JR総武線下総中山駅と西船橋駅の中間にある地名「二子(船橋市)」であるが、、、かっては、「市川砂州」と呼ばれる低湿地帯に面していたらしい、、、そして海岸線は、この場所まできていたのだ、、この「二子浦」から千葉氏被官の冨木常忍の館までは、現在残る「二子の池」伝説を頼りにすれば1200mである。
※富木氏は下総守護の事務吏僚で、千葉氏の財産関係や訴訟・家政関係などを取り扱っていたといいます。(川添昭二「御遺文から見る日本中世史」『中央教学研修会講義録』第一四号)。日常の事務を処理する事務官のような立場で、下総守護職の守護所(役所)は八幡庄、市川市にあったといいます。あるいは、国府のあった国府台あたりといいます。(中尾尭文『日蓮』六〇頁)。これ以前は国分寺にありました。この八幡庄の守護所に被官として出仕していたのが富木氏であり、問注所の役人として出仕していたのが、太田乗明だったのです。(高橋俊隆)
通常の勤務は「国府台」とすると富木常任の自宅からは徒歩で約1時間20分、5.6Kmである。その通勤途中付近には同じく門人となった曽谷殿の館跡と言われる安国寺がある。
冨木常忍と「あの方」の父貫名次郎重忠は、今で言う土地登記に携わる行政書士のような仕事に従事していたという説もあるので知人同士であったのか、、
「あの方}は父の紹介で冨木常忍を尋ねたのかも知れない。
冨木常忍が鎌倉へ通勤するには、当時は水路である、、
冨木常忍は通勤用マイカーならぬマイシップで、ここ「二子浦」から現在の金沢百景六浦、、そこから鎌倉に向かったといわれる、、、。
「あの方」は、冨木常忍の通勤用マイカーならぬマイシップに乗船し、鎌倉に向かった。
勝手に妄想すれば、、、湿地帯の中を大型船で進むことはできない、、おそらく「二子」から冨木常忍の持つ小舟に乗って湿地帯を進み、、やがて浦安湾から帆船に乗り換えて、、六浦に向かい、、、
金沢百景の六浦からは国道23号線に沿って「朝比奈の切り通し」を超え、、、鎌倉の名越の松葉ケ谷を通り、、小町大路(こまちおおじ)出たのではないか、、、
<追載<江戸時代の行徳:芭蕉の句にも見られる船着き場だ>>
鎌倉小町大路は、、、幕府御家人、有力御家人が住む、、高級住宅街から繁華街が連なる鎌倉の山の手の生活道路なので、通勤はこのあたりまで来たのかもしれない、、この通りに「千葉氏」の千葉常胤(つねたね)の孫の胤貞(たねさだ)の別邸跡に建った「妙隆寺」がある、、、近くには、「あの方」の辻説法の伝説の地もある。
六浦から鎌倉までは、ハイキングコースもあるので、行ってみるか、、、と思い横浜市金沢区の金沢文庫、、金沢百景駅に向かった、、
自宅からは京浜急行線を利用すると金沢文庫まで1時間半で到着する。
当時の水路では、、どの程度の時間を要したのだろうか、、。
<釣り舟が多い六浦>
■金沢文庫 Wiki
金沢流北条氏が領し、のちに館や菩提寺である称名寺を建立して本拠地として開発し、家名の由来となった地である武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷に所在したことが名称の由来である。
成立時期は定かではないが、実時が晩年に金沢館で過ごした建治元年(1275年)ごろではないかと言われる[2]。北条実時は明経道の清原氏に漢籍訓読を学ぶ一方で嫡系の北条政村の影響で王朝文化にも親しんでいた文化人で、実時は鎌倉を中心に金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、収集した和漢の書を保管する書庫を金沢郷に創設。
文庫は実時の蔵書を母体に拡充され、金沢貞顕が六波羅探題に任じられ京都へ赴任すると、公家社会と接する必要もあり収集する文献の分野も広がり、貞顕は自らも写本を作成し「善本」の収集に努めた。
また、貞顕は菩提寺の称名寺を修造しているが、貞顕が文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書が残り、また貞時を金沢文庫創建者とする文書も見られることから、貞顕が文庫の再建を行っている可能性も指摘される。金沢氏を含め北条氏の滅亡後は、称名寺が管理を引き継いだ[2]が、当時の建築物は現存せず、発掘調査と当時の記録からその位置が推定されている。室町時代には上杉憲実が再興している。
北条氏の滅亡後、文庫は衰退し、蔵書も多くが後北条氏、徳川家康、前田綱紀らによって持ち出された。明治になって、伊藤博文らの尽力により文庫が復興され、旧蔵書の回収も進められた[3]。
現在は「神奈川県立金沢文庫」の名称で県立の中世歴史博物館となっており、称名寺所有の国宝、重要文化財を含む資料を保管、展示している。
<実は、趣としては称名寺側の入り口がよい>
<今は公園の称名寺 銀杏が綺麗でした>
山門の茶屋で食事 寒いので熱燗を
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■朝比奈の切り通し Wiki
『吾妻鏡』は、1241年(仁治2年)4月から鎌倉幕府執権、北条泰時が命により作らせたと伝え、建長2年(1250年)6月には補修工事がおこなわれた[1]。、、
水運で房総半島などとつながる鎌倉と六浦津(湊)間の重要な交通路として執権泰時自ら工事を行い、土石を運び着工に寄与したという
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金沢文庫駅から商店街を楽しみながら、、文庫とは反対方向へ向かった、、、のが、、いけなかった。
方向感覚を失い、、気が付けば10分ほどで着く筈の文庫から反対方向へ15分、、ぐるりと回って、、結果30分掛けて到着、、
金沢文庫では、、現在「忍性菩薩生誕800年」特別展を開催中であった、、
なんと、、「あの方」を迫害するため幕府と結託した、、あの真言律宗「極楽寺の良観」のことか、、
