白馬村-栂池自然園

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長い梅雨が明けて、、ようやく夏らしくなった8月2日、、孫達と白馬に向かった、、
白馬はスキー場としてオリンピック会場としても有名だが、、個人的には夏の白馬は思い出の多い場所だ、、

かって35年前、、サラリーマン時代に営業で5年間、、松本地域を担当していたことがある、、、
通常は群馬県前橋での仕事から信越長野経由で篠ノ井線で松本に入る、、

主なお客は自治体と農協さんでしたが、、自分では、、行商人と言っていました、、宿泊はビジネスホテルが飽きるので、、時おり民宿に宿をとったりもする、、松本市内の民宿の名前が”霜月”と言ったが、、今はまだあるのだろうか、、

宿の女将が美しかったのが印象的だ、、さむい冬場に仕事から宿に戻ると畳の部屋に布団そして小さな炬燵が布団の角に入れてある、、
この地域では普通のおもてなしなのだろうが、、宿に戻って、、この炬燵に熱燗を用意してもらうのが、、楽しみだった、、野沢菜やちょっとした御つまみが用意され、、そして、、たまには、、、この宿の女将が”、、お疲れ様”とお酌をしてくれることもある、、。

、、、じーちゃん、、、妄想じゃないの、、、、、、
そんなことはありません、、その程度の情緒は昔の小さな民宿ではありました、、、。

松本->大町–>白馬村へと向かうこの間の道沿いに 湖が2か所、、木崎湖と青木湖があります、、

青木湖では東京から移り住んだという若い夫婦が白いロッジ風のCafeを開いていました、、
「冬が大変なんです、、小学校の娘が学校に行くのにバスまで1M以上に積もった雪の中を行くのです、、」そんなご主人の会話が記憶に残ります、、、

大雪のために大町駅と白馬の中間あたりで列車が止まり、、、線路を歩いて戻ったこともありましたっけ、、、生まれてはじめて、、ラッセル車を見たのも、、この時でした、、、、
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■塩の道 Wiki

千国街道(ちくにかいどう)は、新潟県糸魚川から長野県大町を経て松本盆地の松本・塩尻に至る道筋である[1][7]。別名、糸魚川街道、松本街道[7]とも呼ばれる。信濃側では糸魚川街道、越後側では松本街道と呼称された。沢渡宿と佐野宿、飯田宿と飯森宿は併せてひとつの宿として機能した。江戸時代は、信濃の松本藩が日本海産の塩を運ばせた主要ルートで、藩では太平洋産の塩を藩内に流入させるのを禁じ、領内に必要な塩はすべて日本海側から運ばせた[7]。その理由は定かではないが、最も海に近いルートで複数の藩を経由せずに塩を運べたので利便性を優先した結果からだとする説がある[7]。

現在、千国街道にあたる道筋は国道147号と国道148号の2本の一般国道の路線になっていて、これに並行してJR大糸線が走っている。古寺社や石仏、道祖神などの史跡が沿道に残されており、歴史観光のルートにもなっている[8]。通過する自治体である小谷村・白馬村・大町市では、毎年5月初旬に「塩の道祭り」が催されていて、昔の旅姿に扮した地元住人が観光客とともに千国街道を歩く[8]。

■敵に塩を送る

「敵に塩を送る」は、敵の弱みにつけこまずに、逆にその苦境から相手を救うという意味で使われる故事成語である。戦国時代の戦いで、駿河の今川氏と相模の後北条氏は、海側からの塩の道を絶って、武田信玄の領地である甲斐への塩の流通を止める兵糧攻め作戦に出た。甲斐で塩が不足して苦しんでいることを知った越後の上杉謙信が「武士道に反する」として、敵対する武田氏に塩を送ったとされる故事が有名で[1]、その塩が運ばれたのが千国街道であると言われることがある[10]。しかし当時の資料からは、塩止め(荷留)をしたという事実はないと考えられ、後世に作られた美談とされている
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そんな、、地域が好きになり、大雪渓で有名な、連峰、、白馬乗鞍岳、白馬大池、、小蓮華山、、白馬山、、も楽しむ機会を何回か持ったりすることができました。

白馬八方尾根のハイキングも素晴らしい、、コースです。

今回は、、、老人や子供に合った栂池自然園です。

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ほぼ、、木道が整備されていて安全に自然を楽しむことができます、、、

hakuba 2019-003.jpg ソーラーパネルが設置されて、、監視カメラが作動していましたよ、、、、コース内に3か所ありました



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晴れれば、、こんな景色も、、、

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