六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー②

■真間釈迦仏供養逐状(真間仏供養抄)
冨木殿(1215-1299:富木五郎左衛門尉胤継:千葉氏被官:出家して常忍)
は、真間の「御所領堂」に釈迦仏を建立したことを「あの方」に報告した、、。

それに対する返事が「真間釈迦仏供養逐状」健治3年(1277.9.26)です。
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釈迦仏御造立の御事、無始曠劫(むしこうごう)よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや、「欲令衆生開仏知見(よくりょうしゅじょうかいぶつちけん)乃至(ないし)然我実成仏已来(ねんがじつじょうぶついらい)」は是なり、但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ(予)房をもてはた(果)しまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ、自身並に子にあらずばいかんがと存じ候、御所領の堂の事等は大進の阿闍梨がききて候、かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし、いつぞや大黒を供養して候いし其後より世間なげかずしておはするか、此度は大海のしほの満つるがごとく月の満ずるが如く福きたり命ながく後生は霊山とおぼしめせ。
九月二十六日             日 蓮  花 押
進上 富木殿御返事
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ここで、、、、
、、、但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ(予)房をもてはた(果)しまいらせさせ給い候へ、、、、

として、、釈迦像に法華経一部を御仏の御六根に読み入れ参らせて、生身の教主釈尊となし奉ってお迎え申し上げ奉安なさい、、と言って伊予房(日頂)にその役割を示している。

現在、、この坐像は真間弘法寺に納められていると言います、、。

あの方が54歳、身延での手紙であることから、、絵像を信仰の対象としない、富士派などでは冨木氏が釈迦像を造立したこと、それを「あの方」が誉めていること、、に釈明しなければならないでしょう、、。

ここは素人の思いとして、、「御所領堂」の釈迦仏、、がポイントと思うのだ。

当時、御所領が天皇領だとすれば、、ここは公的な場所になる、、、公的な場所に、、未だ一宗一派である文字曼荼羅本尊を掲げることは、役人冨木氏の立場では出来ない、、。

「あの方」は「欲令衆生開仏知見(法華経方便品第二※)」と言われているので、、釈尊が皆さんの己心にある、仏の知見を開いてくれるのです。、と、、建立し供養する気持ちは通じるでしょう、、と、、言っている。(開示悟入※)。

佐渡以前から釈迦仏を保ち、法華経の教主釈尊、、更に「己心の一念三千の仏」と表現する「あの方」が、「よくやりました、、」と言ってもおかしくないのではないか、、。

「諸法実相」説といえば、なんでも容認されてしまうような誤解を生む、、絵像は本旨ではないが、法華経=釈尊なので、、絵像を方便として見れば、阿弥陀、観音像よりは、、まだましだ、、説をとりたい。

但し、、、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて、、、と開眼することを付け加えている、、。

※法華経方便品第二、(岩波書店 法華経 上 植木雅俊訳)
、、、シャーリプトラ(舎利仏)よ、私はまさに衆生を如来の知見に教化するものであり、、、如来の知見を開示するものであり、、、、如来の知見に入らせるものであり、、、如来の知見に目覚めさせるものであり、、如来の知見の道に入らせるものである、、。私はただ一つの乗り物(一乗)、すなわち衆生をブッダに至らしめる乗り物(仏乗)について衆生たちに法を説くのだ、、シャーリプトラよほかに第二、あるいは第三の乗り物が存在するのではない、、、

※絵像を信仰対象にしない理由としては、
あの方の佐渡での著作「如来滅後五五百歳始観心本尊鈔」が大きい。

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※初期仏教に仏像はない、、ギリシャ文明との融合で生まれた、、。

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ここからは、、さらなる妄想の世界になるが、、

六老僧の六名を、、、出身地で分けると
A班千葉県(房総上総地区):日昭、日朗、日向
B班静岡県(富士地区):日興、日持、日頂
、、、となります。

これを更に大胆に妄想すると
A班は母(梅千代)方の地縁、、現在の千葉県市川、松戸、鎌ケ谷市近辺か
B班は父(貫名次郎重忠)方の地縁、、現在の静岡県袋井市近辺か

また
佐渡流配との関連で分けると
A班の日昭、日朗は佐渡に流配されていない。日向は随行 日昭は鎌倉に天台法華宗を名乗るなど柔軟に対応
B班の日興、日持、日頂は佐渡に同行している。

また、、
A班:は日昭一族を中心にした日蓮を上行菩薩とする現実派
B班:は日興を中心にした日蓮を本有常住仏とする本門教条派

とも考えられる。

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弘安2年(1279年)9月21日、、、日興率いる富士地区で、、大きな事件が起こります、、。
今では「熱原の法難」と呼ばれています。

熱原の農民信徒20人が、院主の田に押し入って、稲を刈り取ったという無実の罪で逮捕され、鎌倉に連行されました。

農民信徒は侍所(さむらいどころ)の所司・平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)の私邸で厳しい取り調べを受けて、法華経の信心を捨てるよう、脅されました。

純真な信者である神四郎・弥五郎・弥六郎の3人の兄弟が処刑され、残る17人は居住する村から追放されました。

発端となったのは、、、、

当時、富士一帯は日興上人の折伏・弘教が進んでいた。
危機感を覚えた「天台宗」の院主代行智は、権力と手を結び種々の迫害を加えていく。
建治から弘安の初期にかけて、滝泉寺の僧の日秀、日弁、日禅などが相次いで日蓮門下に改宗した。
行智は、3人を寺から追放すると脅したが、3人の僧はかえって行智を破折した。
3人は追放され、日禅は生家の河合に帰郷したが、日秀(下野房)、日弁(越後房)、は熱原にどどまり弘教に努めた。

このころ、農民、神四郎、弥五郎、弥六郎などが純粋な信仰を貫く。
行智は、神四郎兄弟の長兄にあたる弥藤次入道が法華の信心に反対していたことを利用して抱き込み、地元の武士を味方にして弾圧の機会をうかがった。
そして、、、、事件は起こった。
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画像
古来より信仰の山であった富士山

弘安二年(1279)11月25日
冨木殿女房尼御前御書
日頂の母に「あの方」から手紙が届く、、、
「、、いよ房(伊予)は学生(がくしょう)に成りて候ぞ、常に法門聞かせ給候へ、、」
28歳になった日頂が、立派な宗学者になったのですから、仏教の教えをしっかり(息子から)お聴きなさい、、と言っている。
母親として、嬉しい言葉であったでしょう。

この手紙には、別段の含みがあったようです、、、。
熱原の法難で、危機に接している日弁(越後房)、日秀(下野房)を、「御所領の堂」に匿うように要請しています、、、。

後段に
「、、さてはえち(越)後房しもつけ(下野)房と申す僧を・いよどのにつけて候ぞ、しばらく・ふびんに・あたらせ給へと・とき(富木)殿には申させ給へ。」
、、とあります。

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素人の妄想ですが、、
あまりにも純粋過激になった、両名を、、日頂のもとに付けた、、背後にはバランス感覚を重視する、、鎌倉の日昭グループがあの方に提言した、、かと、、。

熱原での行智とのトラブルには、、房総から数名の支援者を送りだしている。
※この中に、大進房日行がいる、、下総出身で曽谷殿や冨木殿と縁戚との説もある、、比叡山修行の後に、、各地での法論で、その力量は優れていたという。熱原の支援に要請されて竜泉寺に向かったが、、幕府側に寝返り、、一般には裏切り者として扱われることになる。
詳しくは調査する。

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幕府権力から逃れてきた日弁、日秀を迎え入れた日頂の心は、、故郷の富士に向かいます、、、、。

つづく

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