中岡慎太郎 その5  26歳-2  脱藩

混乱は続く、、、

■寺田屋騒動
寺田屋は薩摩藩の常宿である。
後に、坂本龍馬が襲撃されたのも、、この寺田屋だ、、、
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文久2年、、藩兵千名を率い上洛した島津久光は、、尊王派におおきな期待を持たせた、、ところが、それは誤解であった。
久光にはこの当時は倒幕ではなく、公武合体がその路線であった。
また島津久光はこのころ、、西郷隆盛、村田新八、森山新蔵ら尊攘派を捕縛して粛清している。

久光上洛のとき、、薩摩藩尊攘過激派「誠忠組」有馬新七らは寺田屋に集結していた、、
京都所司代酒井忠義、、佐幕派公家九条尚忠らを襲撃する企てをしていたのだ。

この情報を聞き、、久光は藩内の過激派を抑えよ込もうと藩士を派遣したが、、収まらず、、薩摩藩の同士討ちとなり、、結果、過激派8人が死亡した、、、。これを機に薩摩藩の藩論は一気に公武合体に向かう。
また島津久光は、寺田屋騒動の暴発を防いだことで評価されて、朝廷から京都の治安警護を命じられる。
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■長州藩が尊王攘夷で藩論統一
一方、、長州藩の藩論であった長井雅樂(うた)の「航海遠略策」(※公武合体策)に対して、、松下村塾塾生の高杉晋作、久坂玄瑞らは、、は異を唱えた、、。松下村塾塾生は、、師である吉田松陰の「草莽崛起論」(※在野の志を持った人々が一斉に立ち上がり物事を成し遂げよう、、)という松陰の遺言でもある、決起へと走るのである、、その具体的な結集は理想主義的尊王攘夷であろう、、、。
長州藩は高杉、久坂、に加えて桂小五郎も加わり、、長井失脚に追い込んだ、、結果、藩論は尊王攘夷となった。
長州と薩摩のベクトルは、、この時点では反対方向を向いている。

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1861年(文久元年)10月、龍馬は、「剣術詮議」を名目に讃岐丸亀の矢野一乃丞を訪ねるため、土佐を発ったのだが、、、本当の目的は武市半平太の書簡を持って、長州藩士久坂玄瑞に会うたことと、政情探索であった。 安政の大獄、そして桜田門外の変、、...

■京都の【天珠】テロ
京都に上洛した、、長州藩の久坂玄瑞や、土佐勤王党武市半平太らは、京都に集結する尊攘派志士らの後ろ盾として、、佐幕派への対立を深めていった、、血気の浪士らは天誅(てんちゅう)(※天に代わって天罰を加えるというテロ)を続発させた。人切り以蔵と呼ばれた岡田以蔵など、暗殺プロ的な存在も生まれる。
これに対して幕府は、京都治安を京都町奉行や所司代には任せられん、、として、、新たに京都守護職を設置して会津藩松平容保(かたもり)を任じた、、容保は1000名の藩士とともに京都守護に上洛する、。更に幕府は、、京都見廻組、、新選組、を結成して取り締まり強化した。

■公武合体派のクーデター(8月18日の変)と七卿落ち
京都の尊王攘夷派は、、順調に勢いを増していたが、、ここで、やや、前のめりな策をとった。
長州藩の主導のもとに、三条実美などの尊攘派公家と連携して【孝明天皇大和行幸】(※孝明天皇が大和の神武天皇陵を参拝したのちに、、攘夷親征を実行に移す計画)という策を実行して大義を見せようとしたのである、、、

このことに危機感を持った幕府、薩摩藩主島津久光と会津藩は、、中川宮朝彦親王(公武合体派の公家)とともに8/18に天皇からの詔勅をもって尊攘派公家の参内を禁じ、、御所の門を封鎖、、長州藩の担当の堺町御門警護の解任など、、長州藩と攘夷派公家の排除を実行した、。
三条実美ら7名の尊攘派公家は、、追われて、、長州に下った(※七卿落)、、、のである。
順調に見えた長州と尊攘派は、、一気に劣勢となる、、。
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■慎太郎 脱藩
土佐でも大きな変化が起こる、、、
「3名とも切腹じゃあ、、」土佐藩主君山内容堂の声が響く、、、
間崎滄浪(哲馬)、平井収二郎、広瀬健太、、尊攘派の切腹が命ぜられた。
土佐勤王党への弾圧、、攘夷派役人の解任、、刻々と慎太郎への周囲の空気が変化する

