19歳の結城朝光が、、、頼朝の署名文を持って義経の宿泊する酒匂(さかわ)※に到着した。現在の小田原市酒匂と鎌倉間は、、徒歩でおよそ7時間程である。
「何故、、このような若者を、、」
義経は理解していない、、、。
実は、結城朝光は頼朝の実子である。
頼朝が伊豆に流罪されて間もないころ、、彼の乳母の寒河尼が、末娘を頼朝の身の廻りの世話をさせるべく伊豆に出した、、。頼朝21歳、、娘は身ごもり、、実家の宇都宮で出産する、、その子が朝光である。
しかし、、、その後、、北条正子と通じ、、北条時政の婿となって、、北条氏を後ろ盾にして挙兵した頼朝は、、関東武士団を固める北条氏には頭が上がらない、、実子の朝光を嫡子にできずに、、宇都宮八田家に長く置いた。
頼朝が北条氏に内緒で、、宇都宮八田家から朝光を鎌倉に呼び寄せたのは、、朝光が15歳(1181)の時である。
元服をさせ、、、結城朝光と名乗らせた、、。
その朝光が、、使者として酒匂(さかわ)に宿泊する義経の元に来た、、。
そして、、ひどく無感動な声で棒読みした、、、。
「左右ナク鎌倉ニ参ズベカラズ。シバラクソノ辺ニ逗留シ、召シニ随ウベシ」
「なんと、、それは、どのような、思慮であるか、、」
義経は震える声を懲らしながら聴いた、、解せぬ、、しかし、、この時すでに、、頼朝は(、、いや、北条氏は)義経を討つことを決していたのだ、、。
朝光は、、言われた通りに「それがしは、何も存じませぬ。文面のとおりでござりまする」と言うと、、義経の声を背中にして退出を急いだ、、。
「またれい、、無礼であろう、、」
義経は激しく震えている、、慟哭した、、何故だ、、いったい私の何がいけないのだ、、
「兄は鬼か、、」
この事態を、、側近の武蔵房弁慶ですら、、理解していない、、
小田原の酒匂に数日過ごしたが、、鎌倉からは、、何の沙汰もない、、、
義経は、たまりかねて、、身を「腰越(こしごえ)の浦」まで進めた、、。
腰越から鎌倉までは、、わずか1里、、すぐ前には、、江の島が見える、、。
——–参考 司馬遼太郎 「義経」 ——
<江の島はすぐそば>
<腰越から江の島間は路面になる>
江ノ電の腰越駅は、、小さく、、車両の全部がホームに納まらない、、下車するには、ホームのある車両に移動しなければならなかった、、。
駅から近い、、ここ満福寺は、、義経達が留まったと寺と言われる
<満福寺にある石像、、新しい>
ここで、弁慶が筆をとり、、世にいう「越越状」を書いた、、、。
恨みと悲しみと同情を誘う文章は、、義経が幼く父を失い、、母の懐に抱かれ、、以来流浪し、艱難をなめた、、しかし、、父の怒りを安んがため、敵と命を顧みず戦った、、云々
*—-Wiki——————————
「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。
私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。
ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。つくづく思うに、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうと言われています。
ここに至って讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。こうして永くお顔を拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。
私の宿運が尽きたのでしょうか。はたまた前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです。
そうはいうものの、亡き父上の霊がよみがえって下さらなければ、誰が悲嘆を申し開いて下さるでしょうか。憐れんで下さるでしょうか。
今更改まって申し上げるのも愚痴になりますが、義経は身体髪膚を父母に授かりこの世に生を受けて間もなく父上である故左馬の頭殿(義朝)が御他界され、孤児となって母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴いて以来、一日たりとも心安らぐ時がありませんでした。甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども、京都の周辺で暮らす事も難しく、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓などに召し使われました。
しかしながら、機が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒した後は、平家を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は漫々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸が鯨の餌になる事も厭いませんでした。
また甲冑を枕とし、弓矢をとる本意は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いである事の他に他意はありません。
そればかりか、義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。
これに勝る名誉はありません。
そのとおりと言えども、今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外は、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか。ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用いて、全く野心が無い事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおも寛大なお許しを頂けません。
我が国は神国であります。神様は非礼をお受けにはなりません。
他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみです。
便宜を図って(頼朝の)お耳に入れていただき、手立てをつくされ、私に誤りが無い事をお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。
それによって私も年来の心配事も無くなり、生涯の安穏が得られるでしょう。
言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。
ご賢察くださることを願います。
義経恐れ謹んで申し上げます。
元暦二年五月 日 左衛門少尉源義経
進上因幡前司殿
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「ああ、、まだ、あの男は判っておらん!」
