ジーさん徘徊 富士周辺--③  岩本実相寺一切経蔵

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<岩本山の上にも茶畑が続く>

「日昭さま、、お師匠さまは、、ご病気になられたのでは、、」
日朗は、雑草を抜き、周囲の石をこまめに除いていきながら、、伯父の日昭に語りかけた、、

「どうして、そのようなことを、、夢でもみたか」
日昭は、、法衣の袖を背中で結び、、逞しい腕で鍬を振るっている、、、

「夢を見た訳ではありませぬが、、お師匠さまは、、駿河国においでになったまま、何の便りもくれませぬ、、なにかあったのでは、と、心配になります」

「日朗、今のお師匠には、、、病魔もとりつかぬわ」

日昭は、鍬の土を掘り起こすと、、腰を上げて手で汗をぬぐった、、
松葉ケ谷の草庵の近くで、、畑を耕し始めたのは、、先頃の天候不順、、洪水、、疫病、、そして、昨年の鎌倉大地震で、、都の中心鎌倉も飢饉の影響が著しい、、来年は更に厳しいという噂もあり、、自給のために小さいながら畑を耕すことにしたのだ、、。下総の実家から、かぶら菜の種も送らせた、、今では、大根、かぶら菜、ゴボウまでも作る、、なかなかのものだ、、。

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※このころの日本は
平安時代、鎌倉時代に地震多発期に入っている、、、Wiki、、、

1154年9月19日(9月26日)(仁平4年8月10日)
富山付近で地震 – 新川郡で陥没、死傷者多数。

1185年8月6日(8月13日)(元暦2年7月9日)
文治地震(元暦大地震) – M 7.4、死者多数。
法勝寺や宇治川の橋など損壊。余震が2か月ほど続く。
琵琶湖の水が北流したという記録がある。
1200年頃 地質調査によれば南海・東南海・東海地震が発生。

13世紀
1241年5月15日(5月22日)(仁治2年4月3日)
鎌倉で地震 – M 7、津波を伴い由比ヶ浜大鳥居内拝殿流失。

1245年8月19日(8月26日)(寛元3年7月26日今夜五剋)
京都で震度5以上、 破損多し

★1257年10月2日(10月9日)(正嘉元年8月23日)
正嘉地震 – M 7〜7.5、関東南部に大きな被害。
同日に三陸沿岸に津波襲来し野田海と久慈の海に津波(『岩手県沿岸大海嘯取調書』)

1293年5月20日(5月27日)(正応6年4月13日)
鎌倉大地震(永仁鎌倉地震) – M 7.1、建長寺などで火災発生、死者2万3,000人あまり、余震多発。

1299年5月25日(6月1日)(正安元年4月25日)
大阪・京都で震度5以上、南禅寺金堂倒れる。

※吾妻鏡などによれば、、
1257(正嘉元年8月23日)の鎌倉大地震により、鎌倉社寺大地震により一宇も残さず倒壊、、
同 5/18:鎌倉大地震
同 8/1 :鎌倉大地震
同 11/8:鎌倉大地震
とあるらしい、、、

ついでに、、
鎌倉大仏殿の流出に関してだが、、、Wiki,,,
鎌倉大仏は、寛元元年(1243年)に開眼供養が行われた。

大仏は、元来は「大仏殿のなかに安置されていた」

大仏殿の存在は、最近の発掘調査によっても確認されているが、、。
『太平記』に、建武2年(1335年)、大風で大仏殿が倒壊した旨の記載あり、
『鎌倉大日記』によれば大仏殿は応安2年(1369年)にも倒壊している。
津波による倒壊は、『鎌倉大日記』は明応4年(1495年)とするが、
『塔寺八幡宮長帳』などから、明応7年(1498年)9月20日(明応地震)が正しいと考証されている。
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天変地変が続く、、この時代の人心の不安を察する、、
人々は「末法」の世を感じていた、、、であろう。

「あの方」は、、、、
1257年10月2日(10月9日)(正嘉元年8月23日) の、、正嘉地震 – M 7〜7.5、関東南部に大きな被害、、鎌倉にも大きな被害を齎した、その翌年、、1258年2月、、ある意思を固めて、、駿河の国に向かったのだ、、、。

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「日朗よ、、駿河国の「実相寺」と言えば、、天台宗でも指折りの大きな寺だ、、万一のことがあれば、、寺から知らせがあるだろうさ、、心配するな、、半年ほど、とおっしゃっていたので、、そろそろ、帰ってくるぞ、、。」

日朗は、、師匠が何を求めて駿河国に向かったのか、、詳しくは知らない、、、日昭にしても、、師匠の父(貫名重忠)の、かっての領地が、遠州であったことを聴いていたので、、このたびの、妙日(重忠)の死について、、駿河国に向かった、、と思っていた。

※この時、、日昭38歳、、日朗15歳である、、日昭は下総海上郡に生まれ天台寺院に修業、、弁明と称す、叡山遊学中に「あの方」と知り合い、、建長5年4月28日「あの方」が立宗宣言した翌年に弟子となる、、日朗は、平賀(現松戸市)に1245.04.08生まれ、日昭の甥にあたる。

