『青天を衝け』–その1  深谷ネギ

熊谷→道の駅→寄居→児玉党→玉連寺→渋沢栄一記念館→深谷ネギ→深谷駅→磯部温泉→富岡製糸工場
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1月末頃、近所の方から深谷ネギを頂戴した。

えっ!ネギってこんなに甘いの??
、、、と改めて深谷ネギをリスペクして知りたくなった、、。

そうだ、、一昨年のNHK大河ドラマ、、晴天を衝け、、は埼玉県深谷出身の渋沢栄一が主人公のドラマ、、であった。
埼玉県は30年ほどビジネスのエリアとして勤務し、第2の故郷などと言っておきながら、、深谷方面の知識は、、薄い。
営業は、、どちらかというと南部中心で、、西部地域の所沢、狭山、小川町なども活動エリアではあったが、、、熊谷、深谷地域は、通過して、、群馬県にエリアを抱えていた。

渋沢栄一さんには、大変申し訳ありませんが、埼玉県にいて埼玉の偉人とは聞いていましたが、、一度も生家にはいっておらず、先生のことを、ほぼ知りませんでした。
NHKの大河ドラマから、、、埼玉県の誇る「経済人」としてようやく認識致しました。

深谷ネギと言ったら有名です、、またまた失礼ですが、、女房はネギのついでに、今回の渋沢記念館のスケジュールを組むらしい、、。

■道の駅 花園
そんなわけで、、上野から新幹線なら1時間、大宮からなら30分の近場な熊谷駅で下車、、レンタカーを使うことにする。
最初に、、深谷ネギを買おう、、とJA花園農産物直売所に向かった、、、残念、、、期待外れでした、、。ネギのシーズンは12月、1月だそうで、、時期が少しずれたようだ、、、あとで判ったが、、こことは別に、、道の駅「おかべ」というのがある。
後で記すが、、こちらが本目といって間違いない、、。
とりあえず、深谷ネギを3束(8x3本)宅配で家に送ることにした。ネギの品種は不明、、たしかホワイトNNとかが最高品種なのに、、。

向かいの古民家風のレストランに入って昼食、、、後から分かったが、、馬車道、、と同じチエーン店であった。
なにか、、、さい先の良くないスタート、、、

■玉連寺
これは、、別に記す。

■渋沢栄一記念館
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公民館と併設する、記念館は大河ドラマから1年以上過ぎたためか、、駐車場は空いていました。
管内の案内人が、、とても、、馴れ馴れしくて説明中に何度も肩に手を触れ、、「栄一」さんはね、、、、こちらもすっかり馴染んで、、
「しらんかった–」「偉い人なんやねー」などと、、いつもの「怪しい関西弁」になってしまった。
栄一さんが、思った以上に小柄であった。155センチは自分の方ほどの身長、、しかし、、顔はでかい、、、。
2階の栄一ロボットの講演では、その人柄が思い浮かべられます、、。

■旧渋沢邸「中の家」
立派なお宅です、、現在は母屋を耐震工事中です。
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この付近を散策しましたが、千葉県の農家とは大きく違います、、3階建てと言っていいくらいの高さは養蚕農家の作りです。
川向こうの大きな門構えの家があり、、通りすがりの地元の人に「あの建物はなんですか」と聞いたら、、「農家です」、、と単調な回答、、
何を当たり前のことを、、この人は尋ねるのかね、、と言った風でした。

明日には世界遺産の富岡製糸工場を見学するのだが、、「お蚕さん」、、という富をもたらしてくれた大切な宝が、、この地域の富豪を生んだのです。
旧渋沢邸の隣に、、渋沢家の番頭さんの家があります。
今は、、煮ぼうとう、、のお店をやってます。
ここも風情のある建物です。今日はお休みの日でしたが、奥さんが内部を見せてくれました。
自慢は、、澁澤栄一直筆の書が展示してあります。
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■深谷駅
東京駅の煉瓦は、、ここ深谷で製造されました。これも渋沢の力です。
そのため、、JR深谷駅はレンガ風に建てられています。
駅の裏側には、、小川が流れており、、桜の開花時期には、、その風情は心に残ると思います。

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■血洗島
物騒な地名であるが、この地域で渋沢栄一は生まれた、、。
栄一は地域の蚕農家と藍染の染料である、、藍を生産する傍ら、藍玉という原材料を製造して卸す半商半農の家業を継ぐ予定であった。
近郷では屈指の富豪であり、父の代に苗字帯刀を許されている。

徳川家康によって国内が、、270年もの間、安泰平和を享受してきたが、世界は動き始めていた。
この日本が、、隣国中国のように、、列強の植民地となるかもしれない、、鎖国時代が終わろうとしている。
天皇の勅旨なく不平等な通商条約締結をしたことが、、幕府の弱腰と見られ、、国論が割れる、、不満分子を押えるべく幕府の圧政は安政の大獄と呼ばれる強硬手段を選ぶ、、しかし、この反動が老中井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)と続き、、国内は乱世の様相となる、、、老朽化した江戸幕府の屋台骨を大きく揺らし始めたのだ、、。

尊王攘夷(天皇を敬い、外国人を日本から追い払う)という、、現在では考えられないが、、日本が武力を背景とした異国に攻められる恐怖、、神国日本という精神的プライド、、熱いスローガンとなって、、日本中の青年たちを突き動かした、、やがて尊王攘夷は、、尊王倒幕へと変化する。

幕末乱世ともいうべき時代が、、渋沢栄一を歴史の表舞台に引き上げる、、のだ。

—Wiki————–

安政3(1856)年7月21日、下田に駐在するため初代アメリカ総領事として来日したハリスは、日本との貿易ができるよう「通商条約」の締結を幕府に求めました。

孝明天皇(こうめいてんのう)からは条約調印の勅許が得られないまま、安政5(1858)年6月19日、大老井伊直弼(いいなおすけ)は「日米修好通商条約」全14条(付属貿易章程7則)を締結しました。条約の調印は神奈川沖に泊まっているポーハタン号の上で行いました。

また幕府は、アメリカに続いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました。これを安政の五か国条約といいます。

いずれも、関税自主権(かんぜいじしゅけん)を欠き、治外法権(ちがいほうけん)を認める不平等条約で、後に明治政府が力を入れて欧米諸国と交渉を行うことになる条約改正の課題となりました。

なお、条約の調印場所となったポーハタン号は、日米修好通商条約の批准書[注1]を交換するため、安政7(1860)年1月、アメリカに向けて横浜を出発しました。勝海舟(かつかいしゅう)らが乗る咸臨丸(かんりんまる)も共にアメリカに向かいました。
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