シルバー世代に注目の伊能忠敬記念館を訪ねる

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50歳で家督を長男に継ぎ、江戸に移り住み、自分の趣味だった天文学を学ぶために19歳も年下の天文方の高橋至時(よしとき)に弟子入りする。ここから、いきなり房総の外れの佐原から実測日本地図完成という偉大な事業を成す中心人物となるのです。

まさに出世の本懐を遂げるために発釈顕本します。脱皮するその時に運命はどう働いたのだろうか、興味深い場面ではある。

上総国山辺郡小関村(現九十九里町)いわし漁師の網元に生れた幼名 小関三治郎は、6歳で母と死別、養子だった父貞恒は離縁して実家神保家(現横芝町)へ戻るなど決して恵まれてはいない。

17歳で香取郡佐原村の伊能家に婿養子となる。伊能家は酒、醤油の醸造のほか貸し金業、利根水運を営む商家であった。
伊能家で傾きかけた家業の酒造を再興し、江戸に出店を持ち「千石造り」というブランド酒造家となる。奉公人も常時20人以上、酒造りの間は50人以上にもなりました。企業家としての才覚を充分に発揮することになる。
実は測量の間も実家にその地域の生産状況などを逐次、手紙で知らせて商売の情報に使ったという話を聞いたことがあるので、ただの学者や酔狂じゃない。

この間に38歳で妻ミチ、50歳で2人目のノブの突然の死去など恵まれず、隠居後の53歳では3人目の内妻エイを迎えている。

おもしろいのは、当時の天文暦学の分野で名声が高かったのは、大坂の麻田剛立を中心とする「民間の研究者グループ」であり、高橋至時は麻田剛立グループの一番弟子であった。
すでに幕府のお抱え学者では近代西洋科学に追いつかなくなっていたということです。

幕府は麻田グループに改暦を任せようとし、麻田は高齢を理由に信頼する高橋を推薦し、かくて高橋が江戸に新任することになる。これを耳にした伊能忠敬は弟子入りを決意するのです。

50歳になる忠敬は隠居を願い出て、千葉県の佐原から江戸に移り、運命に導かれて高橋らとともに56歳から長期にわたる日本の実測図測量に入るのである。伊能59歳の時には高橋は40歳で他界してしまうが、伊能はその後も1818年4月13日73歳の生涯を閉じるまで大日本沿海與地全図完成への大事業に携わるのです。

大日本沿海輿地全図が完成するのは1821年忠敬没3年後で、高橋至時の息子の影保の作業による。

伊能忠敬記念館では現在の日本地図と比較しているが脅威的とも言える精度である。

佐原の運河通りにある旧伊能家は今も目立たない風情であり、伊能忠敬も地味な存在と言えるかもしれない。
いな、忠敬は伊能家で家業を再興したときと同じように、黙々と仕事をしたのであろうかもしれない。

ただ、実測地図を目を凝らして見れば、偉業を成した伊能忠敬の「凄さ」を誰もが認めるに違いない。
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