身池討論(1630)国家権力との迎合

1カ月まえになるが、、、
紅葉真っ盛りな、、松戸市平賀の本土寺に行ってきた。
本土寺の紅葉観賞は2回目であるが、前回は門前の漬物屋と白いお洒落なcafeでお茶をしたことしか記憶に無かったので、、今回は深入りする、、、。
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平賀の本土寺は、千葉氏の家臣で大野の曽谷教信(曽谷法蓮日礼)が地蔵堂を改宗して法華堂としたものである。
日朗の名代として弟子の日伝が建治3年正月に開山した、、と言われています。

このころ「あの方」は身延」におり、、日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の後の「六老僧」となる壮年日昭と青年僧達は、教線拡大に奔走している。
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時は移り、、、、室町から戦国時代、、信長、、秀吉、、そしてようやく、戦乱の世は徳川家康によって平定した、、、。

徳川幕府は、宗教政策において、慶長18年(1613年)にバテレン追放令を公布する等の外にも、国内宗派にたいして、一向宗対策では東本願寺(真宗大谷派)に資金援助して分裂策をとり宗勢を安定させる策をとる、また日蓮宗に対しては、、、対立する「授布施派」と「不授不施派」の対立に対して司法介入により、、世間法に従わない「不授布施派」を、、国家権力と協調する「身延派」の支配下に治めて、宗勢の安定を図り、幕府としての秩序維持を図った。

■東山大仏出仕問題
日蓮宗には祖師時代より、法華経を信仰しない信者以外の者から、布施供養を受けない、他宗の僧侶にも供養を施さない、、という「不受不施」の義(法制)があった。
文禄四年(1595)秀吉が京都東山に大仏を建立し、その供養のため諸宗から千人の僧侶を招く千僧供養会を催した。、、、奈良の大仏法要の国際的なイベントと比べると、やや小規模だが大きなイベントだ、、京都の日蓮宗は天下人の意向に逆らうのを避けて出仕した。

この時、妙覚寺の日奥は、国主と言えども未信者の法会に出仕して供養を受ける訳にはいかない。不受不施の法義に反する、、として、、一人不出仕を主張し、宗内対立、、曲げなかった。
慶長四年、、国主の命に応じなかったとして、、日奥は対馬に流罪となった。日奥が免罪となったのは13年後である。

■寛永の不受不施論争

慶長17年(1612)日奥が赦免され京都妙覚寺に帰山する。
再び、、妙覚寺の日奥が、身延山の日幹を糾弾して、論争が始まる。
このとき、、池上本門寺の日樹や関東寺院の多くは伝統的な不授不施義に立ち、、平賀の本土寺も日奥支持についた、、。

寛永二年(1625)、、、徳川秀忠夫人浅井氏の葬儀の際に、、諷吟のみで供養を受けなかった池上本門寺の所寺は、一人供養を受けた身延の日深を難じた、、。
これを機に国主供養の授・不受の論争が発展して、、宗門は大きく二分されることとなった。

■身池討論(しんちたいろん)

身池は「身延派」と「池上派」を指します。
寛永七年(1630)この事態に幕府は、双方の代表を江戸城に召喚して討論を行わせることにした。(身池討論)

<身延側>:身延久遠寺日幹、日遠、当住日暹(せん)、茂原妙光寺日東、玉沢妙法寺日遵(じゅん)、貞松蓮永寺日長の6名

<池上側>;池上本門寺日樹、中山法華経寺隠居日賢、平賀本土寺日弘、小西檀林能化日領、碑文谷法華寺日進、中村檀林能化日充の6名

議論の内容とは関係なく、、家康の裁定であった日奥の処罰を判例に基づき、、不受不施派は、、邪義である、、と裁定された。

日樹は伊奈へ、、日賢は横須賀、日弘は戸田、日領は佐渡にち中村、日充は岩城平、日充は上田に流罪となった。

そして、、、京都妙覚寺と池上本門寺は、、身延山の支配下となり、、日幹と日遠が住持となった。
平賀の本土寺の日弘は伊豆戸田村に流罪となり、、同地の蓮華寺内(池上本門寺派)に小庵を建て住し、やがて、、戸田村に本土山長谷寺を建立して慶安2年8月68歳で寂す。

平賀の本土寺は、、身延の直接支配下にはならなかったが、池上本門寺が身延の門下に帰したので池上とは断絶した。

一方の身延派は、幕府の権威を背景に、不受不施派の取り締まりに臨んだ、、。
繰り返し、、不受不施派の退治のために訴訟を起こしたとされる、、。

■朱印地改めの事件
寛永五年(1665)「このたび、御朱印状をもって安堵される寺院は徳川家からの供養として頂戴します」
今般御朱印頂戴仕り候儀御供養と奉存候、不受不施の意得とは格別に御座候
という、、手形(誓約書)の提出を要求されるに至る。

この手形を発行することは、未信者から供養を受けたことを公表することになる。
いわゆる、、、踏み絵、、である。
不受不施派の棟梁と言われた平賀の日述と賛同寺院は、、決断する。

日述:
「若し御供養と存じ奉る手形を仕り候えば、只今件の義理に違い喪薄のみならず、後代の嘲りを残し申す所、迷惑千万に存じ候故、辞退申し上げ候」

流罪は免れない、、、。

一方、小湊誕生寺日明、上総妙覚寺日暁、谷中感応寺日純、らは、御朱印地は不施供養では無く、、慈悲供養(悲田供養)として受けるという文面を出して受理された。
、、知恵というべきか、、苦肉の策というべきか、、ずるいと言うべきか、、狡猾というべきか、、さすが、、というべきか、、、。

