明智光秀は生きていたか  光秀=天海 説

画像
NHKの明智光秀は、、小朝が演じるが、、光秀の嫡男が建てたという岸和田市の本徳寺に保存される明智光秀の肖像画は、、小朝より、、はるかにイケメンだ、、、。
画像
本徳寺は、、臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の末寺。山号は鳳凰山。
寺を開基した南国梵桂は、一説には明智光秀の長男・明智光慶だと言われる。光慶は出家し、妙心寺の塔頭「瑞松院」に住して「玄琳」を名乗った。

瑞松院は、江戸初期には光秀の妻・煕子[3]の実家である旗本妻木氏が檀那となっていた。また、玄琳の師は大心院[4]主・三英瑞省で、光秀の三女・珠[5](細川ガラシャ)の夫・細川忠興が檀那となっていた。(Wikipedia)

本徳寺の言い伝えでは、、明智光秀の消息について、、謎が多い。

生存説①:
比叡山の飯室不動堂に光秀が寄贈した石灯籠
、、寄進日の慶長20年2月17日は、、、山崎の戦い小栗栖で光秀が農民に殺された年から33年後である。

生存説②
鳥羽(貝塚市鳥羽)にあった「大日庵[9]」に、光秀が亡命してきて隠棲していたということで、鳥羽の俗謡に、
「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」
と伝えられている。

生存説③
東照宮のある日光に「明智平」という地名がある、、。
慶長十八年、家康は天海に日光山光明帯一帯の寺領を贈った。天海は家康の死後、
光明院の跡に輪王寺を建て、そのそばに東照宮を建てたが、輪王寺が建ったとき日光山
に登り、男体山、中禅寺湖、華厳の滝などが一望できる景勝の地を「明智平」と名付けた。

生存説④
徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光の名には光秀を連想させる文字が隠されており、
家光の子である四代将軍家綱、五代将軍綱吉に共通する綱の字は明智光秀の父、光綱
の綱と同じである。

生存説⑤
天海が明智光秀と同一人物と言われた背景のひとつは、家光の乳母であり、三代将
軍家光の時代に江戸城に君臨した春日局が光秀の最側近の斉藤利三の娘だったことに
ある。

生存説⑥
京都府の京北町周山に慈眼寺という寺が(慈眼というのは天海僧正の諡号である)、こ
の慈眼寺の釈迦堂には光秀の木像と位牌がある。

生存説⑦
、、、本徳寺の光秀肖像画に、、僧侶になった光秀が寺を出た、、と記されている。

※肖像画には「放下般舟三昧去」、つまり「仏門に入り去っていった」との一文が記されている。光秀は生き延びており、僧になった後、寺を出たという意味に読み取ることができる。(Wikipedia
、、、、というらしい。
画像
なんと、、かって家康が安土城で、、信長に暗殺されそうになり、、光秀と家康とが同盟の密議を交わしたことから、、家康の江戸時代になり、、「天海となった光秀」は家康と共に徳川幕府の基礎を築いた、、そして家康没後には日光東照宮を建立した、、、と言うのである、、、。
画像
しかし、天海は「天台宗」の僧侶だ、、自らは出自を語らなかったが、、
『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることから、三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる、、、

また、、須藤光暉『大僧正天海』では諸文献の比較検討により、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論づけている(Wikipedia)

では、、、天海僧正とは、、、どのような人物なのか。

龍興寺にて随風と号して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や三井寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。
元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。
その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。後の喜多院)に移り、天海を号したとされる。(Wikipedia)

※川越の喜多院と言えば、、関東地域で最大の天台宗の学問所、、一説には日蓮上人は、この中院で、、、
1253年(建長5年)天台宗尊海僧正より恵心流の「伝法灌頂」を受けたという、、その碑が残されている。

歴史ミステリー明智光秀は生きていた
- YouTube
YouTube でお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。

——つづく——

コメント

タイトルとURLをコピーしました