「あの方」が、父(貫名重忠)妙日の訃報にもかかわらず、、駿河国の岩本「実相寺」に「一切経」を閲経すべく向かってから、、半年になる、、草庵は、日昭と甥の日朗が守ることになった。
雨露を防ぐ程の、、小さな草庵であったが、、我等の法城である、、師匠が帰るまで、しっかり守らねばならぬ、、、鎌倉の辻に立つ師匠の獅子が吠えるがごとき激しい言動を思い起こすと、、身が引きしまる思いであるが、、こんな不安な日は心細い、、早く帰って欲しい、、そう、、若き日朗は思っていた、、、。
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岩本実相寺の「一切経蔵」
今だと○○大学の研究室文献なのだろうか、、国立図書館だろうか、、いや、、その方にとって天台宗岩本「実相寺」が、、今、、大きな存在なのかも知れない、、、
大集経、今光明経、仁王経、薬師経、、当時の仏教の奥義、世界観を記した文献が蔵書されていたという、、、。

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※仏教の経典を集成したものを総称して、「大蔵経」または「一切経」と呼んでいます。 経典の漢訳は、ほとんどが『大正新脩大蔵経』(下記1、2)に収録されています。(リサーチナビ;国立国会図書館)

※中国における経典の漢訳事業は2世紀後半から始まり、11世紀末までほぼ間断なく継続された。漢訳事業の進行に伴い、訳経の収集や分類、経典の真偽の判別が必要となり、4世紀末には釈道安によって最初の経録である『綜理衆経目録 』(亡佚)が、6世紀初めには僧祐によって『出三蔵記集 』が作成された。これらの衆経ないし三蔵を、北朝の北魏で「一切経」と呼び、南朝の梁で「大蔵経」と呼んだといい、隋・唐初に及んで両者の名称が確立し、写経の書式も1行17字前後と定着した。

隋・唐時代にも道宣の『大唐内典録』等の多くの経録が編纂されたが、後代に影響を与えたのは730年(開元18)に完成した智昇撰『開元釈教録 』20巻である。ここでは、南北朝以来の経典分類法を踏襲して「大乗の三蔵」と「小乗の三蔵」および「聖賢集伝」とに三大別し、そのうち大乗経典を般若、宝積、大集、華厳、涅槃の五大部としたうえで、大蔵経に編入すべき仏典の総数を5048巻と決定した。ここに収載された5048巻の経律論は、北宋以後の印刷大蔵経(一切経)の基準となった。(wikipedia)
一切経とは・・・ 仏教思想は三蔵に収まります。
即ち釈尊が説かれた「経」と戒められた「律」及び釈 尊とその弟子が「経・律」を解説した「諭」の3つで、つまり一切経6,956巻をいい、精神面はもとより天文・人文・医術・薬学・人道など社会全般のあらゆる面を説き明らかにしたもので、「仏教百科事典」とも言うべ きものです。

古来インドで出来た経文は梵文であり、これをまとめ て中国語に訳した高僧が玄奘三蔵法師達であり、日本に広めたのが鉄眼禅師です。(黄檗山宝蔵院サイトから)

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正嘉2年(1258)2月
「あの方」は、、富士川の東岸、岩本山の南麓にある「実相寺」の総門をくぐった、、冬の陽が落ちるのは早い、、すでに暮れており、あたりは、、冬の富士川下ろしの風が轟々と鳴り、、落葉が舞っていた、、。
、、37歳の時、、である、、
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<今も凛とした気持ちになる境内、この日は、誰も見当たらなかった>

実相寺は鳥羽法皇の勅願により比叡山の智印上人が如意輪観音をもって三間四面の小堂を創建したもので、、
久安年間と言われるが、十余年後のこのときは、すでにおびただしい僧坊と目を見張る伽藍(がらん)になっている、、。

時の、、実相寺の院主「道暁」は、あの「源頼朝」を兄とする「阿野全成」の五男であり、、僧となり、天台俱舎の学匠となった。
総理大臣の弟の子供で大学教授?みたいな、、偉い人だ。
プライドは高いし、気難しい。
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「この実相寺を尋ねられたは、なんの御用であろうか」道暁は静かに尋ねた、、、
しかし、、「あの方」が鎌倉において、噂の過激派、悪僧、、ということは聴いている、、。

眼光は鋭かった、、こ奴は、、なにを言うのか、、この寺への攻撃は許さぬ、、誹謗があれば、、直ちに追い返してやる、、。

「あの方」は、道暁和尚に、、深く一礼して、、
「ここ岩本実相寺は、円珍が唐より招来した一切経を格護する、天台古刹を持ち、、。末代上人が苦心の上、集められた諸経を蔵すると承っております。私は、力無き者なれど、叡山に登り、、仏法諸経の奥義にふれ、、仏智を持って国土万民の安泰を願おうとする者です、、なにとぞ、、ご経蔵の、、閲経をお許しいただきたく、お願い申し上げまする。」

太い眉、、大きな目、、自信に満ちた太い声、、丁寧な言動、、もしや、、わしの情報は過敏であったかも知れぬ、、しかし、、まだ、裏になにか包んでいることがあるか、、観測する道暁和尚である、、。

