じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう- ① 名越(nagoe)

「あの方」が12歳(1253)で、故郷の安房小湊の清澄寺に登ってから、、ここを離れて、、鎌倉に留学するのは16歳のときである。
鎌倉へは房総半島の港から船に乗り、、三浦半島に渡るが、、この航路は幾度も使っていたであろう。

現在、、浜金谷から三浦の久里浜へ約40分間の東京湾フェリーが運航されているが、、、.
房総半島と三浦半島間には、、古くから、、人と物とを運ぶ多くの海上輸送ルートがあった、、
そのことは、、とりもなおさず文化交流が盛んにあった、、ということだ。
※領主としては千葉氏と三浦氏は縁戚でもある。

また、、、江戸時代には、、江戸川や利根川を初めとして、、多くの河川が整備されて北総地域は大きく変貌したが、、古来では、利根川の支流や東京湾側の地域は湿地帯が多く、現在の江戸川(江戸時代に整備)の流域についても、、現在より、、ずっと深く入り江に入り込むように、、船を利用したことが考えられる。
「あの方」が中山の冨木殿の領地(現在は中山法華経寺)に向かうのに船を使った、、ということを聞いたような気がする。、、思った以上に海上交通は使われていたようだ、、。

※富木殿=中山法華経寺–>市川行徳<—>三浦六浦湾<–>鎌倉、、、の舟ルートも伝わる。

※あの方は、、、江戸湾奥の八幡庄から鎌倉へ、、鎌倉から八幡、また、、、一説には、、二子(船橋)の港を経由して往復したという伝説もある、、鎌倉へは江戸湾きっての港「六浦」に渡り、、朝比奈の「切り通し」を経るのが近距離である、、、。六浦にある金沢文庫には、、あの方が是聖房と呼ばれた幼少のころに書写した「授決円多羅義集唐決」が伝わるという、、。

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<古代房総半島>
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<房総富浦から三浦半島の米ケ浜の船路と言われる>

鎌倉での4年間の修学を終えた後、、21歳の「あの方」は、比叡山延暦寺へ修学に出る、、当時の叡山は、、学徒が3千人居たと言われている、、最澄が大乗戒壇を建立以来、、日本最大の規模を誇る、、 合わせて高野山、三井の円城寺、京都、大阪の四天王寺、などを訪れ、、叡山の仕来たり(conventional)※によって研鑚すること12年、、一旦は故郷に戻る。

※山家学生式:: 最澄が弟子を養成する規範として制定したといわれる。12年間の籠山行で最初の6年間は思慧(教論釈を学ぶ)、、後の6年間を修慧(実習的な学問)という。

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安房の国の富浦を出た帆船は、、海原を滑るように走る、、
相模の国の三浦半島が、、、薄藍色に浮かんでいる、、、
その上に小さな富士が顔を出していた、、。

「今日のように海が凪いでいると、、極楽だぜ、、ところで、お坊さんはどちらへ行きなさるんかね、、」
乗りあいの客が声をかける、、

舷(ふなばた)から若い僧がふり向く、、

「鎌倉にまいるところです」

「おっと、それじゃあ、ご一緒ですなあ、、それにしても最近の鎌倉は、活気がありますわ、、
あたしも、一生に一度は鎌倉は見ておきたいと思っていたんですが、、いまじゃあ大町に住みついちゃいましてね、、」

近頃は京都、奈良に負けねえ寺が、どんどん建ってますわ、、、いやね、、あたしは、これから「建長寺の普請場」に行くんですわ、、、執権職様のお声がかりで、3年前に鎌倉に入りしましてね、、、暫らくぶりに郷に帰っての、、戻り船よ、、、」

「あの方」を、、最近鎌倉に多くなった新興寺院に向かう、田舎の坊さんと見た大工風の男が語りかける、、つまり、、国家事業レベルの寺社建造に携わることの、、自慢話である、、、。

「あの方」は笑んで、、大工の話を聞いているが、、その眼は遠くの富士から離れない、、。

鎌倉の「建長寺」の噂は、、聴いている、、。
3年前に、、比叡山からの帰り道、、名越で、その話は聞いた、、、
鎌倉雪の下から巨袋坂を登り、、山内谷の奥に建てられるという、、その寺は、、、支那の杭州にある万福寺に習って建てられる。、、その「建長寺」は、、常楽寺にいる臨斉禅の宗僧、、蘭渓道隆が開山に迎えられる、、、のだ、、。

それにしても、、、鎌倉幕府は、、公家旧仏教とまで言われる天台や真言に対して、、新興する、、浄土や禅を庇護し、武家仏教の路線を引こうと考えている、、。

「あの方」は、そんな鎌倉の、、大町の南、、名越に造りかけている、、小さな草庵に向かうため、、いま船中にいる。

やがて、船は相模国三浦郷深田の米ケ浜に、、、着いた。

港 邦三 著作をアレンジ ——————————-*

※建長寺(1253)は、日本最初の禅寺である。鎌倉幕府五代執権の北条時頼が開基し、宗の渡来僧、蘭渓道隆を迎えて開山した。厳格な禅風は武士の気風に合い千人を超える修行僧を指導した。

けんちん汁: 蘭渓道隆が野菜や豆腐の余りものを無駄にせず作った「建長寺汁」が、、なまって「けんちん汁」となったと言われる。

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「あの方」が再び鎌倉の地に進出したのは、、建長8年(1256)秋と言われる、、、、。
建長5年(1253年)4月28日 清澄山の山頂、旭の森で、、既に立宗宣言をしてから3年後のことである。

