じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑧ 材木座(zaimokuza) 浜土流 実相寺

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<鎌倉材木座海岸の海の家でビール>

鎌倉の材木座海岸、、、、、

名称は鎌倉時代に鎌倉七座(米座、相物座、博労座、炭座、材木座、絹座、千朶積座)という商工組合があり、これに由来する。(Wikipedia)
1953年に、鶴岡八幡宮の一の鳥居と海岸の間の、滑川の東岸にあった「材木座遺跡」を発掘調査した際に、約650体の人骨と、大量の馬や犬の骨が出土した[1][2]。

鎌倉時代末期の14世紀前半に形成された遺跡と考えられ、調査にあたった鈴木尚は、人骨に残された殺傷痕から、新田義貞の鎌倉攻めによる戦死者であると推定した。(Wikipedia)
、、、墓地であったらしい。

ここより、、逗子側は逗子マリーナのホテルが見えるし、、滑川から江の島よりの油井ガ浜には多くの海水客が見える、、、逗子と油井が浜の間で、、やや人が少ないかもしれない。

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今日(7/19)は、東京駅からグリーン車に乗って、、ゆったりと快適に鎌倉に、、、来た。
鎌倉駅からメインストリート(若宮大路)を海岸に向かい、、途中江ノ電を左、、小町大路に出あったら、、再び海岸に向かう、、材木座4丁目、、

今回は、、「あの方」と比叡山での学友と言われ、六老僧(六人の後継者)の筆頭、立宗当初から陰に日向に「あの方」を支え、「弁殿」「浜殿」と呼ばれた、、実力者、、弁阿閣梨日昭の旧庵を訪ねる。

日昭は、、当時の宗門で最高の実力者と、、思われます、、。
が、、表立った筆跡が意外に少ない、、どのような方だったのか?

ここからは、、個人の妄想も含まれるが、、

日昭は、、松葉谷の建設当初から鎌倉に入り、、あるいは、建設以前から鎌倉入りして、、既に自らが僧官であることを背景に、、草庵の開設準備にあたり、大進阿闍梨、三位公日行(一説に「あの方」の外従弟)らと共に、天台法華セクトの拠点つくりに当たったのだ、、、

鎌倉にあって、、権力中枢とのコネクションを作り、またスポンサーを募り、、政権を巡る権力闘争の合間を潜り抜け、、滝の口では、「あの方」の殉教精神とは距離をおいて、裏から必死な救命活動をする。

一番弟子でありながら、その世間体は、、天台法華衆という、、「あの方」ほど過激でなく、投獄・流罪の話も聞かない、が、、当時の貴族、武家上流社会に容認される立場にいて「あの方」を命をはって本気で支えた、、と考えている。

※日昭は、「あの方」の弟子になる以前に比叡山において天台宗の受戒を受けた、、と言われる。建長元年、藤原氏の「猶子」となり、尊海を師僧として修学、、建長5年十八登壇受戒したとされます。「理同事勝を破折する」など、、「あの方」と同じ考えであることから、、「復興天台宗」を旗頭に鎌倉に立教開宗する「あの方」へ、、支援を約束したと言われます。当初から鎌倉において、「あの方」と共に、天台法華沙門と名乗り、天台法華復興活動を展開した。

あの方が佐渡流罪中も、、身延9年間においても、警護の武士を配置する(妙一尼家の強士侍)など、、具体的な配慮をして支えたのだ、、、、、「あの方」の滅時には、従兄弟である「池上兄弟」の館で葬儀を執り行い、、甥でもある「日朗」を池上本門寺の管主に推挙し、一門の「現実的な」存命と拡大に貢献した、、実力者です、、「裏日蓮」などと呼ぶ人もいるらしい、、、。

※大胆にイメージすると、、、NHKの大河ドラマに当てはめれば、、吉田松陰が「あの方」で日昭は、、大沢たかお演ずる小田村伊之助か、というイメージだ、、日昭は八八歳(一説に百四歳「玉沢手鑑」)まで生きた。

拙者関連Blog「ジーさん徘徊 富士周辺--③ 岩本実相寺一切経蔵 」
ジーさん徘徊 富士周辺--③  岩本実相寺一切経蔵
<岩本山の上にも茶畑が続く> 「日昭さま、、お師匠さまは、、ご病気になられたのでは、、」 日朗は、雑草を抜き、周囲の石をこまめに除いていきながら、、伯父の日昭に語りかけた、、 「どうして、そのようなことを、、夢でもみたか」 日昭は、、法衣の...

鎌倉の材木座4丁目、、こじんまりとした実相寺(日蓮宗 浜土流 )がある。
観光としては、、ほぼ観るものは、、無い、。
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<浜土、、たしかに、、海岸からは10分程度か、、海抜は7.5mしかない。>

「あの方」の6人の後継者(六老僧)のうち、、長老であった弁阿閣梨日昭上人(べんあじゃりにっしょうしょうにん)開山し、開基は武将の風間信昭(越後太守:直峰城主;現上越市)といわれる。

文永八年には「あの方」と弟子らが佐渡に流罪され、鎌倉の一門は、、ほぼ壊滅状態、になったときに、、鎌倉に残った日昭は一門の統率にあたるために、材木座の工藤祐経(くどうすけつね)※の館跡に庵を設け宗門の維持に当たった。この館が「浜土の法華堂」である。そのため日昭門流は「浜土門流」と呼ばれる。

その後、、難禍から逃れるため、日昭の遺言により風間信昭の所領、新潟県長岡市に移転(妙法寺)、、また、、元和7年(1621)江戸期には、養珠院(ようじゅいん)お万(まん)の方・英勝院お勝の方・太田道灌(おおたどうかん)末孫らの浄財で完成したのが三島の妙法華寺で、、、「玉澤門流」ともいう、、。
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<最上部に日昭上人の墓がある>
寺の裏側は、住宅で50m入ると墓地がある、、奥に階段があり、上がると日昭上人の墓がある、、、両脇の夏草、、階段の途中は蜘蛛の巣を払いながら登る。

墓地横の住宅に、、「空家売り出し中」の看板あり、鎌倉駅から25分、海岸まで10分程度か?

