『青天を衝け』–その2 武州高崎城の乗っ取り作戦

■武州高崎城の乗っ取り作戦
青年の熱と妄想は留まらない、、武器を調達し高崎城を奪い、、幕府を震撼させる、、同志を募り、、天下の諸大名に、尊王攘夷の挙兵を知らしめて、呼応して立ち上がるよう呼び掛ける、、
吉井、飯能、八王子を急進して、、一挙に横浜の外人居留地を焼き払う、等というもの、、、。渋沢栄一24歳の時である、、、。

村でも栄一たちが憧れの人物の長七郎が京都から血洗島に戻ってきた、、計画の密議に加わってもらうが、、、、
答えは「実に乱暴千万」「軽挙である、、」

中山待従をいただき文武の達人、藤本鉄石、松本桂堂などによる、浪士百人以上を精鋭を擁した天誅組も幕府の小さな植村藩にと藤堂藩に打ち破られて討ち死にした、、、七十人や百人の烏合の衆で、、幕府諸藩に勝目などない、、

「、、時に、、会津薩摩の連合のため朝議が一変して、、尊王攘夷派は劣勢である、、長州藩は御所の守衛を免ぜられて、攘夷派の三条実美ら七人の公卿も長州へ逃げ延びた(七卿落ち)、、、時勢は動いている、、、

同席の真田が刀に手を掛ける、、
「われらは、、捨て石になる、、死を恐れてはいない、、長七、、おまえ、、京で臆病風に吹かれすぎたか、、」
、、、、高崎城乗っ取りと焼き討ち作戦は、、中止となった、、。

この事態が、、岡部の役人、八州見回り組や隠密に知られたら、、首謀者として、、捕らえられ、、そのまま獄死するやもしれん、、
喜作と栄一は逃げるようにして、、江戸に向かった、、いや逃亡した。

■平岡円四郎
渋沢は、前回に江戸遊学した際には、、下谷の塾で漢籍を、神田お玉が池の千葉道場で剣術を学び、諸国の志士との交友を深めた、、
すべては、尊王攘夷に身を挺するためである。
幕府に攘夷の決断を迫るには、、攘夷義軍を集め、、まずは沼田城を乗っ取り、隣村の桃井儀八らと連携し、一気に鎌倉街道を下り、、横浜海港場を襲い、異人を殺戮する、、という計画を以って準備をした、、

そのためにも、、と思い、期待の英傑、、一ツ橋卿(慶喜)に接近しておきたい、、まずは、、一ツ橋卿の重臣だる平岡円四郎を訪ねることにした、、、、
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NHK大河ドラマ[晴天を衝けより

「おまえさん正気かい、、」
この話を聞いて、、平岡も驚いた、、、平岡自身も、、かっては攘夷論者であった、、が、、すでに単純な攘夷論者ではない。
だが、、この時、、平岡は、、この男は使える、、と思った。
「また、来るがよい」

今回は、、逃げるように血洗島を出て、、江戸の平岡邸を訪ねた、、、
平岡円四郎は2か月前から京都におり不在、、、であった。
ただ、、妻に「渋沢というやつが来たら、、家来にする、、と伝えよ」と言付かっていたという。
よほど、、気に入ったらしい、、、。
後に渋沢は、、回想禄で平岡を、、人の気持ちを先回りして知るタイプであった、、と回想している。

追っ手を逃れるように、、暗い気持ちで血洗島を出て、、来たが、、
主人は、、天下の一ツ橋卿、憧れというより高貴なお方だ、、
その重臣の平岡の家来になれた。
澁澤は、、天地がひっくり返ったように、喜び、晴れ晴れとした日となった、、、。

参考 最後の将軍 司馬遼太郎
雄気堂々 城山三郎

——Wiki———————————————
平岡 円四郎(ひらおか えんしろう、1822年11月20日〈文政5年10月7日〉- 1864年7月19日〈元治元年6月16日〉)は、幕末期日本の武士(一橋家家臣・家老並)。徳川慶喜の小姓を務めた。諱は方中。攘夷派に暗殺された。同じく幕臣の平岡準蔵とは異なる

徳川慶喜(一橋家相続および改名前は松平昭致)が一橋家に入った際、父親の徳川斉昭は慶喜に諍臣が必要と考え、藤田東湖にその人選を依頼した。平岡の才能を認めていた川路聖謨や藤田から同家の小姓として推薦され、慶喜に仕えることとなった[2]。安政5年(1858年)に徳川家定の将軍継嗣をめぐっての争いが起こったときには、平岡と中根長十郎(一橋家家老)は主君の慶喜を将軍に擁立しようと奔走したが、将軍には徳川慶福(紀州藩主)が擁立され、失敗する。しかも直後の安政の大獄では、大老・井伊直弼から一橋派の危険人物として処分され、小十人組に左遷された。安政6年(1859年)、甲府勝手小普請にされる。

文久2年(1862年)12月、慶喜が将軍後見職に就任すると江戸に戻る。文久3年(1863年)4月、勘定奉行所留役当分助となり、翌月一橋家用人として復帰した。この年、慶喜の上洛にも随行している。京都で慶喜は公武合体派諸侯の中心となるが、裏で動いているのは平岡と用人の黒川嘉兵衛と見なされた[注釈 1]。慶喜からの信任は厚く、元治元年(1864年)2月、側用人番頭を兼務、5月に一橋家家老並に任命される。6月2日には慶喜の請願により大夫となり、近江守に叙任される[4]。

——–平岡暗殺により即死す———

その2週間後の6月14日、渡辺甲斐守の宿所から御用談所へ向かう途中、京都西町奉行所付近[5]にて在京水戸藩士江幡広光、林忠五郎らに襲撃され暗殺された。平岡に同行し暗殺者を倒した川村恵十郎によると、一人に背後から頭へ、一人に腰へ一刀づつ斬り付けられ即死だったという[6]。享年43。
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