女房と2人だけの正月は、、どうも、話題がうじうじと消極的になって面白くない、、。
急に富士山が見たくなった、、。
暮れからの腰痛も回復してきたし、、急きょホテルとレンタカーの予約をして、、家出する。
新幹線こだまで「新富士」着、、まずは、やはり「田子の浦」海岸でしょうね、、、
天気は上々、、素晴らしい富士山の雄姿、、来て良かった、、。
<田子の浦みなと公園にて2018.1.3 11:00頃>
残念ながら、、現在の田子の浦は、、工場が立ち並び、、一時はヘドロも酷かったらしい、、清水港の「三保の松原」も同じ景観で、、ガッカリしたが、、ここも景観がひどい、、、ただし、、「田子の浦みなと公園」は昨年(H29)整備されて、、観光スポットとなった。
※古資料による山部赤人の歌にある「田子の浦」は、ここではなくとなりの「蒲原」地域らしい、、、、。
Wikipedia では、、田子の浦橋、1886年にアドルフォ・ファルサーリにより撮影された写真が掲載されており、当時はまだ、山部赤人の和歌の風情が残っていたのでしょう。コピー。
「田子の浦」の名は、万葉集に納められた「山部赤人」の以下の和歌に登場することで有名である。
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける(読み下し文)
万葉集では「田兒之浦」と表記され、また『続日本紀』では多胡浦とある。これらの事実から、田子の浦は以下の2つの意味がある。
1.万葉集を代表とする古史料に見られる「田子の浦」
2.現在の静岡県富士市の「田子の浦港付近」
古来の田子の浦は、静岡県静岡市清水区の薩埵峠の麓から倉澤・由比・蒲原あたりまでの海岸を指す[1]。例えば『続日本紀』には「廬原郡多胡浦浜」とあり、古来の田子の浦が「庵原郡」に存在していたことが示されている[2]。富士市の田子の浦港付近と混同されやすいことから、、、
「山部赤人の歌の田子の浦は蒲原付近である」とあえて明記する例も多い[3]。富士市の現在の田子の浦港付近と必ずしも一致しないという実情は、地元の郷土会などでも認識されている
<和歌の碑が刻まれる公園から>
↑Wiki
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山部赤人 Wiki
その経歴は定かではないが、『続日本紀』などの史書に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。神亀・天平の両時代にのみ和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。『万葉集』には長歌13首・短歌37首が、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に49首が入首している[3]。、、、
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それにしても、、レンタカー屋の準備がひどい、、、ナビが中国語設定、、文字も音声も中国語、、エンジンをかけてから気が付いた、、急きょ変更させたが、、現在の観光事情を反映しているのだな、、、。
次は富士市南松野2040にある法連寺に向かう
蔵人屋敷[編集]Wiki↓
法連寺境内にある日持の生誕地。初代の松野六郎左衛門行安は建保年間(1213年-1219年)に左衛門尉となり京都で六位蔵人職に任ぜられたという。
北条時政に仕え鎌倉出身であった。
貞応年間(1222年-1224年)頃から地頭職となりこの付近(松野、小車の里)に居住した。その孫の三代六郎左衛門行成が日持の実兄に当たる。
つづく、、、、
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