あわてて、、高齢者講習を申し込み、間に合ったのは1か所、、市川市国府台の自動車学校、、13:00から15:00の2時間の受講を受けることにした。
この学校の近くには、、古くは大和王権の古墳が有り、、律令時代には国府、国分寺が置かれ、、鎌倉時代には千葉氏の領地に逃れてきた源頼朝が千葉胤頼の援助により再挙することになる場所もある。
また、、外環松戸ICが6月に開通することで、となりの市川IC周辺もに賑やかになっている、、、市川市農協の道の駅も完成したようだ。、ので、、、ついでに散策することにする。
まだ準備不足な「道の駅」は、外環の開通見学だろうか混雑しているし、、見るべきものも、レストランもお土産さんも、気になるものは特にありません。
次に通りがかりで見かけた、、丘の上の「市川歴史博物館」に向かうことにする、、、
入場無料、、でした。今回は時間が無いので展示場を15分で見学予定、、連休中に、、一段坂を上った、、となりの「考古博物館」に立ち寄ってみようと思う。
■日蓮「立正安国論」のレプリカが!!
あれ、、なんと、、歴史館展示場入口から数点目に唐突に、、日蓮聖人の国宝「立正安国論」のレプリカが展示してあった。リアルに目の前にある。
こんなこと、、はやく言ってよー、、写真でしか見てなかったので、、近所の博物館に唐突に展示してあるのを見ると、、言葉が出ない、、。
小学生が遠足で来る場所だから、、市川の子供は普通に知っていたのか-、、。
その他の展示物と横並びで、、唐突過ぎて、、正直、、やや重厚感が薄れたのです、、。
以下、、博物館で購入した「市川の歴史を尋ねて」から関連メモする
■千葉常重が大冶元年(1126)上総に築城し根拠地とするも下総に戻る。
下総の源常将の子息の常重が、、千葉市に移り千葉歴史博物館の、猪鼻山、、に築いた大椎城が千葉氏の根拠地とされるが、、源氏の敗北により、、再び、ここ下総の国府に戻ることになった。
※2017写真 大椎城あり
■頼朝が、下総の千葉常胤に援助を求める
伊豆で旗揚げした頼朝が、、石橋山の合戦で敗れて安房に落ち延びる、、時を待っていた常重の長子の千葉常胤は、、源氏再興の志を伝えて頼朝を迎える。
この時、、頼朝(34歳)は「常胤(63歳)を自分の父とする、、」とまで言って信頼を寄せたと言います。
また、一説には頼朝は上総から船で行徳の港(下総国府津)から国府に入ったと言われています。
■治承4年 国府台に源氏の白旗を靡かせる
頼朝は下総国府(現在の市川市国府台)に入ると、、太日川(現在の江戸川)に面した崖上に源氏の旗印である白い布を竹ざおに掲げて並べ、、大軍の布陣に見せたと言います。実際その後に平広常が2万の兵を連れて、、国府台に到着します。
■頼朝が10万余騎をもって鎌倉入りする
治承4年10月、、隅田を渡り武蔵に入ると、、江戸重長、豊島清元、葛西清重、足立遠元らが頼朝軍に参加、、軍勢10万余騎となった。
■平家を倒して源氏の世に
下総国府台から千葉常胤と平広常の支援を得て、再挙した頼朝は平家を倒して源氏再興を果たし。鎌倉を拠点とする(鎌倉幕府)。
■千葉常胤は九州遠征により肥前国(佐賀県)小城郡を賜る
※蒙古来襲では九州守護にあたる。
■千葉常胤、鎌倉の甘縄郷に居を構える
※甘縄郷は鎌倉大仏の長谷周辺、、、
■千葉介頼胤の被官、冨木常忍、太田乗明、曽谷教信
冨木常忍は、国府台に置かれた守護所に通い、幕府からの通達を受けたり、下総国内の諸事を頼胤の決済で処理する事務官僚といわれる。
参勤で鎌倉に向かう船で「あの方」と同船した際に問答して信服して檀越となったという話が残る。
拙者Blog 金沢百景 船中問答
じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑪ 金沢百景 二子浦~六浦 船中問答
JR総武線下総中山駅と西船橋駅の中間にある地名「二子(船橋市)」であるが、、、かっては、「市川砂州」と呼ばれる低湿地帯に面していたらしい、、、そして海岸線は、この場所まできていたのだ、、この「二子浦」から千葉氏被官の冨木常忍の館までは、現在...
※このBlogで冨木常忍の通勤海路を、、二子浦~浦安~六浦と想定したが、、
二子浦~行徳港(下総国府津)~六浦が考えられるので、、冨木常忍の鎌倉通勤海路に、、行徳名説をあげてみたい、、もっとも浦安と行徳は地理的には同じ場所と言っても良いので、、当時の呼称を確認する。
市川の歴史を尋ねて 市川市教育委員会 発行よりメモ
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