じーさん徘徊 川越 星野山 無量寿寺(天台宗別格本山 中院)その1

自宅から1時間半、、、最近は人気の観光地となった「川越」に行く、、、
すごい、、人気の「蔵通り」「お菓子横町」は足の踏み場も無いほどの人ごみ、、、
外国人も多い、、
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30年ほど前になるが、、、サラリーマン時代、、地元埼玉県では有力な地場企業のS事務機という会社さんと一緒にセールス活動をしていた。
S事務機は、コンピューターから文具まで扱う会社で、コンピュータ専門学校も運営していた有力企業だ、、、秩父出身のS川越支店長は、専務で根っからの商売人、、いろいろ勉強させて頂いた、、。

担当になってまもなく、、O信用金庫さんから、全店にある商品を納品することになった。S支店長は上機嫌で、、お礼ということで、私を1週間毎日、、夜間接待してくれた、、。怪しげな田んぼの中のスナックから大宮市内の高級料亭の離れまで、、車ではカラオケを歌いながら、、セールスの持論を聴かせてくれたもんだ、、。その専務も、、今はいない、、。その川越に久しぶりに出かけた、、、。
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おみやげやで案内地図をもらった、、、今回の訪問目的は、有名な「喜多院」の近くにある「中院」であるが、、観光拠点の印は無い、、、

そもそも、、「喜多院」は、、、かって「北院」と呼ばれていた場所だ、、。

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平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、伏見天皇が「尊海僧正」に命じ関東天台宗の本山とした。後伏見天皇は東国580寺の本山としての勅書を下し、後奈良天皇は星野山の勅額を下した。永禄年間(1558年 – 1570年)頃までは3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、、、、、

慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった「天海僧正」が第27世住職として入寺し、寺号を「喜多院」と改めた。川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。

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平安時代に、、第3代天台座主の円仁(慈覚大師)によって開山したものである。

※円仁
入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。

つまり星野山 無量寿寺は、江戸時代に、、

北院–>喜多院
中院–>仙波東照宮
—>現在地に移転
南院—>明治時代に廃寺
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<南院は、空き地のようなスペースに>
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<やや寂しい、、仙波東照宮>

寺院の中核であった「中院」は、静岡県の久能山に葬られていた家康の遺骸を日光に動かすときに一時川越の喜多院薬師堂に滞留し、天海僧上が導師となり、4日間法要した、更に家康公の像を彫り、それを祭って仙波東照宮造営した、、そのため、中院は200m横に移転することになった。
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<ここが山門か、、な、、>
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<すぐ横に、、さらに立派な山門が、、、>

門前には、、、2柱の石碑が、、、ある。
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左側にあるのは、「日蓮聖人伝法灌頂之寺の碑」とある。

※伝法灌頂
伝法灌頂(でんぼうかんじょう)とは、阿闍梨という指導者の位を授ける儀式である。真言宗では、伝法灌頂を受け阿闍梨位を得て、はじめて正式な僧侶と認められる[1][2]。

「あの方」は、建長5年(1253)清澄寺で立宗宣言の頃、ここ川越で当時の「関東天台宗開祖の尊海僧正」から「恵心流」の伝法灌頂を受けたということが伝わる、、、。

ただ、、

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