中岡慎太郎 その8 29歳  薩長同盟

■薩長連合は中岡が画策したが、、

高杉晋作らのクーデターにより、長州藩は再び尊王攘夷派が藩を掌握することになった。
幕府は再び長州征討を決定する。

慶応元年(1865)5月13日 幕府の長征軍進発の情報が薩摩藩に入る、
そのころ、石川清之助(中岡慎太郎)は、土方楠左衛門と共に「京都の薩摩藩邸」にいた、、。
どうする、、、

「要は、長州の桂、薩摩の西郷を説けばいい、この二人が手を握れば、あとは何とかなる」

「藩邸にて評議あり、西郷吉之助早々上京を促すことに決す、同人上京懸け馬関に立ち寄り、、桂小五郎と面会いたせ、篤と前途の見込みを付け、両藩同心、協力を以って大に尽力致度旨、中岡、自分共頻に申唱候処、薩藩諸士も同意を表す」楠左衛門日記)、、とある。

薩摩藩邸でも、西郷を上京途中の馬関で「桂と西郷を面会」させて状況判断をさせよう、、と考えていた。

楠左衛門が急ぎ馬関に行き「桂小五郎を説得」、慎太郎は薩摩に行き「西郷を説得」すべく5月6日に薩摩に向かった、、、。
(※閏年の変換表記となっている 薩摩藩着、、、5月15日西郷と共に出帆、5月18日佐賀関に宿泊)

まずは西郷と桂と会わせることだ、、、ところが、、、

「長州再征のことが、いかにも気になりもす。、、、何よりも朝議を固めねばなりもさぬ、、早々に京にのぼりたか、、」

大久保からの催促があり、、西郷は、馬関に立ち寄らずに、そのまま大阪に向かってしまったのだ、、。

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このこととは別に、、坂本龍馬が薩摩から大宰府に立ち寄り三条卿と謁見、馬関に到着して、桂に会見を申し込んでいた、、

楠左衛門(土方)が坂本を訪ねて、馬関白石邸で同宿する。
坂本龍馬は楠左衛門から、薩長和解の報告を知らされ、薩長連合へ向けて中岡が、、西郷を馬関に連れてくる、、と、、知らされる、、

「楠木どん、ようやった、、おまんら、、あたまええなあ、、」

、、、、閏5月21日、、坂本は晩飯を掻き込んでいた、、唐紙ががカラリとあいた、、
思わず坂本は箸をおとしてしまった、、中岡慎太郎が、立っている、、

「待つちょったがや、、慎太郎、、」

中岡はガラリと太刀を投げ出して、、
「失敗じゃった、、」
と崩れ落ちるように座った
「桂が怒る、、」さすれば、薩長連合は遂げられない、、

西郷を待っていた桂小五郎は、このことを聞いて、、色を成して怒った。
「やはり、、薩摩に一杯くわされたのだ、、」手がぶるぶる震えている、、、

「恥をかかせた、切腹してもよい、、」と中岡は言った、、。

慎太郎は、、長く薩長連合のために思想、信条を基に説得してきた、、。
この日本を外夷から守るために尊王を立て、、そして倒幕へと、ようやく流れが変わった、、。

しかし、、、この竜馬は、、やり方が違う、、しかも、薩長連合の危機を妙案で解決しようとしている。

この時、、坂本龍馬から有名な「長州興亡に関する妙案」と言われる提案がされる、、

「このままでは、長州藩は幕府に負けるがよ、、だが、、方法はある、、軍艦と洋式銃砲を多くもつことじゃ、」
外国商社は、武器を売りたがっている、、しかし、幕府から許可がおりない長州は取引はできないのだ、、。
そこで、「薩摩藩名目で買えばいい」亀山社中は、薩摩藩から商売を任されている、、、

アメリカの南北戦争が終わって、、武器商人らは上海の倉庫に武器をごっそり積み上げておるがや、、

「桂さん、、新しい大砲で幕府軍なんぞ、吹っ飛んでしまうがよ」

長州、薩摩藩ともに薩英戦争文久3年(1863.06.27)、下関戦争元治元年(1864.08.05)で、攘夷戦争を経験している。
最新兵器戦での、武力差は身をもって経験をしているのだ。

話は早い、、商売人の坂本龍馬は、亀山社中として22億円(現在価格)大口の初受注となったのだ。

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2022.01.08 修正
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