頼朝は舌打ちする、、、。
「越越状」には、義経が五位の尉(朝廷からの官位)にされたことは当家の面目である、、と記している、、、。
それこそが、、、問題なのだ。
平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権は、、武士による自治政権をつくることである、、。
都へは登りなさるな、、と、、北条は言う、、、清盛のように公家と同じになるぞ、、、
※これより前、、「判官義経は平家の娘を妻にした」、、との噂が京を駆け巡り、鎌倉にも届いた。
捕虜の身の、平時忠の子、時実の美貌の妹’わらび’と一夜を共にした義経は、、正室の郷御膳を五条の別宅に移し、、’わらび姫’を屋敷に住まわせた。
これでは、、捕虜であった平時忠は舅(しゅうと)と、、なってしまう。
世間知らずの、この若者は、、時忠の鬼人のごとき策略にまんまとハマってしまった。
後白河法皇は、このことを理由に、忠時を死罪から、、島流しに減罪して、、能登遠流とした。
都での義経の評判は高い、スーパーヒーローと言っていい、、。
「判官は京の育ちでおわすそうな、、」、しかも若い、、壇の浦の武勇は聴く者を飽きさせない、、
公卿達は、法皇が義経に対して上機嫌であることを察知するや、、娘を義経の館に訪れさせた、、久我大臣の姫、、唐橋大納言の姫君、鳥飼中納言の姫君などが、、義経の艶福に接して、、。皆、、舅(しゅうと)なった。
、、この時代のことではあるが、、「甘い、、」と、、後白河法皇は思ったに違いない。
「鎌倉の御家人たる者は、自分勝手に京の朝廷から官位を受けてはならん」、、頼朝は訓令した。
官位によって支配するは、朝廷の常套手段である、、。やがて、、義経の官位を上げて、朝廷の権威を持って、、人形の如くあやつるに違いない。
義経が法皇側に走り、、次いで、鎌倉御家人の多くが朝廷から官位を受けている、、ゆくゆくは、、法皇側の支配となる、、。
「義経は敵になる」
鎌倉側の危機感はつのる、、。
「官位を受けたる者は美濃墨俣(すのまた)以東、足を踏み入れることを禁ずる」
京が好きなら、、京で野たれ死ぬが良い、、違反するものは断罪である、、鎌倉の怒りは凄まじい。
、、、たとえ、弟でも。
義経の化粧の美々しさ、、小さな顔に白粉を濃く塗り、、唇にまで朱を点じ、、まさしく公家の様相など、、関東武士には入れられない、、、。
伊豆における関東、東海武士団の期待を裏切ることは、、頼朝の立場さえ、、失うのだ、、、。
※それでも、、この時義経は、、まだ楽観的であった。
兄は噂やに讒言に惑わされている、、直接会って話せば、、解ることだ、、。
しかし、、、、、。
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※ 関東武士の治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)参加は、土地問題が大きい、、在郷の武士が、、いかに開墾した土地であっても、、荘園制度※は、公家に都合がよく在郷武士には所有権が認められない、、武士の時代を築くこと、、は、、土地を支配すること、、
それは、領家制度の崩壊を意味する、、。l
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平安時代中葉の10世紀後期から11世紀以降、地方の開発領主らは法的根拠に欠けた自らの私有地(荘園)を、国衙の収公から逃れるため受領層(中央の有力貴族や有力寺社)に寄進し、自らは荘官として土地の実効支配権を持ちながら、一定の税を寄進先の受領層に納めた(職権留保付寄進)。
このとき、寄進を受けた者が「領家」である。領家は、開発領主を現地管理者として荘官に任命し、荘官を通じて、荘園からの収穫を地子として徴収したり、荘園内の百姓(荘民)に労役を課したり(公事)して、自らの収入とした。
このような領家の持つ、荘園領主としての支配権や地子、公事等の収益権(作合(さくあい))を領家職といった。
時代が下ると荘官の武士化が始まり、鎌倉時代以降は、荘官が幕府から地頭に任じられる例も見られた。
地頭は、これまでの重層的な土地支配関係を解消し、一元的な土地支配を指向するようになっていった。このような一元的支配を一円知行といい、東国を中心に地頭請が行われ始めた。
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武士と土地
「一生懸命」という言葉があるが、元は「一所懸命」といった。これは鎌倉時代の武士が己の土地を文字通り懸命に守ったところからできた言葉である。土地は武士にとってそれだけ大事なものなのである。
源頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると東国武士はこれを喜んだ。
これまで東国は朝廷からさんざん軍事的負担を強いられたり高い税の徴収を受けたりした。そのため平将門をはじめ朝廷からの独立を目指した反乱が発生したのである。
東国独立はそこに住む武士達の悲願だったのである。そして、ついに頼朝によってその悲願が達成した。
鎌倉幕府は朝廷の介入を一切受け付けず武士の所領を安堵(土地の所有権を認めること)することで彼等を御家人として支配下に組み込んだ。
、、、、、、。
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領家制度と在郷武士との土地紛争は、、鎌倉政権になっても、、なお続いていく、、、
当然ながら、、各地で土地を巡る、、在郷武士と領家の間に軋轢が起こる、、
鎌倉に近い安房の国においても、、土地紛争は起っている、、。
当時、、清澄寺を含む荘園領主であった鎌倉名越の「領家の尼」と安房東条郡の地頭「東条左衛門尉影信」との土地紛争である、、、。
「領家の尼」は、「あの方」の鎌倉修学を支援するスポンサーでもある。
「あの方」は叡山修学後に清澄寺に起こった、、この土地紛争問題に取り組む、、。
紛争は一年以上の訴訟問題を経て、、一時は「あの方」の支援により「領家」側が勝利した、、。
しかしながら、、、影信は強烈な復讐心に燃えたのだ、、。
影信が専修念仏者であったことから、「土地問題と宗教問題」が絡んだ、、困った紛争に発展する、、。
実は「あの方」の父は、、土地紛争を巡る裁判に関わる職にあったと言われる、、が、、ここでは触れない、、、。
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その後、、、義経掃討の命が下る、、、
義経は、、諸国の山河に隠れ、、転々として奥州平泉まで逃れる、、
衣川の持仏堂で自害する、、、のです。
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———書きかけです————
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