京都のクーデターにより長州藩と攘夷派公家が追い出されたのだ、、、
とにかく、、七卿に拝謁して、、状況を確認しなければ、、、文久2年10月19日夜、、慎太郎は防洲三田尻に姿を現す、、。
状況の変化に、、息を呑んだ、、京都も土佐も状況は、、一変した、、のだ。
慎太郎は、このとき、三条実美から和歌をもらっている。

旅衣 つゆもかわかぬ 袖の上に かかるはひし 秋の村雨

10月21日に慎太郎は、三田尻を立って土佐に帰るが、、、土佐では土佐勤王党への弾圧がはじまり、首領武市半平太の逮捕、投獄、、
そして同士河野万寿弥、小畑孫次郎、などの逮捕つづく、、嫌疑は慎太郎にも及んでいた、・帰路の途中に慎太郎は、、自分に補足の網が狭まっている状況を知らされる、もう戻れぬ、、土佐に安住の地は無くなった、、。
再び、、長州に向かった慎太郎は、、、脱藩、、草莽の士となって、長州藩とともに倒幕への道を進むのだ、。

やがて、、田野学館の尊敬する先輩、間崎哲馬の切腹、、師匠である武市半平太の切腹、、多くの仲間の投獄、、
あの真っすぐな気性の間崎さんの思いが聞こえる、、光次(慎太郎)よ、わしゃ無念じゃ、、とは言えないのだ、、
間崎は慎太郎らに遺言を残している、、衣類数点をあげ、、「埋葬之御取斗下され度、是は少々子細是あり、僕、遺恨の存するところに候」

土佐における武市半平太の一藩勤王路線は、、完全に失敗に終わった、、、

中岡慎太郎 26歳 もはや、、土佐藩でもない、、長州藩でもない、、薩摩の西郷は尊敬するが、、藩主久光は「一権道」に値する。
、、、と。この頃より、中岡は「石川清之助」を名乗る、、、。

■三田尻の招賢閣
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※三田尻御茶屋(みたじりおちゃや)は、江戸時代に毛利綱広によって建てられた長州藩の公館。現在では英雲荘(えいうんそう)と呼ばれており、萩往還関連遺跡三田尻御茶屋旧構内英雲荘として国の史跡に指定されている。三田尻御殿とも呼ばれていた時期もある。また、三田尻茶屋の敷地の一角に、招賢閣(しょうけんかく)が建てられていたが、現在は残っていない。
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三条実美ら尊攘派公家が、、京都を追われ、、七卿落ち、、うち2名が他界して五卿となって、、長州の三田尻のお茶屋に落ち着いた、、
招賢閣には、、諸国から続々と尊攘派浪人が集結して、尊攘派の首脳は、ここに移りきた、、長州藩は佐々木男也を周旋役として、、数名の議員を推認したが中岡慎太郎は招賢閣議員として五卿と浪士、長州藩との連絡統率の任についた。
招賢閣は、尊攘派の議政機関、参謀本部となったのである。
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興味深いのは、、招賢閣での日常だ、、、
・朝は六つ時に起床すると東に向かって礼拝
・食事が済むと文武の講習
・昼食後は武術の稽古
・夜は兵書の講義
・毎月1日は操練
・四の日は策問
・七の日は遠足
・九の日は詩歌音楽
という科目が設定されている。
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中岡慎太郎は、、尊王討幕派浪士の招賢閣で参謀本部で頭角を現し、「草莽崛起」と具体的戦略としては「薩長土連合による倒幕」に向けて奔走する。

さて、、このころ、、坂本龍馬は、、文久2年10月、勝海舟の門下生となり、軍艦奉行の勝が推進する神戸海軍操練所開設に動き、、、また、勝海舟が山内容堂に直接掛け合い竜馬の脱藩罪は許されてもいる。
竜馬は浪士を海軍操練所に勧誘するなどするが、、政局の急展開により、、神戸操練所は慶応元年3月廃止に追いやられる。

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