工藤祐経の館跡に法華堂を建てた経緯は、※日昭上人の母が鎌倉時代の武将工藤祐経(すけつね)の娘で、日昭上人は工藤祐経の娘の息子ですから、、つまり孫にあたる関係ですね。

※工藤祐経(くどうすけつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の伊豆国の武将。鎌倉幕府御家人.

※また、、日昭の姉は、、池上左衛門太夫康光の妻で従兄弟が池上宗長、宗仲兄弟です。妹は平賀二郎有国の妻で、、その子が日朗※です。

日昭は、近衛兼経の猶子(ゆうし)となり、「近衛家」との関係があります。これらの縁で、日昭の母(妙一尼)は、、「御所桟敷※」に住むことができたと言います。

※大倉御所桟敷(Wikipedia);;源頼朝は、、鎌倉入りして拠点を大倉に定め、新たな館の建設を行った。廊内(敷地内)は、寝殿、対屋、侍所、厩などがあり、東・西・南・北に門がある一般的な貴族の寝殿造となった。
侍所が貴族の邸宅の2倍の大きさと言われ、、武家の総帥の邸宅としての特徴が見られる。
近辺には御家人の宿館が立ち並び、御所内には御寝所などの私的な区域と、公的な区域があり、政務は問注所や評定を行う西中門廊、内厩侍上などで行われた。
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※江戸城と旗本屋敷、、首相官邸と霞が関のような、、国家の中枢だ、ここに、、日昭の母(妙一尼)が住むということは、、日昭と一族の立場を考えるうえで、、、重要だ。

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「あの方」が「立正安国論」を、、、<書き掛>、、、、その設定を準備した、、、<書き掛>、、、

、、、、する時も、、もあらゆる場面で、裏方として支え、、後の教線拡大を支えたものと思われます。

※「猶子(ゆうし)」制度(wikipedia) 猶子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度[1]。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。
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※天台沙門を名乗ることに関して、、、後に、日興門流は、、天台沙門を名乗ることには、、厳しい対応をする。

「富士一跡門徒存知事」、、日興が云く、彼の天台伝教所弘の法華は迹門なり。今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり。此の旨具に状に載せて畢んぬ。此の相違に依て五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ。

一、天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。、、と厳しく戒めるのです。

しかしながら、日興自らが書写した「立正安国論」(玉澤妙法華寺蔵)の題号次下には、「天台沙門日蓮勘之」との署名があり、文応元年(1260)7月16日、日蓮が前執権最明寺入道時頼に「立正安国論」を進呈した時、「天台沙門」の名乗りであったことが窺えます。

※「あの方」を時間軸で追えば、、草創の青年期、佐渡流罪期、身延期、熱原の法難期、、、と、その境涯において、、思想が深まる中で、変化があるのは当然ではないかと思います。

また、、権力と厳しく対自する現場と、、思想が理念化する時代とに、、対応の違いがあっても当然かと思います。

滝の口の法難の前と後(佐渡流罪の前、後=佐前、佐後)とを大きく分けて、、悟りの前後とし、、「あの方」は「発迹顕本」したので別人格(注1)となったと言う説が多いのですが、、このことで、、やがて、、「あの方」が晩年には釈迦や天台をも超えた(注2)とする日興門流と、、他の五人の老僧の間では、、重要な『観心本尊抄』の訳を巡っても異論が収拾できず、、ついには、、先のように「、、此の相違に依て五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ」、、、弟子として、こんなんも、よう理解できへんなら、、もう、あんたらとは、絶交や!、、という事態に発展するのです。

注1:法華経涌出品第十五の地涌の菩薩、上行菩薩の再誕を自覚したこと。
注2:久遠元初自受用報身如来、久遠元初の仏である。

日興門流は、、注1を「一応」、「垂迹」とし、、注2を「再応の深義」、「本地」とする。

———-※法華経如来寿量品(第十六)———–
釈迦は虚空会において語ります、、実在の自分が生まれた遥か昔(幾百・千・コーティ・ナユタ・劫の過去=永遠の過去)から私は覚りを得ていたのだ、、そして、長きに渡って多くの菩薩達を教導してきたのだ、、その菩薩達(上行菩薩を先頭に四菩薩を代表とする無数の菩薩達)が今、大地から湧き出て来たのだ、、とする、、、久遠実成仏を示す重要な章、、、。

ここでは、、「垂迹」を実在の釈迦ゴータマシッダルタ 、「本地」を久遠実成仏(くおんじつじょうぶつ)と言いますので、、日興門流は、「あの方」を実在の釈迦以前の久遠元初仏の再誕と言い、他の門流は久遠実成仏に教化された上行菩薩の再誕と言います、、、。

※釈迦滅後800年ごろ大乗派により創作された法華経涌出品第十五における地涌の菩薩出現の壮大なスペクタルドラマは、、東国の師、、「あの方」の強信によって現実のものとなった、、とするのか。
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