暑いので、、幾つかの予定をキャンセルして、、、上越に向かう、、、
上越インターから20分、、、春日山(春日城跡)は上杉謙信の居城、、、
次のユーザーに行く前に立ち寄ることとなった。
標高189m。北に越後府中こと直江津と日本海を望み、南に高田城下を望む山である。高田平野を一望できる位置にある。
※思っていたより低い山だが、自然を利用した城砦としては条件が理想的なのでしょう。
戦国時代には、春日山頂に、後に上杉謙信の本拠地となる春日山城が築かれ、北陸地方屈指の城砦として名を馳せた。
なお、春日山城は、別名を鉢ヶ峰城ともいう。—–Wiki—–
時は戦国時代、、、
越後の守護代であった長尾為景と後妻の虎御膳とに生まれた「寅千代」は、、7歳の時に城下にある林泉寺(曹洞宗(そうとうしゅう);禅宗)に預けられる、、父為景が世を去り、、寺を出て、、1545(天文十四年)14歳で兄晴景の命により武将として栃尾城に入った時は、、、名を、「長尾景虎」とした、、、後の「上杉謙信」である。
下剋上の時代だ、、、父為景が天下り守護大名の上杉房能を自刃させ、、実権を握った、、ところが、、今度は「上杉房能」の兄の関東官領の「上杉顕定」から、、弟のカタキとして、、攻め込まれ、、父は敗北して佐渡に逃れる、、が、、再び、地元親族豪族の支援を得て、、復活するなど、、この時代の戦乱はつづく、、、
その後、、新たに戦国大名として成りあがった「北条氏康」が関東を攻め上がると、、群馬にいた関東官領の上杉家の後継者「上杉憲政」は、、止むなく越後に亡命してくる、、、兄の跡を継いで領主となっていた景虎は上杉の亡命を快く受け入れ、、その後に小田原城攻めをも行った、、、勇将長尾景虎に、、上杉憲政は上杉の氏跡を景虎に譲ると言う、、ここから「長尾景虎」は、、「上杉政虎」となり関東官領「上杉」を名乗ることになったのである。、、、政虎の政は憲政の政である。
更に謙信は、、室町幕府の将軍・足利義輝に期待され、、偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には「上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)」と名乗った。
元亀元年(1570年)12月には法号「不識庵謙信」を称した。
有名な五度に渡る川中島の合戦、、.第四次合戦:永禄4年(1561年)などに
勢力を注ぎ、、、、
越中、、能登攻め、、関東攻めと戦乱が続く中で、、、
天正6年3月13日(1578年4月19日)春日山にて脳卒中にて死去する、、、享年49歳。
<NHK大河ドラマ、石坂浩二の謙信>
信玄が往き、、謙信も往った、、、、永禄11年(1568年)9月、、、、天下布武をもって進む織田信長は将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した、、、。
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■謙信女性説
上杉謙信が女性であったという説がある、、、
主な理由が
①寅年生まれで自ら毘沙門天の生まれ変わり、といい旗が「毘」でもあるが、毘沙門天が女神と言う説がある。
②定期的に腹痛に悩んだが「大虫」と言われる。大虫とは月経の隠語でもある
③信長から源氏物語絵の屏風を贈られている。源氏物語は女性が喜ぶ題材。
⑥スペインのゴンザレスの報告に、佐渡の金山について
「アイド(会津)のウエスゲ(上杉)はそのTIA(おば)の開発したサドの純金を沢山もっている」(「会津の上杉はその叔母(tia)が佐渡を開発して得た黄金をたくさん持っている)とあったという。この「叔母」は謙信のことであるとしている[3]。
⑦この時代に結婚をせず、子供も作らなかったのはおかしい。
らしい、、、、しかし、、
①の毘沙門天は梵名: ヴァイシュラヴァナの音写であろうし、ヒンズーの天部神で仏教では持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされる。女神というのはどうか?
聖徳太子が、朝敵物部守屋を討伐しようとこの山に来て、戦勝の祈願をすると、天空遙かに毘沙門天が出現して、必勝の秘法を授けてくれた。
その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻であった。
謙信は寅年生まれで、、幼名は虎千代として春日山城に生まれる。
このことから、、幼少時に林泉寺で教育をうけ仏教も学んでおり、、聖徳太子の故事から毘沙門天を名乗ったものと思われるが、、。
②大虫で毎月定期的に休んだという説があるが、、定期的な活動停止は信仰上のことと言われている。
※素人の直観としては、、、謙信は痔持ちか、直腸ガンかと考えている。酒豪と言われている、、大中という出血、、厳寒の新潟、、厠で脳卒中で亡くなっている、、など考えると、、だ、、。
⑥佐渡は、、天正17年(1589年)に上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝により本間氏が滅ぼされ佐渡は上杉領となる。ので謙信の時代は、、まだ、本間領地であるので、時代が合わないので間違いと思われる。
⑦謙信愛用の兜は「飯綱権現」で神道と仏教の習合であり、女性を近づけないことが要求される、、が、、もともと謙信は14歳まで寺に居たので女人禁制の意識がある。
謙信は高野山に登っているが高野山は「女人禁制」であったので女人説は正しくない。
女ゼロ、子供ゼロについて、、ホモセクシャルであれば、その記録が残っているはずだが、、ない。信長などで知られるバイセクシャルが恥じで無かった時代である。
等が、、、反論。
■政権放棄事件
「もう、、、やってられんわー」、、、とばかり単身で出走してしまうのだ。
謙信27歳の時、、京への上洛も終え、、謙信は国主として盤石な体制を築いていた、、、だが、、、突然、、「もう国主はやめて、、坊主になる」と言いだして一人で高野山に向かってしまう、、、それ以前にも上洛の際に高野山や、、京の大徳寺にも訪ねて「宗心」という法号までもらっていたが、、、なんで、、。
謙信は思う、、わしがが頑張って、この国をここまで安定に持ってきた、、なのに、欲の突っ張った仲間達の争いは絶えず、、、なんで、これらの仲裁を毎日毎日やらなくてはいかんのだ、、
仏教では執着を絶つことが、仏界に入る修業でもある、、。地位や金銭欲や異性に執着することで苦しむ、、捨て去れば道は開ける、、、
なのに、、国内の土地争いは絶えない、、僅かの土地で激しい争いが起きる、、
今年は豊作なのに、、かえって争いは増すばかりで絶えない、、、
武士が開拓農民であり、農場経営者であること、、土地を一所懸命守ろうとするのは判る、、、が、、仏門経験者の謙信にしてみれば、、、耐えられない現状だ、、、
「もう、、、やってられんわー」、、、とばかり単身で出走してしまうのだ、、、。
師でもある林泉寺禅僧の天室光育にあてに書置きがある、、
「、、、、”功なり名を挙げて身退く、、”の心境になりました、、引退して遠くに行きたいのです、、」
驚いた家臣は、、必死に説得に当たる、、謙信の姉婿(義兄)長尾政景を選び、、、説得にあたる、、政景は一度は政権を狙った人物でもある、、が、、今の謙信の力には及ばない、、今はあんたじゃアなきゃだめでしょ、、ちょっと無責任でしょ、、この国はどうなるのよ、、、頼むから戻ってくれ、、、結果、、
なんとか説得に成功した。
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さあ、、、今日中に、、つぎのユーザーさんに向かうぞ、、、
シルバー一行は、、ここ上越市で墓苑を計画中の、、、寺に向かった。
———-つづく———-
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