六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー①

弘安5年(1282)9月、、、あの方は、9カ年を過ごした甲斐の国の身延を離れ、、故郷安房の国を目指していた。
体調はおもわしくない、、冬を前に地頭の波木井実長からの勧めで茨城常陸の湯に養生するための旅であった。

あの方を馬上に、一行は鎌倉街道から、、、多摩川に向かった、、多摩川河口から舟に乗る海路が負担が少ないと考えたのでしょう、、、
しかし、、武蔵の国千束郷池上(大田区)の池上宗仲の館に着くころには、、体力は限界に来ていた、、。
今回は身延から池上まで通常の3倍の時間がかかっていたのです。
一行は宗仲の館にとどまり「あの方」の快方を待つことにした、、、。

10月6日(旧歴)、、あの方は自ら死期を悟られて幾つかの遺言と遺志を伝えるため「本弟子」六名を指名しました。

日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の六名で「六老僧」と言います。

日昭は61歳、、日朗、日興は30代前半、、日向、日頂、日持は20代半ば(別途詳細)でした。

この六老僧を中心にした、多くの弟子の不惜身命の活躍によって、、「あの方」の思いは、、大きく広がるのです、、。
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池上宗仲の館跡と言われる本行寺
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石柱が建つ裏門 日蓮大聖人御入滅霊跡とある、、、この日は17時を過ぎてしまい寺内に入れなかった。
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南房にある日昭坐像案内(大田区教育委員会)

後継を託された弟子たち、、その六老僧のひとり伊予房と言われた「日頂上人」について、、、若き俊才は、、晩年静かな一生とも評されている、、

伊予房 日頂
誕生建長4年(1252) 富士重須城主の橘樹氏である伊予の守定時の長男ともいわれる。定時が戦死、母と弟(後の日澄)、妹(乙御前)と鎌倉に移る。
養子と出家(1260)千葉氏仕官冨木氏に母が再嫁ぎ(富木尼御前)、8歳で下総若宮に同行して養子となる。真間法印了性のもとで出家
佐渡(1271)20歳のとき日蓮流罪の佐渡へ冨木氏の命で給仕する
身延(1274)23歳 日蓮に同行して波木井郷の身延に入る
弘法寺(1275)初代貫主となり下総にて教線拡大
熱原法難(1279)富士熱原にて3人の兄弟が処刑、残る17人は追放、救援活動
身延往復(1280)鵞目一結供養、鵞目とは穴銅銭を一結び千枚冨木殿の供養
本弟子(1282)日蓮入滅 本弟子六老僧に指名
墓所番(1283)「墓所守番帳事」により墓番は4月が担当となる
良実状ご返事(1291)弘法寺を拠点に活躍、幕府に申し状「法華一条の教え」
を提出、批判する良実(よしざね)に対し公場対決を申し入れる
冨木常忍との絶縁(1294)あの方の3回忌法要(1984)に鎌倉の折伏が長引いて遅刻したとされることが原因とされ、義父と絶縁となる。
重須談所(1294)弘法寺を去り、日興のいる重須談所に入る
本尊付属()実弟の日澄に日蓮真筆曼荼羅を付属する
正林寺(1317)3月8日重須にて入滅 六六歳 墓は北山本門寺

、、、なにがあったのだろうか?

調査と妄想を進めたい、、と思った。
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日頂が初代貫主として活動した弘法寺(市川市真間)
2017.08.05

つづく

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