富士川に沿った山間の集落であるが、現在は住居が景観を阻んでいる。
法連寺は、「あの方」の後継、、六老僧の一人、、日持上人誕生の地と言われるが定かではない、、、。
Googlで空から見れば、、駿河湾、富士山、富士川の位置が良く分かる、、、。
そして、、富士川の反対側には、、岩本実相寺がある、、、。
岩本実相寺一切経蔵 は「あの方」が国家諫曉(建白書)「立正安国論」を構想した寺と言われる。
拙者関連Blog
ジーさん徘徊 富士周辺--③ 岩本実相寺一切経蔵
<岩本山の上にも茶畑が続く> 「日昭さま、、お師匠さまは、、ご病気になられたのでは、、」 日朗は、雑草を抜き、周囲の石をこまめに除いていきながら、、伯父の日昭に語りかけた、、 「どうして、そのようなことを、、夢でもみたか」 日昭は、、法衣の...
日興誕生の鰍沢から実相寺までは車で1時間40分程度、、、徒歩13時間といったところか、、、、水路の話は聞かないが、、もし富士川を利用すれば、、当時としては、、それ程困難な距離ではない。
つまり、、、日興と日持は、、富士川沿いを故郷とする、、地縁で結ばれている。
■日持上人の海外伝道伝説
—-連永寺サイトから↓—–
水仁二年の九月、即ち、人宗祖の御正当より一月早く十三回忌の御法要をすませ、御正当の十月には身延の祖廟に詣でて我が志を告げ、翌永仁三年の正月朔日、弟子檀方の留むるのを振払ひ、供をと願ふのも退け、単身飄然と松野を去って弘通の旅に上ったのでありました。
そして、行く行く「奥州地方」を巡化し、海を渡つて「蝦夷地」に入り、更に「樺太」から「満洲」へ行つたと言はれ、最近、断碑や口碑の発見研究に依れば、かなりの教績を挙げ、元の仁宗皇帝の帰依を得、晩年哥林に至って寂したと言はれて居りますが、何れにしても明瞭な事実は判らず、終焉の場所および年月日等も知れて居りません。
————–↑——–
、、、1295年(永仁3年)正月 – 日持は「仏法西還」という、、師の教えのまま、、一人永精寺(現連永寺)を立ち、、正法弘通の旅に出る、、奥州~北海道~?樺太~?満州~に足跡を残すという謎の大陸伝道伝説、、、がある。
日持上人大陸伝道伝説に関しては、、多くの反論もある、、
大正時代には、スケールの大きい真偽不明の調査発表がされた。
やがて、日持大陸伝道伝説は昭和に入り、、満州帝国における北進政策と結びつくことにもなる。
国会図書館デジタルコレクション
機庵 中里右吉郎 著
蓮華阿闍梨日持上人大陸蹈破事蹟
国立国会図書館デジタルコレクション
日持上人の樺太布教説をめぐって –
北海道大学スラブ・ユーラシア研
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/JapanBorderReview/no6/pdf/04.pdf
それらを含めて別に調査する。
■仏法西還
(月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、)
、「諫暁八幡抄」、、、、、
長文の最後に記された文、、↓で、弟子として日本の仏法を月氏国(インド)西国に向けて伝道せよとの意味にとれる。、、、、
、、、、、、、
天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり、各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ。
弘安三年太歳庚辰十二月 日 日蓮花押
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次は日興上人開基の富士大石寺へ
Wiki—-
、、、日興は身延の地頭・波木井実長と意見の相違で身延山久遠寺を離山。
後に、上野の地頭であった南条朝臣時光の招請を受けて正応3年(1290年)、富士山麓の大石ヶ原に移り住んだのが大石寺のはじまりである。
これに供奉した主要の弟子が塔中(脇寺)を建立し、現在の大石寺の原型ともいえる姿ができた。
その後、江戸時代前半の第17世日精の御影堂再建に始まり、第25世日宥時代の三門建立、第27世日養時代の客殿再建、第31世日因時代の五重塔建立(寛延2年〈1749年〉)によって、江戸時代中期には主要な伽藍が整った。
そして、次には、、
「あの方」が佐渡から帰還後に鎌倉を去り、その後9カ年過ごして多くの指南書を残し、池上にて入滅後、納骨されたお墓がある「身延山久遠寺」へと向かうことにする、、。
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