北越の旅-その2  東の廊 (金沢市 ひがし茶屋街)

、、、、当時、、福屋には芸者(げいしゃ)六人と娼妓(しょうぎ)一人がいた。娼妓を一人置かないと営業許可がおりなかったのである。
他に十歳前後の”たあぼ”と呼ばれる仕込みっこ(見習い)が三人いたし、お夏ま、と呼ばれた”ばんば”と、もう一人”べえべ”が一人住みこんでいた。
男集も一人いた。
”たあぼ”は、行儀見習いと諸芸習得のかたわら、日中は走り使いの雑用、夕方からは芸者衆の座敷勤めに三味線をもって供をし、供先の置屋とか料亭では、家族用玄関の片隅で芸者衆の座敷終わりを待つ。
”ばんば”は、年寄りが多く、飯炊き、賄いが主な仕事で、、、終生置き屋で果てるような身寄りのない婆さんである。
廊では、この他に”やりてばば”と呼ばれる婆さんもいたが、芸者や娼妓のとりしまり、客との間のとりもちをした女で、芸者達にも稼ぎを増やすためさまざまな知恵つけをした。

”べえべ”は女中のことである。ねえや、と呼ばれた下働きの女で、賄い全般、掃除洗濯、女将の身のまわりの雑事をした。年齢は十代から四十代と幅広い、、。

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江戸時代から金沢には多くの遊郭が整備された、、「主計町」「西郭」「東郭」「北郭」「愛宕」「石坂」等の遊郭があり、、、「ひがし茶屋街」は、かっての「東廊」で、、江戸、明治、大正時代と、、大繁盛した、、
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明治三十六年、、日露戦争がはじまった。
金沢の街は、軍都でもある。明治四年の廃藩置県後、兵部省の用地となった金沢城跡は陸軍の営所となり、歩兵七連隊が置かれた、、
明治38年の正月、難攻不落といわれた旅順降落の公報がが入り、正午を期して祝いの「全市場」が行われた。寺や学校の、あらゆる鐘や太鼓を打ち鳴らして、天皇陛下万歳、帝国陸海軍万歳を三唱したのだ。
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金沢に初めてロシア兵の俘虜が収容されたのは、明治38年3月26日である。、、、第一回の俘虜およそ700人が到着し、駅から徒歩5分の、浄土真宗である金沢東別院に収容された。続いて、3月31日までに、、、その収容数は将校37人、兵、下士官3885人となった。

旅順の俘虜は、、、持ち金も豊かだった。、、、降伏ときめたとき、、、全員に分配したためと言われている。彼らは、、、、、豪遊した。、、頻繁に出入りしたのは、尾張町の森八洋食店、、森八菓子店が、、土蔵を改造して洋風菓子を並べ、、高級洋食店を開いた。ロシア語が話せる、、女を雇い入れたりもした。

※森八のお菓子は、今でも金沢土産では人気が高い、、、今回の旅行の土産にも、、中田屋のキンツバと共に森八のお菓子は欠かせなかった。

「ゆんべもお座敷にいったさな、露助がおってね、おとろしこちゃったわ」

「はやけど、わりあいと、おとなしがいね」

「ほりゃ、いいがに日本語をしゃべれんさけやわ。そのうちに事件でもおこらにゃいいけどか、、、」

「かわいそげに新地の人ら。あの人らの相手をせなならんやて。あないに大き体の人のもんな、どんなあんばいやろか、、、」

「ばっかい出来るやろかねえ、、、」

中の一人が、、声を低めて言ったのだ。
「知ってさるけエ、、、たんだ今、角に、下洗いの建物がまたひとつふえたがを。露助らが長い列しておってね、、気色の悪いこっちゃがね」

、、、兵部省からの通達に、、置き屋の女将たちの悩みはおおきかった。
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<井上 雪 廓のおんな より>
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シルバー四人組の旅行2日目は、、、金沢に入り、、近江町市場、、東山茶屋、、兼六園、、金沢城、、を観光して、、、輪島に向かった。
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<金沢 近江市場は御徒町のような風情で、、観光客と地元の人、が入り混じる活気のある場所だ>
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<兼六園は定番のスポット霞が池にて>
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<観光案内の写真はさすが美しい>
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<瓢池(ひさごいけ)の県文化財の夕顔亭の別亭の水亭で昼食ができたのはラッキー、、>

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