田門外の変は、、、まさに、、枯野で松明が点火された瞬間だ、、、田舎町の武州榛沢軍血洗島の若者たちが、、異常な興奮に陥っても不思議ではないのでしょう、、高知土佐藩では、、武市半平太が、、土佐勤王党を立ち上げている、、、坂本龍馬は脱藩、、、、島津久光イギリス人殺傷事件(生麦事件)、高杉晋作ら英国大使館焼き討ち事件、、など、、混乱はつづく、、。

※ここで中断、、、ワールドベースボール第2戦は韓国戦、、3回表、、韓国が3点をとられる、、やばい、、これはTV観戦、、
※結果は5回に2点追加、、6回にホームランを打たれたが、、その裏5点の大量得点、、結局13対4で韓国に完勝、、

■長州藩が中央舞台に
長州藩主毛利慶親の命を受けて、、永井雅樂(うた)が、、朝廷要職の三条実愛に面会、、藩論「航海遠略策」を建言する、、、
この策を朝廷側から幕府に伝えるよう進言する、、朝廷側は、、これに乗る、、朝廷主導の公武合体論、、に、、幕府も公武合体論には都合が良い、、将軍から「公武周旋」を託す内命を受け、、長州藩は、、中央舞台に躍り出ることになった。

■薩摩藩 1000の兵を率いて上京
1862(文久2年)3月16日、、島津久光は小松帯刀、大久保利通を伴って、、京都の近衛家に参上する
近衛家と島津家は中世からの密接な関係、、近衛忠照の夫人は島津家の出、、、
この場所に、、議奏の中山忠能、三条実愛、岩倉具視が控えていた、、、久光に対して天皇の言葉として、、京都が不穏の浪士が企てをしている、、ここは鎮静に当たって欲しい、、という。

■一橋慶喜が将軍後見職となる
7月、、一橋慶喜将軍後見職となり、松平春獄が政治総裁職となる
8月、、松平容保が京都守護職となる
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■新選組編成
1863(文久3年)
3月1日勝海舟が大阪に宿舎
3月4日将軍家茂入京に合わせて新選組が編成される
4月13日 清川八郎暗殺
5月10日 長州藩外国船を砲撃-下関攘夷戦争
5月20日 姉小路公知暗殺
天誅として暗殺が多発、京の河原に晒し首が晒される。
5月6日 高杉晋作 騎兵隊を結成
7月2日 薩英戦争
8月17日 天誅組挙兵
■朝廷内クーデター
8月18日
朝廷内の公武合体派に、、会津(1800名)、淀藩(460名)、薩摩藩(150名)の兵が御所の各門を固めた、、御所の警備に当たっていた長州藩に帰国するように勧告する。急進派の七卿は一転して長州に逃れることになった(七卿落ち)

9月12日 岩倉具視邸に「天誅」予告あり、岩倉は僧体となって岩倉村に隠棲
12月30日 一橋慶喜、松平春獄、松平容保、山内容堂、伊達宗城が朝議参与に任命

長州藩は屈辱の追放となった、、またもや、、時勢は変転している、、、
その後の禁門の変で、、長州藩は一転して、、逆賊扱いとされるのだ、、、

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