中岡慎太郎 その7 28歳  時勢論 高杉晋作

現場主義というか、、かって、、庄屋になった慎太郎は農民のために最善を尽くした、、
現状を打破するために、、尊攘派として行動を起こした、、そして、、今は、、五卿と共に三田尻にいる、、必死に時勢を見ている。

「禁門の戦い」に長州が敗退し、しかも朝敵の汚名を着せられ、、長州藩征伐の幕府軍包囲網が攻めてくる、、長州は四面楚歌となった。
長州藩内の大勢は、、俗論派が占め、、家老3名の自刃、切腹、断首を決定して幕府への恭順を示す、、

幕府側からは、長征撤退の条件として、
1..毛利敬親子の自筆の謝罪状
2..山口城の破却
3..五卿と随従浪士を他藩へ移動
の3条件が提案された、、、。

考えてみれば、、かなり軽い処分では、、ないか?
1..は直ちに実行
2..は瓦を叩き潰す程度で済んだとか
3..は五卿自身が恐れて動かない、、騎兵隊、諸隊は五卿を移されては大義が無くなり、、骨髄を抜かれるも同然、、として断固として譲らない。

五卿随従浪士である慎太郎は、この現場で模索している、、。

■西郷と高杉の秘密会談

騎兵隊、諸隊だけで五卿を守り切れない、、長州藩内の俗論派を抑えて藩論を正義派(尊王討幕派)にするには身軽にならなければ勝てない、、

「西郷に会おう、、」

と、、慎太郎は思った、、、。

しかし、、今、、薩摩の西郷に会い、五卿を他藩に転移すると言えば、長州諸隊はまず理解しないだろう、「薩俗会奸」「大島の芋」と薩摩を敵視ののしる彼らに、、自分は刺されるかもしれん、。

そうだ、、まずは、、筑前の士早川養敬に頼む、、薩長連合の急務を説き、、五卿の移転を話す、、西郷は今、、博多に来ている、、西郷に打診してくれ、、、今しかないがぜよ、、、。

時があわただしく奔る中、、、元治元年(1864)暮れ、、中岡は寺石貫夫と称して関門海峡を渡り、、大島吉之助(西郷)と面談する、、。

この時も西郷は、、、「皇国の御ため、天下の大義」でござる、、、としか言わない、、。

その後、、五卿は、筑前大宰府に移転する、、、。

しかも、、「十二月十二日、、石川清之助(中岡)、林泰の両人に依頼して、、、大島(西郷)、吉井、税所の3人を迎えしむ、、鼓楼大阪屋にて、高杉、月形、、、、応接す」(水野正名翁伝)、、、つまり、中岡らの手はずで、、長州馬関の大阪屋で西郷と高杉の秘密会談が行われたのである、、、。

※長府の稲荷町 「大阪屋」妓楼(ぎろう)を、志士たちには「たいはんや」と呼び「対帆楼」と書いた。

一説では、、高杉は西郷と握手をしただけで、、さっさと帰ったともいう、、、しかし、薩長連合の芽は確実に生まれた、、、。
中岡慎太郎の渾身の仲介で歴史の歯車は、、また回転しはじめたのだ、、。

■高杉晋作
上海を訪れた高杉晋作は、西洋列強が清国を植民地化し繁栄をむさぼる様子を眼のあたりにする。
危機感を抱いた高杉は攘夷運動に身を投じた。
中岡は、時勢論で高杉を評して、、
「、、兵に臨みて惑わず、機を見て動き、奇を以って人に勝つものは高杉東行、是れ洛西の奇才、、」
と記録している。

「これより、長州男児の肝っ玉をご覧にいれます」

文久四年12月16日、、下関の新地会所を襲撃、同三田尻の軍艦3隻を奪い取る、、高杉と忠勇隊の疾風迅雷の戦いに、、諸隊が動き出す、明けて慶応元年1月、、絵堂の戦い、太田の戦い、赤松、佐々並の戦いで俗論党藩軍との戦いに勝利する。
一機に藩権力を掌握して、藩論は倒幕武装闘争へと逆転することになる、、
この時の、高杉初動の同士、忠勇隊16名のうち12名が土佐勤王党出の土佐人であったことも記憶しておきたい、、。
高杉晋作は、動乱の節目、節目にさっそうと現れる、、、。
そうでないときは脱藩か、放浪か、隠遁、あるいは獄中にいる。
騎兵隊を創設し、、俗論党を排撃し、、藩の権力を掌握した高杉だが、、当然に諸隊の総督に推挙される。
高杉は、、それを蹴飛ばし、、「一人で外国へ行きたい」と言い出して、、藩の金3千両をもって、馬関の別荘で遊び、、長崎に行ってグラバーやラウダに会う、、グラバーに馬関を開港して貿易をやらんか、、と言われて、その気になる。
馬関は二度も攘夷(外国排除)の土地柄、、反感を買ってしまう、、総統候補は、すねて脱藩する、、。
だれも手が付けられない、、、。

「おもしろき こともなき世を おもしろく。」

人民のためでもない、、同志愛でもない、自分がやりたいからやる、、それが高杉、、、?、、そうだろうか。

高杉は革命家ではない革命の行動者、、人は風雲児という、、。

中岡慎太郎は違う、、庄屋時代からずっと、、何かのために献身する、、中岡は大義のために生きる、、理論化して行動する。
なのに、、中岡の理論と高杉の行動が一致する、、。

高杉は結核に侵され、、29歳で新政府誕生を見ることなく世を去るのです。
「僕の出番は、終わったよ、、後は三味線引いて、、歌って過ごすさ、、あの世でね、、」

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伊勢谷 友介(いせや ゆうすけ)の高杉晋作

高杉晋作は上海留学の際に、拳銃を2丁購入している、、、。
スミス&ウエッソン社製・第Ⅱ型アーミーの32口径6連式ピストル(全長25㎝)
そのうちの1丁を坂本龍馬に護身用にとプレゼントしている。

馬関の白石邸で、高杉と竜馬は初めて出会う、、亀山社中が薩摩名義で武器(ミニエー銃、ゲベール銃、ピストル4300丁、単価18両(43万2千円)、計7万7400両(18億5760万円、、、他で総額22億円、、、そのほか、、近藤長次郎のセールスで、蒸気船5万両(12億円)も成約している、、)を購入して、長州に運ぶ、、この際にユニオン号の引き渡し契約でトラブルが生じた、、周旋のために長州の高杉と社中の坂本龍馬が話し合った、、ようやく話がまとまり、白石邸の奥座敷で酒を飲みかわす、「坂本君、今日の記念だ、、」と高杉が手渡したものだ。

慶応2年1月薩長同盟成立の直後に、伏見寺田屋で伏見奉行所に取り囲まれた竜馬は、スミス&ウエッソン社製・No2を使用した
6発の弾がきれて、弾倉を交換しようとしたとき親指を切られて使えなくなり銃は放棄した、、
その後、薩摩藩に湯治に行くが、西郷から口径の短い22口径を2丁もらい、お龍と1丁ずつ持参したという。

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