「ほう、、実相寺に閲経に見られたか、、いや、、いや、いとやすいこと、御取り計らいいたそう、、まま、、まずは、旅の疲れをとりなされ、、」

、、、、、、、、

「あの方」の取次に対応した周囲の弟子達は、驚いた、、、。
夕暮れの訪問客などに、、あの和尚が逢うはずはない、、当然、、追い返されるであろう、、、
だが、、予想に反して、、許可されてしまったのだ、、、。

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、、
「あの方」は翌日から経蔵に籠る、、、、あれから半年、、、毎日経蔵に入り、、ある時は瞑想し、、ある時は、、一心に何かを、、誦じている、、、やがて筆をとる、、

この国の現状は、、もはや、、看過することのできない事態にある、他国からの侵略の恐れもある、、危機感が、、一刻の猶予も許さないのだ、、、
休むことのない、、思索が続く、、、今の思いをどう表現すればいいのか、、どう、、理解させるべきか、、、仏智を伝えることが、私の使命に違いない、、一切経堂の中で、、昼夜を忘れた模索が続いていた、、。
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「日々の閲経でお疲れであろう、、一息おいれなされ、、」
道暁和尚は、、茶に誘う、、
「いかがかな、、宇治茶の香は、、茶は養生の仙薬」
「古くは、茶は知と読んでな、めざまし草とも言った、茶の字を解き草、人、木とも言うな、、」
「栂尾を第一にして、宇治、仁和寺、葉室、醍醐、般若寺、が茶の産地じゃ、、」

「、、、、、。」、、、、似ている、、幼名を善日麿と称して12歳のころ、安房清澄寺に修業に入った時の初めての師匠は道善房であった、、道善和尚に、、、似ている、、懐かしい思いを込めて、、「あの方」は、、この道暁和尚に大きな目を向けた、、
、、、それにしても、、この和尚は、末法の、、この現状を、、どう解決しようとしているのか、、あるいは、、この地獄とも言える、、今の事態を理解していないのではないか、、仏法が既に力を失ってしまっている、、、、、喫茶話に話題を合わせることはできなかった、、、。
静かに口元から茶碗を戻した、、、、。

「ふぉ、ふぉ、ふぉ、、、本非争いの喫茶勝負は、御僧の耳に達していないとみゆるの、、」

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建長8年より、まさに天変地変、疫病、飢餓と災いがつづき、正嘉と改元した年には鎌倉は震度7の大地震に見舞われる。鎌倉の建物はほぼ壊滅状態となり、この世の終末を思わせる災害はなお数年続いたのです。

「あの方」の燃え滾る情熱、危機感と信念は更に高まっていった。
文応元年7月( 1260年  )39歳のとき、ついに幕府に対して諫曉(建白書を提出)する。

「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変、地夭、飢餓、疫癘が遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨道に満てり、、、、、、、、。」

なぜ、このような生き地獄とも言うべき惨状になるんだろうか、しかも、この先に他国侵逼難(外国からの侵略)も予言される。どうすれば、この災いを逃れられるのか。「原因は正法に背き、悪法を信用することにある、心をあらため、速やかに実成の一善に帰せよ」と断言する。

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※妄想の域であるが、、、「あの方」は、21歳の時に12年間の叡山遊学に向かう、、その時に駿河国を通る、、近くは父の故郷であり、、領地でもあった、、山名郡貫名郷である、、父は源平合戦の後に貫名郷を追われて、、安房小湊に流配された、、一族は、まだこの地に居たのか、、、また、、師である清澄寺の道善房は、、天台宗僧侶として、、岩本実相寺と、、何らかのネットワークを持っていたに違いない、、

そうで、あれば、、、道善房は、、実相寺の道暁に書をしたためたかも知れない、、

21歳の若き「蓮長」は、、遊学の行き帰りに、、この寺に、、一宿一飯の世話になっていたかも知れない、、
また、今回の閲経についても、、同じように道善房の紹介があったかも知れない、、、

父の訃報(1258.02.14)の直後でもある、、あるいは、、父の故郷に、、一族に、、その報を伝えたかも知れない、、が、、、記録は無い、、妄想の範囲だ、、、。
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「あの方」の、、噂は広まっている、、、
この、、実相寺に、、若き「伯耆房」が求道の思いを持って、、訪れる、。
「あの方」の、、燃え滾る情熱、、それに比べ、、寺の先輩の世俗化した風潮、、情けない、、なんと自分の心の弱いことか、狭いことか、、、。
若木にも似た「伯耆房」は、、胸の高鳴りを、もはや、、抑えることはできない、、「あの方」に吸い込まれるようにして、、弟子入りするのです。鎌倉の日朗より1歳上だが、、この時は17歳であった、、。「伯耆房」、、後の、、、日興だ、、、。

※1276年(建治2年)岩本実相寺は、、学頭・智海法印により、日蓮宗に改宗し、智海法印は日源と改名する

——–書きかけです———

港 邦三 「小説 日蓮大聖人」より、アレンジ

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