中岡慎太郎 その6  27歳  西郷との出会い

■池田屋事件と禁門の変(長州の御所襲撃)
長州藩では、三条実美や尊王攘夷派公家の赦免を求め、藩主の冤罪を雪ぐ「新発論」を木島又兵衛が進めていたが、、池田屋事件(※幕末の1864年7月8日(元治元年6月5日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新撰組が襲撃した事件、。)を機に長州藩内で「新発論」が高まり、、総勢1600名の長州藩兵が、京都郊外に布陣する。
招賢閣有志も、、「忠勇隊」を結成して300名の兵士が三田尻を出帆した。
長州藩は、、武力を示しながら、、朝廷には嘆願、、諸藩には陳情書を廻す、、という、、やや朴訥な戦略で進められた。

一方、慶喜や会津は長州の行動に拒絶を示して、桑名、薩摩藩を加えて、御門警護に備えることとなる、、。
ここでは、、玉を抑えた幕府側には大義が立ち、長州の政治判断は危うい選択となった。

この事件には、、島流しから戻った西郷が出兵した、、御所御門を警備するを大義に、、薩摩案は蛤御門では、会津藩に加勢して長州藩と激戦、、結果、長州藩は敗北、、残念ながら、このとき久坂玄瑞は鷹司邸で自刃して生涯を閉じた。

長州藩に合流した中岡慎太郎は、遊撃隊に参加したが、足に負傷して、知り合いの鳥居大炊佐衛門(薩摩藩塾頭)の屋形に必死に逃れている。
薩摩藩の鳥居大炊佐衛門の屋形に逃れた、、??
不思議に思うが、、これには訳があるが、、ここでは省く、、。

この戦いでも中岡は西郷がいる薩摩と長州の連合を信じていたが、、長州藩の薩摩藩への恨みは、先の8月18日の追い落としに加えて、増幅するばかりなのだ。

この後の馬関戦争では、、英、米、仏、蘭の4国の連合軍艦隊相手に下関で戦争、敗北、、、高杉晋作、杉、渡辺、を講和史に、井上聞太、伊藤博文を通訳として講和は成立したが、、、これらの敗北で長州藩は幕府への恭順を示すなど「どん底」の状況に陥る。

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禁門の戦いの中である、、慎太郎は銃弾で足を負傷して、鳥居大炊佐衛門の屋形に逃れていた、、この時は、「西山頼作」と名乗る。

鳥居大炊左衛門殿の紹介で参った、、阿波の西山頼作と申す、、西郷どんにお会いしたい
西郷は会ってくれた。

「おお、、鳥居どんから聞いとりもす、、なんの御用で、、」
「拙者、土佐藩脱藩、中岡慎太郎と申す」
「ほう、、西山どんではのうて中島どん、、、鳥居どんの話では、長州のそれ弾にやられたとか?」
「いや、薩摩の弾でござる」
「ほう、、」
「拙者、木島又兵衛殿の軍に属しておった」
「ほう、、」
「薩摩の陣に切り込もうとして銃弾をうけました、、」
「ほう、、」
「召しとられるなら召しとられます」
西郷は少しも驚かず、意外な顔もしない、、ゆったりと聞いた、、
「傷は、痛まっしゃるか?」
、、これには、中岡も気圧されそうになった、、
「いかにも、、、痛む、、召しとられる前に、一言だけおうかがいしたい!」
「なんなりと、、」

中岡は熱くなった、、、
「おまん、、いつから佐幕派になられたか!」
西郷さん、、あんたのことを、まっこと信じてきた、、久光公は公武合体でもかまわん、、あんただけは、、尊攘だと信じとった、、。
吾々は、、西郷さんが島流しになったときには、、本気で救出に、人を派遣したのです、、。
薩摩に西郷どんがいる限り、、薩長土の三藩勤王の大義は生きる、、わが師武市(瑞山)は言ってきた、、、。
なのに、、この度は、会津のかたわれとなり、新選組と共に、なんで長州を撃つんかい、、!!
おんしの本心わあ、、、、、どこにあるがや、、!

西郷は、、、
「本心、、尊王の一語にごわすな」、、、とぽつんと答えた。
それ以外は語らない、、、が、、澄んだ一語に嘘は感じられない。

「それならば、、なぜ、、同じ尊攘の長州を敵にするんか」

われらは、幕府の命で動いてはいない、、勅命のみで動いている、、主上が長州を嫌われるにならっしゃたのは、誰がしやさったか、長州自身ではござらんか、、長州は自身で孤立される、、助けようにも助けられぬようになさる、、それは、うぬぼれであるからでっごわそ

「長州は撃ちもさぬ、、御門を守ったまっででござる」

「西山どん、、またお会い申そ、、おーい、、誰か、西山どんをお送り申せ、、」

、、、、

この時、、中岡慎太郎は、西郷を刺す、、そして自身も、、の覚悟で乗り込んできたのであったが、、。

この出会いは史実であるかは疑問とされている、、、、

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元治元年8月5日 イギリス、フランス、オランダ、アメリカの連合艦隊 17隻、大砲288門、兵員5000名の大部隊が長州を砲撃

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8月8日長州藩停戦申し入れ、 脱藩の罪で獄中にいた高杉が講和交渉に抜擢される。賠償金は300万ドル、彦島を租借要求したが高杉は租借は第2の香港になるとして拒絶した。
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