白馬村-栂池自然園 ②
夏休みのプレゼントで、、2択、、①富士山の見える場所+(小田原)城 ②アルプス+松本城
どうやら、、松本城の希望が異常に高い、、②に決定
往路は、、あずさ15号 12:00で新宿から松本へ、、帰路は、、あずさ52号14.07で新宿へ
予約キップを確保した。予定通り15:00松本駅着、、ここからはレンタカーで白馬村へ出発、、
■え~!!運転免許書が見当たらない
松本駅で駅レンを予約したのだが、、じーさんの免許書が見つからない、、他に入れることは無い筈のいつもの場所に見当たらないと、、焦る、、
結局、、娘の免許書で車を借りることに、、小型車日産ノートは快適にスタートしなかった、、、
娘は、、自宅から30Km以上の運転経験が無いという、、、しかも、、スズキの軽自動車しか自信がない、、
やがて、、山道を必死の形相で運転する娘は、、日頃のヒステリーが抑えられて、、口数が少なく、、こちらとしては、言葉も無いので、、仕方がないね、、娘は初のレンタカー運転を長野で、、知らない道を走るのも
、初めて、、安全運転で、、予定時間をオーバーしてホテルに到着、、まあ、、いいか、、、。
翌日の運転は面倒なので、、免許書不携帯で、、じーさんが運転したのだ、、。
■松本城の天守閣入場は40分以上待ち
3日目、、午前11時半に松本城に着、、駐車場の確保や写真を撮ったりで30分、、さあ、、入場ということでしたが、、只今の待ち時間は40分以上です、、とのこと、、このジリジリした暑さの中で、、以上、、という響きがキツイ、、、
14:00のあずさ52号まで、余裕がなく、天守閣はやめて、孫と、隣の歴史資料館でお城の歴史をお勉強しました。
■明治時代に松本城は、、入札で売られて取り壊されることに
天文19年(1550)に府中に進出した武田晴信(信玄)は、小笠原長時の本城である林大城をはじめ周辺の山城を落とすと、深志城を残して他の城はすべて破壊し、深志城を拠点としました。深志城は平地に位置し交通の要衝地でもあり、東信・北信、さらには上杉への策源地として格好の位置にあったからで、以後30年余にわたって武田氏の信濃支配の拠点となりました。
天正10年(1582) 織田に攻められて武田氏退去。機を見て小笠原貞慶が入場し松本城と改名する
慶長5年(1600)関ヶ原合戦、康長は東軍に属す
元和1年(1615)小笠原秀政・忠脩父子 大阪夏の陣で戦死
寛永13年(1636)松本銭(寛永通宝)の鋳造始まる
享保11年(1726)戸田光慈 鳥羽から入封(6万石)
慶応4年(1868)戊辰戦争、東征軍に帰順し北越へ進む
明治2年(1869)戸田光則 版籍を奉還し松本藩知事となる
明治5年(1872)天守櫓など払い下げとなるが、のち市川量造らの尽力により買い戻される
1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れる。
※明治時代、、やはり、、列強に追いつけ追い越せの明治の価値観の変化が、、歴史文化の多くを破壊したのでしょうね、、歴史は、、古代から、、そんなもんですよね、、。
1876年(明治9年)6月19日 – 不審火により、当時筑摩県庁となっていた二ノ丸御殿が全焼。当時、県庁の移転と旧長野県との合併問題をめぐって紛争が起きており物議をかもした。跡地には1878年(明治11年)に松本地方裁判所が建つ。
明治30年代頃より天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学(旧制)校長の小林有也らにより、天主保存会が設立され、1903年(明治36年)より1913年(大正2年)まで「明治の大修理」が行われた。
明治34年(1901)小林有也ら「天守閣保存会」を設立(1903年から修理を始める、完了は1913年)
昭和11年(1936)天守ほか4棟が国宝に指定される
昭和30年(1955)解体復元落成祭を行う
平成17年(2005)解体復元50周年を迎える
外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年(昭和25年)の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した1955年(昭和30年)以降は黒漆塗りとなっている