歩き疲れて昼食にする、、今回も、、ビールが、うまい!。
<鶴岡八幡宮から横浜国大付属鎌倉小学校の横を通り、、大倉山の頼朝の墓に向かう>
残念、、
雪の下の頼朝の墓は、、江戸時代1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで)が建てたものです。
頼朝墓を建てた島津重豪は、先祖の島津忠久が頼朝の子とも言われており、、頼朝の墓を建てることで、その「家柄」を示したといわれる。
頼朝墓の東の山裾には、重豪が頼朝墓とともに整備した島津忠久の墓がある。
、、が、、島津家が頼朝の血筋と言うのが、、定かでない、、らしい、、。
※墓には、、丸十の薩摩の家紋が見える、、、
※しかも、、手前の笹竜胆(ささりんどう)の家紋は、、江戸時代に創作された?という話も聞く
※鶴岡八幡宮の社紋は鶴丸と言われ、鶴丸を頼朝の紋とする話もある、、。
※どうも、、通行規制が厳しい江戸時代だが、寺社参拝を目的とすれば、、交通手形(パスポート)が取得できる、、そこで寺社参拝観光ブームが興る、、経済活性化のためか「お伊勢参り」などは「手形不要」という「規制緩和特区」となった。。。。それを機に、あちこちに名所旧跡が乱発したように思える。
—————-
階段を下り、、頼朝の持仏堂跡、、三浦一族の墓、、島津忠久の墓などを見て、、清泉小学校付近、、ここは大蔵幕府の中心地※、、再び、、金沢街道を、、鶴岡八幡宮に向かうと、、道なりに小町大路に入る、、、。
※
大倉御所(おおくらごしょ)は、
鎌倉時代に相模国鎌倉大倉郷(現神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯)の地にあった源頼朝の邸宅。大蔵御所、大倉幕府とも。治承4年(1180年)から、承久元年(1219年)まで39年間、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の御所であった。
——wiki——
小町大路(こまちおおじ)は、
鎌倉幕府による都市計画の中核をなす「六大路」の一つ、、若宮大路の東側を並行する。、、「筋替橋」を基点とし、ほぼ南向きに材木座海岸に向かっている。
小町大路の両側には、幕府高官・有力御家人の屋敷が並び、とくに大町四つ角以南は当時の鎌倉随一の商業地区でもあった。
また、日本最古の築港とされる和賀江島への流通経路にもあたり繁華を極めていた。
このため、日蓮聖人のいわゆる「辻説法」も、この大路のあちらこちらで行われたものと考えられ、大路の2箇所に辻説法跡の記念碑(大町の本興寺門前、及び小町2丁目)が建てられている。
—————-
鶴岡八幡宮から材木座海岸に向かって、、まっすぐに若宮大路が伸びる、、このメインストリートに並行して東側に小町大路(こまちおおじ)がある、、、。
若宮大路は主に神事に使われるシンボル的な通りだが、、
小町大路(こまちおおじ)は、幕府御家人、有力御家人が住む、、高級住宅街から繁華街が連なる鎌倉の山の手の生活道路なのでしょうか、、
現在は、若宮大路の西側の小町通りが、、鎌倉一番の繁華街で飲食店やお土産屋が連なる、、、。
小町大路(こまちおおじ)では、、ちょっと興味深かったのですが、、
この通りに「千葉氏」の千葉常胤(つねたね)の孫の胤貞(たねさだ)の別邸跡に建った「妙隆寺」がある、、、
胤貞は、、下総で広く領地を持ち、、氏寺となった中山法華経寺()から鎌倉に日英を迎えた(1385)。
日英は身延日叡との論争に勝利して、中山門流の鎌倉での勢力を拡大した。
※ちなみに、、第2祖日親は「鍋かむり日親」と言われる伝説を持ってます。
室町幕府六代将軍足利義教に「立正冶国論」なるものを建白、、捉えられて拷問を受け灼熱した鍋を被せられたが意志を曲げなかった。その日親は、九州千葉氏(佐賀県)の領地でも中山門流を拡大した。
、、その隣の家が、、「千葉さん」なのが、、、歴史を実感する面白さだ、、、
千葉氏が三浦氏などと、、同族として同じ文化圏にあり、、思った以上に鎌倉と近いのを、、実感する、、、
<隣は千葉さんの家>
近くには、、、
日蓮上人辻説法の跡という場所もある、、、この周辺が千葉氏の館があったとすれば、、「あの方」が、、この地での活動に理解を示していた千葉氏とのコネクションによって、、鎌倉進出が成された、、という背景が見える、、、。
※千葉氏は、、
1180年(治承4年)に「源頼朝」が平氏に対して挙兵したおり、「石橋山の戦い」に敗れた後に安房国へ渡ると、千葉常胤は頼朝から加勢を求められこれに応じた。
常胤は平家との戦いや奥州藤原氏との戦いで活躍し、更に上総氏の惣領上総広常が頼朝に嫌われて粛清されると、千葉氏の権力は上総国まで及んだ。鎌倉時代には「下総の守護」とされた。
鎌倉時代に下総八幡郷(現千葉県市川、松戸市付近)の千葉氏の家臣としては、、
富木常忍
富木五郎源胤継という因幡国富城郡出身の武士で、文官としての能力を買われて千葉氏に招かれ、千葉頼胤の被官となった。自ら出家して現在の中山法華経寺とした。
太田乗明
下総国千葉氏の家臣で富木常忍の同僚で、、日蓮の有力な壇越となった。通称は帥(そつ)公。
日蓮宗の僧侶で法華経寺第2代貫首とされている「日高」は、太田乗明の長子。
曽谷教信
国分胤鎮の子道頂の長子であり、道頂の時に地名から曽谷氏を名乗ったという。
曽谷教信の出自については、一説では現在の市川大野の豪族であった大野氏の族「大野政清の長男」ともいい、大野政清は日蓮の母の兄弟であることから、曽谷教信は日蓮と従兄弟であったという説もある。同国八幡荘曾谷郷(現在の千葉県市川市曽谷)の領主で千葉氏の家臣。通称は二郎兵衛尉。
※曽谷城は源頼朝が千葉勝胤(かつたね)に下総を与え、その末の千葉之助胤鎮(たねしず)が、同族の曽谷重胤(しげたね)へ曽谷一帯三千町を与え、城主となったのが始めとされる。重胤の孫の曽谷教信(きょうしん)が、日蓮聖人に帰依し、安国寺を建立した。
『市川市史第二巻』
市川よみうり
いずれも、文官武士であったが、出家している、、、。
※三浦氏と千葉氏は姻戚関係にある。
ただ、、「あの方」のスポンサーであったと思われる、、千葉氏、三浦氏、北条名越流(名越氏)は、、
三浦一族が滅亡(1247)、宝治合戦で三浦氏に連座した千葉頼胤も、、討伐処分される。
名越氏(北条教時)は、北条時宗の指示に反した(1272;2月騒動)ため討伐される。
——wiki———
宝治合戦(ほうじかっせん)
鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている[1]。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、吾妻鏡しか現存しない[2]。
———————-
二月騒動(にがつそうどう)
鎌倉時代中期の文永9年(1272年)2月、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。
北条氏の嫡流を争う名越流と異母兄時輔を討伐した事で、執権時宗に対する反抗勢力が一掃され、得宗家の権力が強化された。
———————-
——–書きかけ————–
コメント