信徒の寄進によって、、鎌倉の名越(なごえ)に草庵を構えることが出来たのはこの頃であるが、、、。
後に「松葉ケ谷の草庵」と呼ばれる、この拠点は、「あの方」が政治の中心地で活躍する最初の場所であった、。

現在、、、「草庵の跡地」、、、と言われているのは、、
ここ「名越」にある、、「安国論寺」「妙法寺」「長勝寺」だが、、、それぞれが自称しているだけで、、いずれも定かでない
、、しかし、この名越に草庵が建てられたのは間違いないだろう、、、。
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<妙法寺、雰囲気的には合ってる感じ>
妙法寺は、、護良親王(もりながしんのう)の遺児で幼名楞厳丸、後の日叡上人が再建>
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<安国論寺 昭和14年に青年団が松葉谷庵跡と記した石碑がある>
この一帯を松葉ゲ谷と言い、、現在の建物は尾張徳川家が寄進したもの、、富士見台からは富士が見え、、材木座の海も一望できる。裏山の墓苑には、、元東芝社長、経団連会長の土光さんの墓がある。
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<長勝寺 山門>
信徒の石井籐五朗長勝が開基、、高村光雲作の大きな日蓮上人像が立つ、、、

さて、、ここ「名越」は、、北条一族の名越氏の領地である、、、。
「あの方」の手紙に出てくる、、名越の尼(領家の尼)は北条時政の孫といいます。

また、、主要な信徒である四条頼基(四条金吾)は名越氏に使える武士でありました。

なぜ、、名越に最初の草庵を構えたのか?

そこには、、千葉一族とのコネクションが見えます、、、。
「あの方」は、政治の中心地としての鎌倉を選び、、千葉一族のコネにより、、名越に活動拠点を構えたと思われます。

また、、その頃「あの方」は、、天台沙門※と名乗り、、天台僧とのコネクションも多かった、、、。
正元元年(1259)の手紙、、「武蔵殿御消息」、、では武蔵坊に書籍の借用を依頼しており、、、法華ハ講の日時を確認していることから、、天台宗の行事に参加していたことが判ります、、、、。

※天台系の修行僧、、という意味でしょう、、

※沙門:——–Wiki——
沙門(しゃもん、梵: śramaṇa , シュラマナ、巴: samaṇa, サマナ)は、古代インド社会に於いて、バラモン階級以外の出身の男性修行者 … 語源はサンスクリットで努力を意味する sram から来ているとされるが、静まるを意味する sam から来ていると言う説もある。
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「@武蔵君へ 元気ですか 僕は、最近独立して鎌倉に来たんだけど、、、、よろしくね」

「ところで、、先般は無著の『摂大乗論』3巻を届けてくれてありがとう、、。すごく役にたったよ、、たしか武蔵君は摂大乗論釈論も持っていたよね、、すまんが、送ってくれないか、、とにかく、我ら天台法華衆としては、念仏との戦いで絶対必要な文証なんだ、、急いでくれ、、それと、、君らが主催する例のセミナーに参加するよ、、時間と場所を教えてくれないか、、それから、今度いつ会えるかな、、、シャモンNより」

※ここまで、、やると、、チョッとやりすぎかと思いますが、、言葉が若年化している最近の38歳では、、こんな程度のメールになってしまうかも、、。

※尚、、自分の妄想の中では、、武蔵君は、武州河越(現埼玉県川越)の貫名類(遠江国山名郡貫名郷一族、父の旧友)にあたるスジと思われる。、、。「あの方」は建長3年(1251)河越の貫名類(一族)の家を訪ねている。そこで、父の親戚が駿河の沼津に居ることを聞き、委細を尋ねるなどして数日を過ごしている。
近くには円仁創建、尊海再建の中院がある、、尊海は密教に偏る叡山の風潮を、天台法華に戻そうと運動していたという。
「あの方」が恵心流の伝法潅頂を受けたという話は、この頃かも知れない、、調査したい。

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法華経こそが教主釈尊の出世の本懐、、と心得し、、国土の乱れは、教主釈尊の本旨を曲げ、論釈の誤りを正さない邪教にある、、国土安穏のため断固折伏せん。と、、その後、念仏批判だけでなく、禅宗、律宗、真言宗への批判を続けるのは、「あの方」と一門の共通意識である、、が、、、。

当初、、新興の「専修念仏」に対する批判の先鋒は、、実は比叡山であった。
そして、その中心人物は坂本の南勝坊と無動寺の住職「俊範法印」であるという、、一説には「あの方」は叡山において、、天台法華を重視する学頭「俊範法印」に師事したと言われている。
「あの方」は12年間の叡山修業中に、俊範法印に師事(寛元元年(1243)22歳)して、、専修念仏批判に対する理論武装を固めたに違いない。
鎌倉入りして後、、天台法華セクトの中で、、天台沙門を名乗る「あの方」は、、いち早く頭角を現わしていたのだ、、。

国政の中心鎌倉で、、天台法華セクトは、、すでに国家権力との協調期に入った浄土宗、禅宗との論戦に追われている。「あの方」への期待と力量が試されようとしているのです。

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このころ、、、、大きな天変地変が、、鎌倉や日本を襲います、、、、ここから「あの方」が変化して行くのです、、、。

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※今回の鎌倉徘徊予定、、気分で変更する。
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———–書き掛です——————

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