本能寺の変で黒人小姓「彌助」は信長から伝令を預かった

NHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」が、、、次回は「本能寺の変(天正10年(1582.)6月2日)」の場面になる、、、
どのような展開になるのか、、大きな山場を迎える、、

明智光秀の謀反の理由は、、一般には、野望、怨恨説が多いが、、、これは、後に秀吉が転末を書かせた「惟人退治記」によって勝者の論理で記したものが定説となったからだと言われる、、、。

真実は単純な野望からではないことは、伺える、、、。

明智光秀の戦運祈願の愛宕百韻(百の連歌)の発句で有名だが、、、

「時は今あめがくだしる五月かな」、、、今は雨が降っている5月だなあ、、が直訳、、、

あめがくだしる->あめ(天)くだ(下)しる->天下をとる時がきた
と言うのが野望説になっている。

実際は、、、時は->土岐氏はいま、、、雨が下なる五月かな->5月の雨にたたかれるような苦境にある
無事を祈りたい、、、という句となっているのが本来の意味なのだが、、、天下を取る野望の歌にされてしまった。。

百韻(百の連歌)の発句の次は脇句(;2番目の句)や第三(三番目の句)、、、挙句(百種目の句;嫡男光慶が作)を読めば明白だと言います。

光秀の末裔の明智憲三郎(ペンネーム)「本能寺の変;431年目の真実」(文芸社文庫)によれば、、動機は

①土岐氏の家系を守るためには縁者で盟友である四国の長宗我部氏の危機を救いたかった。
②信長の次の目標が海外覇権となり、海外派兵として自分も息子も更に戦乱を続けさせられると思った
③信長は国家を変えるために幕府も天皇も不要と考えていた。もとは、将軍義昭の足軽から出世して織田との事務方になり、信長にスカウトされた光秀は将軍に面子が有る
⑤信長に暗殺されそうな「家康と反乱の謀議」が既にできていた。

そして、信長の命により本能寺に招いた家康を暗殺する、、手筈の兵を、、信長自身に向けた、、、、

これは、、、「余は、余自ら、、死を招いた」、、、と信長に言わせたことになった、、。

信長が寺に火を放ったのは、、敵に首を採られないための武士の備え、、女以外は全て討ち死にしたと思われた。
信長の小姓(ボディーガードと秘書を兼ねる)は、一人以外は全て討死にした。、、逃れたその一人とは、、、黒人小姓となった「彌助」である、、、。
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<NHK彌助役は、ベルナール・アッカ>
(Bernard Ackah、男性、1972年4月9日 – )は、ドイツ出身の元お笑い芸人、総合格闘家、キックボクサー。国籍はコートジボワール。日本でお笑いコンビ塩コショーとして活動していた際、身体能力の高さを買われ総合格闘技デビュー。、

、、、信長は、、妙覚寺にいる嫡男信忠への伝令を「彌助」に命じた、、信忠が妙覚寺にいることを、この時は光秀は知らなかった、、信長から息子に「逃げよ」という伝令だ、、、。

伝令がなければ「彌助」は、、南蛮寺に掛け込んだところだが、、彼は信長の命令に従った、、既に移動してしまった信忠を追って二条城で合流し、、奮闘するが、、信忠勢は光秀軍に敗れ、、彌助は「刀を差しだせ」と言われて降伏する、、この後、、「彌助」は南蛮寺に引き渡された、、、。

「彌助」は後に、、生き証人として知るところを南蛮寺の宣教師カリオンに話し、、カリオンは、、フロイスに伝えた、、。

フロイスは「1582年日本年報追加」の中で、、、

「ビジタドールが信長に贈った黒奴が、信長の世子の邸に行き、相当長い間戦っていたところ、明智の家臣が近づいて、恐ろるることなくその刀を差しだせと言ったのでこれを渡した。家臣はこの黒奴をいかに処分すべきか明智に尋ねたところ、黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故にこれを殺さず、インドのパードレの聖堂置けと言った。これにより我等は少し安心した」

と記している、、、。

※この時代、、宣教師(コンキスタドール)も黒奴を、、贈り物として差し出す時代だ、、このような差別的表現もあったのでしょうが、、光秀が「彌助」を助ける言い訳として、、家来に、、そう言ったのだろう、、。
そのことでは、彌助を本能寺から伝令として逃した信長にも、、そのような気配を感じます。

※弥助はもともと「ヤスフェ」という名前であり、日本ではそれが訛って「弥助」と名付けられたのではないかとする可能性がある。「世界不思議発見」

 
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