■忍性「極楽寺良観」 Wiki
忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継いでいる。
聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事に、深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。
また、鎌倉初期以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識されており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。忍性はここに石の鳥居を築造しこれらの人々を真言の利益にあずからせようとしたのだろう。
師の叡尊は民衆への布教を唱えながら、自分には不得手であることを自覚して当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念し、その役割を忍性に託した。
忍性は非人救済のみでは、それが却って差別を助長しかねないと考えて非人を含めた全ての階層への救済に尽力した。
その結果、叡尊と忍性の間に齟齬を来たし、叡尊は忍性が布教に力を入れすぎて学業が疎かになっている(「良観房ハ慈悲ガ過ギタ」(『聴聞集』))と苦言も呈している。真言律宗が真言宗とも律宗とも一線を画していくことになるのには、忍性の役割が大きいと言われている。
『性公大徳譜』によると忍性が生涯で草創した伽藍83ヶ所(三村寺・多宝寺・極楽寺・称名寺など)、供養した堂154ヶ所、結界した寺院79ヶ所、建立した塔婆20基、供養した塔婆25基、書写させた一切経14蔵、図絵した地蔵菩薩1355図、中国から取り寄せた律三大部186組、僧尼に与えた戒本3360巻、非人(ハンセン氏病患者など)に与えた衣服33000領、架橋した橋189所、修築した道71所、掘った井戸33所、築造した浴室・病屋・非人所5所にのぼるとされている。
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つまり、、当時の「厚生労働省」的な役割を一手に担い、、、更には架橋、道路建設、土木などの「国土交通省」的な仕事を、、国家権力と一体化しての、、時の、幕府の役人 平の佐衛門(平頼綱)らと結託して、大掛かりに事業を起こしている、、国家の中枢として、巨大な権勢を誇っていたのが「極楽寺良観」忍性だ、、、、
そんな中枢鎌倉に、、青年僧の「あの方」は、、天台法華沙門として乗り込んでいった、、。
※そこは純粋に宗教的対決と見るほど生易しくはないのだ、、、
千葉氏の支援もあったであろうから、そこには、、役人 平の佐衛門と御家人達の権力闘争の影がみえるではないか?、、
相手は国家権力と一体化した大御所である、、、
房総東葛人の立場からすると、、、、良観は、、忠臣蔵の、「高家旗本の吉良上野介(きらこうずけのすけ)」、、みたいな存在なのだ、、、
この良観との法論にも、、「雨乞い」の密の戦いにも「あの方」は勝利して見せた、、が、、やがて、、あの方への迫害が始ります、、、、。
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■船中問答
さて、、二子浦から船で六浦に向かう船中で富木氏は「あの方」に仏法について
問答を始めた、、、しかし、船中でも終わらず、、六浦の富木氏の祈願所でもあった真言宗の金勝寺に一泊留まり問答を続けて、、結果、、冨木常忍は「あの方」に師事します。この時の住持の普識法印とも語りあい、法印は真言宗から日蓮宗に改宗しました。現在は上行寺という。
このほかにも近くに、、船中問答を縁起とする「安立寺」があり、立ち寄りました。
金沢文庫から金沢百景駅へ、、そこから15分程で上行寺に着く、、
ここらで、、すっかり疲れてしまい、、本日は帰路に着くことにする。
金沢百景島シーパラダイスに繋がる、、シーサイドライン金沢百景駅から電車に乗って、、、横浜まで向かうことにした。
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※追記
出家時の法名は、是生房か是性房か是聖房蓮長か?
素人的には是生房蓮長が判りやすいのだが、、あの方が書写した『授決円多羅義集唐決』が、この金沢文庫に国宝として所蔵されたことから、、、
出家時の法名は「是聖房蓮長」が有力である、、
その写真をみると、、、
つまり、、、ここでは聖の文字と生の文字を比べれば判断されます。
この古書が真筆で、、学者が判断したのですから、、ほぼほぼ間違いない、、
素人だと同じにみえるようでもある。まさか、17歳のご本人が意識して判別しずらい書にしたわけでも無いでしょうから、、。
「嘉禎四年大才戊戌十四
十一月十四日
阿房国東北御庄清澄山道善房
東面執筆是聖房生年十七歳
後見人々是無非謗」
あの方は嘉禎三年(1237年)10月8日。清澄寺の衆僧が参集のもとに、道善房を戒師として浄顕房・義浄房に付き添われて得度しました。虚空蔵菩薩の加被と日蓮聖人の修行と修学の努力が実り、16歳の歳に正式に出家となりました。道善房より是(聖)房蓮長と法名をいただきました。
国宝
17歳の11月14日に、清澄寺の住房である道善之房の持仏堂にて『授決円多羅義集唐決』を書写されました。金沢文庫に所蔵されているこの書籍は天台の本覚思想初期のもので、中古天台の密教解説書として智証大師円珍に仮託した秘書です。この奥書に
「嘉禎四年太歳戊戍十一月十四日、阿房国東北御庄清澄山、道善房東面執筆是聖房、生年十七歳、後見人々是無非謗」(2875頁)
2018.07.05
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