※その依所は
中に於いて帰依不帰依の別有り。
帰依の僧に備うる所の寺領は信施、不帰依の僧に賜う所の田園はこれ仁恩なり。

寛永五年12月3日()手形拒否の寺は流罪となる。
平賀本土寺日述、大野の法蓮寺日完は伊予吉田の伊達宗純の預かり、、
上総妙覚寺日堯、武蔵雑司ヶ谷法明寺日了は讃岐丸亀の京極高豊の預かりとなり、、本土寺と手形拒否の寺は、、身延山の支配下とされた。

その後、幕府は不授布施派の寺受を禁止、、公民権を奪取。
寛永9年には、不受不施派は禁制の宗旨となったのである。
不受不施派は、、、、地下に潜ることになる。

不受不施派が復活するのは、、、明治9年と言われる、、、。

参考
本土寺物語 河上順光著——

義理を取るべきか、、世間法を取るべきか、、、
その後の、、運命を決する事態は、、いつの世も変わらない
清く玉砕するのか、、、生きて後世に繋ぐのか、、、
現実には、、勝ち残り拡大進化したのは、幕府や世間法に迎合した身延派だ、、、
選択は、、どちらとも言えない、、、が、、、

どちらかと言えば、、「あの方」自身が示した「数数見擯出(さくさくけんひんずい)の精神」はこの宗派の心いきでもある。

法華経『勧持品』二十行の偈に説かれた、「数々見擯出さくさくけんひんずい」の経文を正しく身読することができる喜びとまで言われるのです。

法華経勧持品(かんじほん)に登場する三種類の敵。

俗衆増上慢 悪口雑言を浴びせたり、刀杖で迫害する無知の一般大衆。
道門増上慢 邪智で慢心を抱き迫害する僧侶。
僣聖増上慢 表面は聖者のように装うが内面は利欲の高僧。権力で迫害する。

法華経の行者は、この増上慢から数数の迫害を受けると勧持品には書かれる。
この難を受けることは、法華経の行者の証しとまで、、言うのです。

さて、、、国家権力や世間法との付き合い方、、、殉教派と、、現実派、、おそらく若者の殉教にたいして老人は現実派でしょう、、、自己陶酔して何になる「おぬし、まだ、まだ、青いわ」、、などと言わせるのでしょうね、、。殉教派からは、精神の死とか言われるのでしょうね、、、。

※身延
「国主の供養を受けるのは謗法だと言うが、、「現実」には、貴方がたは国の所領に伽藍を建て灯燭を掲ぐ営みではないのか、、、これでは、言うことと実体が違うではないのか、これは道理に合わないのです。

それ国君、州主、令長等、田園を沙門に施し、郡郷を寺院に寄せる所以は、無上の正法を護持して、四海安寧の懇祈を致し、戒定慧を修し、良福田と為る故なり。
宝梁経にいわく、もし梵行に非ざるを梵行と言い、破戒を持戒と言う。
、、、、

何を以ての故に、過去の大王、この地を持して、持戒の比丘に施す。
有徳の人中に於いて道を行ず。

※池上
「そもそも、祖師日蓮聖人は国恩、仏恩に報いるために、、妙法を広め、、立宗したのです。
そして、法華経の示すところによって、不受不施の法制を立ててから3百年以上も続けて来たのだ、、しかし、最近になって身延は誤った解釈をして、他宗の供養を受けるなどと勝手に法理を破っている、、、これでは、祖師の教えを無視することになるではないか、、」

「そもそも、、世法と仏法と、仁恩と供養と、帰依と不帰依と混乱しているではないか、、、、」
「国主に逆らうのではない、、たしかに政道の仁恩によって宗旨は伝弘し存続する、、しかし、、正法によってこそ、国家の過ちをも誡めて平和な社会を築き、王臣の長寿をもかなうのである、、」

池上本門寺住持日樹謹んで言上す
特に御政道の仁恩を蒙り、仏法を久住せしめ、欽んで正付属の金言を仰ぎ、天長地久の懇祈を致さんと欲するの状。
それ祖師日蓮聖人生をこの土に受け、世間の家を出でて釈門に入りしよりこのかた、国恩、仏恩を報ぜんが為妙法を弘通し、しばしば大小の難艱を凌ぎ、一宗を建立す。

法華の真文に依って、供施を外宗の僧に止む。
既に他宗に施さずして何ぞ他宗の施を受けんや。
不受不施の法制を立つこと殆ど三百余年に及びて、一宗の諸門徒、更に異義無き者なり。
然るにこの頃身延先住日乾誤って新義を立てて、他宗の供養を受くることを許し、欲しいままに宗旨の法理を破す。
一宗の学士その昔未だ聞かざる所、かつて未だ見ざる所なり。
吾が祖の明文猶雲霧に蔽わるるが如し。
蓮師の章玉塵土に埋もるに似たり。
最円極の妙宗、物を益すること無く、却って衆生をして謗法の業因を結ばしむ。
深く諸人をして未来の苦果を招かしむ、、、
、、、、
世法と仏法と、仁恩と供養と、帰依と不帰依と混乱す、甚だ以て謬なり
、、、

詳しくは↓

萬代亀鏡録
身池対論記録・前

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